漁船時代 田多 幸雄 その2
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漁船時代 田多 幸雄 その1 (編集者, 2012/12/19 7:56)
- 漁船時代 田多 幸雄 その2 (編集者, 2012/12/20 7:48)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「本船、暗礁二激突セリ」
北海道釧路沖で操業を終えた第2飯島丸はサンマを満船にして母港へ向け塩屋崎(美空ひばりの歌「みだれ髪」で有名)沖を南下中の昭和24年10月15日正午頃、私は那珂湊無線局へ「本船ハ塩屋崎灯台東方海上3海里ヲ那珂湊二向ケ帰港中、天候曇り風穏ヤカニシテ波静カナリ」 と打電し終え無線室で丼飯の昼食をとっていたその時「ドカーン」と強い衝撃を受け椅子もろとも床に叩きつけられた。無線室の外へ飛び出し海面を見ると大きな木の切れ端が後方へ流れてゆくではないか。それは船首部分の外板が剥がれた物らしい。岩に激突したようだ。船上は阿鼻叫喚でパニック状態。オモテの方から海水が噴き出している。穴が開いて海水が浸水しだした様だ。さあ大変船が沈む。乗組員はみな桶を持って海水を汲み出しているがとても間に合わない。遭難通信を出さなければならず私は操舵室の船長の許へ駆けつけた。無線室に引き返しキーを叩いた。
「第2飯島ハ塩屋崎南東2海里ノ海上デ暗礁二激突、浸水甚ダシク沈没ノ恐レアリ、救助ヲ求ム」
「了解タダチ二救助二ユク」
海岸局や付近の漁船から頼もしい応答があった。船は前方を沈めながら近くに見える陸へ向けて全速力。船を陸にのし上げ沈没を免れる船長の判断らしい。沈むが、陸に着くのが速いかの競争だ。約15分位経過しただろうか。
行く手に江名港(福島県)の突堤が見えて来た。連結を聞いて駆け付けて来た黒山の人だかりが桟橋に並んでいる。船は潜水艦が潜る格好で前部を海中に沈めながら狭い港内へ突入、桟橋の近くでエンジンルーム迄浸水し左側に傾き沈没着底した。
船が陸に寄り過ぎて暗礁に激突した海難事故だった。海上に投げ出される事なく、全員助かった。皆で無事を喜びあった。若し海が荒れ、夜間や、陸まで遠かったら、船は完全に太平洋に没し多くの犠牲者が出たかもしれないが昼間で、べ夕凪等が幸いした。「漁船遭難、全員絶望」の新聞記事にならなくて本当によかった。
着底沈没し横倒しになりかけた本船に港の堤防から幾本のロープが投げられ、船体にくくり付けられた。夜を徹して水没した船台から満載のサンマを荷揚げに全力を尽くしたが、大半は腐敗し、肥料にしかならなかった。
応急修理後、船は造船所へ陸揚げされた。一番稼ぎ時の秋刀魚漁を棒に振ってしまった。
海から陸へ
茨城県の漁師仲間と親しくなり、漁船の通信士として生きがいを感じていた或る日、故里の親父から便りが来た。
「今警察で無線通信士を募集している。船から上がって受験したらどうや」
長男であった私は親元で生活するのが一番と船を降りることに決意した。
昭和25年暮、漁を終え那珂湊港に帰港した第2飯島丸と別れを告げ2年間の漁船生活を終えた。
翌年2月警察無線に採用された。
戦後GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の指示で全国の警察を短波無線電信で結ばれ、末端の警察署にも無線電信局が開設され、無線通信士を必要としていた。
自宅近くの輪島警察署の一室に有る短波無線電信局で、勤務した。
その後、警察通信は無線電信から、超短波無線電話、マイクロ回線等々の飛躍的発展を遂げた。定年になる昭和62年まで勤めた。
危険と隣りあわせであった海の上での2年間、電鍵を叩きモールス信号で連絡しあい、漁師仲間と暮らした漁船時代が懐かしい。
青春の思い出の一齣でもある。