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漁船時代 田多 幸雄 その1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/19 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 太平洋戦争で我が国の商船は、壊滅的打撃を受けた。戦後乗る船もなく、やむなく船会社を退職し、家業の手伝いをしていた昭和24年はじめ、茨城県那珂湊で漁船の通信士をしていた弟から「兄貴、通信士が不足しとる。稼ぎもいいぞ、こちらに来て船に乗らんか」と誘いがかかった。漁船に対して不安もあったが。1月のある日、1通の電報が届いた。「フネキマッタアスコイ・ミツオ」弟の光雄からだ。
 翌日、あわただしく荷物をまとめ、古里輪島を後にした。津幡駅から夜行の鈍行列車にゆられ、早朝上野駅着。常磐線に乗り換え輪島を出てから約20時間で那珂湊へ着いた。

 駅まで出迎えてくれた弟の尻について船主のもとを訪ねた。「わしの兄貴です。今度こちらさんで雇ってもらえるそうで、よろしくお願いします」
 弟の紹介で私も一緒に頭をさげた。長火鉢の向こうにどっかと座り煙草をくわえながら船主の旦那は「そうかね、兄貴さんで。よろしく頼む。今日、船が出る。まあ一杯やるべえ」
 初対面のあいさつの後、マグロの刺身の御膳でご馳走になった。そして追い立てられるようにして、桟橋に待機していた木造の古びた100トン足らずの鮪延縄漁船第1新屋丸に飛び乗った。

船 出

 以前、乗船していた商船に比べてはるかに小さい。無線室は操舵室の下にあり、狭くうす暗い。テーブルには無線機が備え付けられていた。片隅に狭いベッドがある。今日からここが職場であり住居だ。
 沖へ出たら、船酔いが心配だ。船主や家族に見送られ船は那珂川の桟橋を離れた。太平洋へ向かって鮪延縄漁の船出だ。
 乗組みは漁労長以下漁師30人位、みな茨城県人で、よそ者は通信士の私だけだ。
 河口を出た途端に船は折からの北西の季節風による大波で大きく揺れた。大時化だ。10メートルくらいのうねりに船体は大きく上下左右に揺れ山のてっぺんから谷底へ。木の葉のように翻弄される。
 胸がむかつきだした。商船時代は、船酔いには慣れ自信もあったが、しばらく船にも乗らず約4年のブランクの為か慣れた筈の船酔いも元の木阿弥だ。無線電信による連絡どころか苦しさの余りベッドに横たわり死人同様の体(てい)たらくだ。とても起き上がれる状態ではない。
 吐きそうになる。慌てて船室から飛び出し舷側にしがみつき海に向かって吐いた。昼に食べたマグロの刺身やいろいろの物が口からグロゲロ出てくる。苦しい。部屋に戻りぐったりベッドに横になる。又吐きそうになる。部屋と外への往復の連続だ。酔っているのは私だけだ。漁師たちは見向きもしてくれない。もう駄目だ。苦しい。助けてえ。
 船の揺れは益々ひどくなる。吐いているとき波がかぶり振り落とされそうになる。海へ落ちたらこの世の終わりだ。命がけで船の緑にしがみつき吐き続けた。だんだん吐くものがなくなり黄色い胃液が出てくる。凄くにがい。最後には血を吐いた。仕事どころではない。
 漁労長が目をむき怒鳴る。「なんだ。船に酔っぱらって。この馬鹿だんべえ!」
 酔って寝転んでいる内に、鮪延縄漁が行われていた。マグロがかかっているようだ。
 一週間続いた時化もようやく治まりかけた頃、船酔いに慣れてきた。吐きと絶食で、体はふらふらになった。そして空腹を感じるようになり、大盛りの丼飯と、テンコ盛りのマグロの刺身をベロツとたいらげた。その美味しかったこと。
 船酔いに慣れ仕事が出来るようになった。酔って酷(ひど)い最中は、仕事を辞めて古里へ逃げて帰ろうと思ったのだが。

