轟沈一太平洋戦争の体験談- 鹿島 博
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轟沈一太平洋戦争の体験談- 鹿島 博 (編集者, 2012/12/29 9:53)
- 轟沈一太平洋戦争の体験談- 鹿島 博 その2 (編集者, 2012/12/30 8:40)
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投稿日時 2012/12/29 9:53
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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オイッ起キロ!!
いきなり拳骨で、頭を殴られた夢で目が覚めた。何がなんだか分からなかったが、枕もとのライフジャケットを掴み、部屋を飛び出た。途端、轟音とともに爆風で体が宙に飛んだ。
無我夢中でパッセージを突っ走り、船の右舷デッキに出たら、海上は一面火の海だ。米国の潜水艦の魚雷にやられたのだ。爆発と同時に、積荷のガソリンが飛び散って燃え出したのりである。デッキの上の兵隊達はパニック状態になっている。次から次へと火の海へ飛び込んでゆく。
私は焼け死ぬぞと思い、反対側の左舷デッキへ走っていった。幸い、こちら側は火がまわっていない。海は真っ暗だ。右舷同様、兵隊達はパニック状態だ。泣いている者、「畜生!!俺はこれで二度目だ」と怒鳴っている者、銃を持ったまま飛び込んでゆく者などなどだ。
船は右舷後方がやられたらしい。船尾から沈んでゆく。船首の方が高く持ち上がり、左舷側に傾いて、手摺が私の背の高さ位まで競り上がっている。
船は沈む時、猛烈な勢いで水を吸い込む。巻き込まれたらおしまいだ。早く船から離れなけれならない。がむしゃらに手摺に登り、渾身の力で遠くへ跳んだ。
一瞬、子供の頃、母と一緒に大友のお稲荷様へお参りに行ったことが頭をかすめた。
ツーンと海水が鼻を刺激して我に返り、夢中で泳いだが前に進まない。
振り返ったら、船尾は海中に没していて船首は高くなっている。デッキの上の兵隊達は、バラバラ落ちてゆく。積んであった上陸用舟艇も、もんどりうって兵隊達と一緒に落ちてゆく。鉄がぶつかり合う音、人間が舟艇に挟まって潰される異様な叫び声などがごっちゃになって頭に響く。マストや手摺にしがみついて、助けを求めている人たち。船から流れ出た油が赤く燃えていて、此の地獄絵を否応無くあぶりだしている。
突然、船は生き物のように、ギューツつと鈍い音を立てて、船首を持ち上げたと思ったら、そのまますっぽりと海中へ沈んでいった。なんとあっけない最期。魚雷にやられてから沈む迄、三分足らず。轟沈だ。
この話は、昭和十九年一月三十日、午前二時頃、私が南太平洋で体験したものである。此の時、私はまだ学生で、実習中だった。
昭和十九年は太平洋戦争の末期で、戦争の主導権は米国が握り、日本軍は負け戦ばかりだった。世界に誇った日本の商船はみな沈められてしまった。残ったのは小型のポロ船ばかり。そのポロ船も軍に徴用されていたので、実習はポロ船以外に無いのである。
日本軍は、ラバウルなどの最前線基地を放棄してしまった。後退してアドミラルティ島に基地を作るべく、兵員や資材を送るのだが、ことごとく沈められて到着しない。
最後の手段として、ポロ船二隻で船団を組み、いきなりアドミラルティ島に座礁させて船を橋頭壁にして基地を作る作戦だった。
その一隻、岡田商船所属、東晃丸二千七百トンの小船に、私が五十円の手当てで乗せられたのである。パラオで六百名ほどの兵隊が乗ってきた。小さな船は兵隊で溢れかえった。
一月二十九日の朝、基地司令官が船に来て、「生きて帰れると思うなよ」と言って、私達の遺髪と爪を封筒に入れさせて持って帰っていった。そのあとすぐ出帆した。
船団は護衛艦として、駆逐艦一隻、三百トン足らずの木造の鰹船を改造した特殊駆潜艇一隻がついた。駆逐艦は三十日の朝、つまり明朝、パラオへ引き返すことになっていた。その夜半過ぎ、私の船は沈められたのである。