@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

轟沈一太平洋戦争の体験談- 鹿島 博

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/29 9:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

----------------------------------------------------

 オイッ起キロ!!
 いきなり拳骨で、頭を殴られた夢で目が覚めた。何がなんだか分からなかったが、枕もとのライフジャケットを掴み、部屋を飛び出た。途端、轟音とともに爆風で体が宙に飛んだ。

 無我夢中でパッセージを突っ走り、船の右舷デッキに出たら、海上は一面火の海だ。米国の潜水艦の魚雷にやられたのだ。爆発と同時に、積荷のガソリンが飛び散って燃え出したのりである。デッキの上の兵隊達はパニック状態になっている。次から次へと火の海へ飛び込んでゆく。

 私は焼け死ぬぞと思い、反対側の左舷デッキへ走っていった。幸い、こちら側は火がまわっていない。海は真っ暗だ。右舷同様、兵隊達はパニック状態だ。泣いている者、「畜生!!俺はこれで二度目だ」と怒鳴っている者、銃を持ったまま飛び込んでゆく者などなどだ。

 船は右舷後方がやられたらしい。船尾から沈んでゆく。船首の方が高く持ち上がり、左舷側に傾いて、手摺が私の背の高さ位まで競り上がっている。

 船は沈む時、猛烈な勢いで水を吸い込む。巻き込まれたらおしまいだ。早く船から離れなけれならない。がむしゃらに手摺に登り、渾身の力で遠くへ跳んだ。

 一瞬、子供の頃、母と一緒に大友のお稲荷様へお参りに行ったことが頭をかすめた。
 ツーンと海水が鼻を刺激して我に返り、夢中で泳いだが前に進まない。
 振り返ったら、船尾は海中に没していて船首は高くなっている。デッキの上の兵隊達は、バラバラ落ちてゆく。積んであった上陸用舟艇も、もんどりうって兵隊達と一緒に落ちてゆく。鉄がぶつかり合う音、人間が舟艇に挟まって潰される異様な叫び声などがごっちゃになって頭に響く。マストや手摺にしがみついて、助けを求めている人たち。船から流れ出た油が赤く燃えていて、此の地獄絵を否応無くあぶりだしている。

 突然、船は生き物のように、ギューツつと鈍い音を立てて、船首を持ち上げたと思ったら、そのまますっぽりと海中へ沈んでいった。なんとあっけない最期。魚雷にやられてから沈む迄、三分足らず。轟沈だ。

 この話は、昭和十九年一月三十日、午前二時頃、私が南太平洋で体験したものである。此の時、私はまだ学生で、実習中だった。
 昭和十九年は太平洋戦争の末期で、戦争の主導権は米国が握り、日本軍は負け戦ばかりだった。世界に誇った日本の商船はみな沈められてしまった。残ったのは小型のポロ船ばかり。そのポロ船も軍に徴用されていたので、実習はポロ船以外に無いのである。

 日本軍は、ラバウルなどの最前線基地を放棄してしまった。後退してアドミラルティ島に基地を作るべく、兵員や資材を送るのだが、ことごとく沈められて到着しない。
 最後の手段として、ポロ船二隻で船団を組み、いきなりアドミラルティ島に座礁させて船を橋頭壁にして基地を作る作戦だった。

 その一隻、岡田商船所属、東晃丸二千七百トンの小船に、私が五十円の手当てで乗せられたのである。パラオで六百名ほどの兵隊が乗ってきた。小さな船は兵隊で溢れかえった。

 一月二十九日の朝、基地司令官が船に来て、「生きて帰れると思うなよ」と言って、私達の遺髪と爪を封筒に入れさせて持って帰っていった。そのあとすぐ出帆した。
 船団は護衛艦として、駆逐艦一隻、三百トン足らずの木造の鰹船を改造した特殊駆潜艇一隻がついた。駆逐艦は三十日の朝、つまり明朝、パラオへ引き返すことになっていた。その夜半過ぎ、私の船は沈められたのである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/30 8:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 生存者は私を含めて、百名足らずだった。幸運にも、その引き返す駆逐艦に助けられてパラオへ生きて帰ることができた。不運にももう一隻の船と特殊駆潜艇は、その日の夕方、敵の機動部隊に襲われて全滅してしまった。

 話は飛ぶが、私達は三月十五日、大勢の遭難船員、従軍看護婦、兵隊や引揚邦人達と宇品港へ帰ることができた。入港と同時に検疫があり、その後解散式だ。
 大地を踏んだ安堵の喜びは束の間、私の名前が遭難者名簿に無い。脱走兵として調べられた。解散式が終わる頃、やっと放免になった。

 こんな訳で、私に支給する物品はないらしい。結局、パラオで支給された、今着ている着古した陸軍の軍服と、五百円の遭難手当及び衣料切符だけで、帰路に着いた。

 船舶司令部の門を出て、やっと晴ればれした気持ちになった。広島駅まで電車に乗った。乗客達はみんな清楚な服装だが、緊急の場合、すぐ対応できる姿だ。私とみれば、着古した兵隊用の外套だ。襟や袖口は擦り切れて、毛はなく変色している。幸いその下に着ている半袖の上衣や半ズボンの防暑服は外から見えないが、膝から下の脛は丸出しだ。履いている地下足袋はこはぜのあたりが綻びていてはまらない。我ながら恥ずかしくなった。

 駅近辺の店へ立ち寄ったが、衣料切符があっても、タオル一本買えない。仕方なくそのままの姿で汽車に乗った。遭難手当があるので、懐中はホクホクだ。生還の喜びも手伝って、二等車に乗ったら、車掌に「三等へ行け」と言われて怒髪天をついた。

 実習状況報告のため、目黒の学校へ行ったら、教官が私を見て「なんだ、その格好」となじるような目付きだったが、理由が分かったらあきれていた。

 故郷の新発田へ着いた時、道の両側にはまだ高く雪が残っていた。これから母の泣き面を見なければならないのかと思いながら、玄関の戸を開けた。

 昭和十八年五月二十七日海軍記念日に、海軍省、文部省、逓信省、厚生省、情報局の後援で、関東の大学・高専の『水上練兵大会』が隅田川・言問橋附近の艇庫であった。各校の応援合戦は猛烈なものだった。大会の華はカッター競技で、本校は惜しくも二位だった。泣きながら悔し紛れに川へ飛び込んだ。二枚の写真はその時のものである。

         (平成十九年二月一日 記)


  条件検索へ