 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/20 7:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「本船、暗礁二激突セリ」

 北海道釧路沖で操業を終えた第2飯島丸はサンマを満船にして母港へ向け塩屋崎(美空ひばりの歌「みだれ髪」で有名)沖を南下中の昭和24年10月15日正午頃、私は那珂湊無線局へ「本船ハ塩屋崎灯台東方海上3海里ヲ那珂湊二向ケ帰港中、天候曇り風穏ヤカニシテ波静カナリ」 と打電し終え無線室で丼飯の昼食をとっていたその時「ドカーン」と強い衝撃を受け椅子もろとも床に叩きつけられた。無線室の外へ飛び出し海面を見ると大きな木の切れ端が後方へ流れてゆくではないか。それは船首部分の外板が剥がれた物らしい。岩に激突したようだ。船上は阿鼻叫喚でパニック状態。オモテの方から海水が噴き出している。穴が開いて海水が浸水しだした様だ。さあ大変船が沈む。乗組員はみな桶を持って海水を汲み出しているがとても間に合わない。遭難通信を出さなければならず私は操舵室の船長の許へ駆けつけた。無線室に引き返しキーを叩いた。

 「第2飯島ハ塩屋崎南東2海里ノ海上デ暗礁二激突、浸水甚ダシク沈没ノ恐レアリ、救助ヲ求ム」
 「了解タダチ二救助二ユク」
 海岸局や付近の漁船から頼もしい応答があった。船は前方を沈めながら近くに見える陸へ向けて全速力。船を陸にのし上げ沈没を免れる船長の判断らしい。沈むが、陸に着くのが速いかの競争だ。約15分位経過しただろうか。

 行く手に江名港(福島県)の突堤が見えて来た。連結を聞いて駆け付けて来た黒山の人だかりが桟橋に並んでいる。船は潜水艦が潜る格好で前部を海中に沈めながら狭い港内へ突入、桟橋の近くでエンジンルーム迄浸水し左側に傾き沈没着底した。
 船が陸に寄り過ぎて暗礁に激突した海難事故だった。海上に投げ出される事なく、全員助かった。皆で無事を喜びあった。若し海が荒れ、夜間や、陸まで遠かったら、船は完全に太平洋に没し多くの犠牲者が出たかもしれないが昼間で、べ夕凪等が幸いした。「漁船遭難、全員絶望」の新聞記事にならなくて本当によかった。
 着底沈没し横倒しになりかけた本船に港の堤防から幾本のロープが投げられ、船体にくくり付けられた。夜を徹して水没した船台から満載のサンマを荷揚げに全力を尽くしたが、大半は腐敗し、肥料にしかならなかった。
 応急修理後、船は造船所へ陸揚げされた。一番稼ぎ時の秋刀魚漁を棒に振ってしまった。


 海から陸へ

 茨城県の漁師仲間と親しくなり、漁船の通信士として生きがいを感じていた或る日、故里の親父から便りが来た。
 「今警察で無線通信士を募集している。船から上がって受験したらどうや」
 長男であった私は親元で生活するのが一番と船を降りることに決意した。
 昭和25年暮、漁を終え那珂湊港に帰港した第2飯島丸と別れを告げ2年間の漁船生活を終えた。
 翌年2月警察無線に採用された。 
 戦後GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の指示で全国の警察を短波無線電信で結ばれ、末端の警察署にも無線電信局が開設され、無線通信士を必要としていた。
 自宅近くの輪島警察署の一室に有る短波無線電信局で、勤務した。
 その後、警察通信は無線電信から、超短波無線電話、マイクロ回線等々の飛躍的発展を遂げた。定年になる昭和62年まで勤めた。
 危険と隣りあわせであった海の上での2年間、電鍵を叩きモールス信号で連絡しあい、漁師仲間と暮らした漁船時代が懐かしい。
 青春の思い出の一齣でもある。
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