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遺しておきたい事がある 元塩釜漁業用海岸局長 鈴木 周造 その2

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通常 遺しておきたい事がある 元塩釜漁業用海岸局長 鈴木 周造 その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/4 8:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 第1回目ラバウルに行く時は無事目的を達成し、帰国に当たっては兵員150名乗せパラオに届ける。この時は3隻の船団で途中までは一緒だったがスコールが1時間以上継続し、雨が止んだら他の2隻はてんでんばらばらになって仕舞った。本船は帰国の途中正確な位置不明、指揮官が船長に訊ねてもはっきり答えてくれないので、今度は私にパラオと連絡をとるよう要請があったが、危険海域航行中は受信機にスイッチを入れることが禁じられている位だから簡単に回答できない。夕方まで自重して貰い、古い乱数表で電文を組みパラオ通信隊に開戦後はじめてキーを叩く。返事は変更になった暗号書で「タンショウトウを空向け照らすから」それに向けて走れ、本船の現在位置では光線が届かない。夜が明けても島が見えない。午後1時頃待望の島がかすかに見える。これで安堵しパラオに無事入港した。一緒に船団を組んだ中の1隻がリーフに乗り上げて動けなくなっていた。戦時中キーを握ったのはこれがはじめてで、通信長は何のために乗船しているのか判断に苦しむ。

 第4回目の遭難、戦況は大本営発表と異なりどこの戦場も、敗走を続け敗戦は時間の問題となる。昭和20年5月4日午後3時本船は釜山南港を○○に向うため揚錨中、米国の下駄ばき機1機悠々と空中散歩、本船を目がけて爆弾投下、船の中央部のエンジンルームを直撃、スカライキの窓から船底を突き破って海中へ。私はブリッジが危険なので、タラップを降りて普通船員の食堂に退避した。爆撃を受けた時、腰に掛時計が飛んで来てあたり動けなくなる。陸上から状況を見ていた人達がポートで乗組員を運ぶ。

 私は釜山の陸軍病院に運ばれ軍医の診断を受け、第4腰椎骨折絶対安静ということで毛布をぐるぐる巻にし背中に入れる。ギプスも作らずに2週間陸軍病院にいて、あなたは海軍関係だからと、鎮海に移送されることになり汽車で海軍病院に送られる。ベットでは横を向けないので、まっすぐ上をむいた儘1日も早く回復できるよう治療に専念する。はじめ食事は普通食だったが、船舶運営会の係りを呼んで士官食に改めさせる。約2ケ月鎮海に居て釜山に1週間位滞在し、後遺症を治療中のところ、母国に帰る連絡を受けたので、泥船みたいな船で8月13日午前釜山を出港し2日がかりで仙崎に人選する。

 やれやれやっと母国の地を踏む。翌朝新潟行きの汽車に乗り直江津付近で終戦を知る。新潟駅のホームで1夜を明かし16日午後故郷にたどり着き涙の対面をする。

 この遭難の記事は極めて簡単だが、4度も死線を越えた例はあまり聞かない。第1と第3の例は表現がうまくないが、極限に達する前に助かったが、ダホされたり海中に沈んだら、この世の人ではなかった。

 終戦後故郷で某商船から生活に足る給料の送金なく、無収入の儘後遺症の回復に努める。戦前南氷洋捕鯨で若干貯えがあったのを取り崩して凌いだが苦しかった。生活の保証もして呉れない某商船に義理がないので、地元に残ることにした。

 石巻無線局の加藤局長さんに、再三乗船を勧められ意を決して、宮城県海洋調査船共栄丸に乗船する事となった。共栄丸は1年2ケ月後安房水産に売却され乗組員全員職を失う。折角乗船したのに残念ながら失業の身となる。しかし少しも慌てない。

 偶々塩釜に無線局が開設するという話を聞いた。早速関係者に就職について相談の結果採用が決まった。私の年は40歳、油が乗り切るという言葉の通り勇躍赴任した。電波が国民の手に解放された記念すべき日、昭和25年6月1日選任届けを提出した。最後の仕事は、塩釜、気仙沼及び石巻の3局を統合一本化して、日本一の無線局を石巻に創設する。時に昭和56年7月1日である。

 (平成15年6月24日/記)

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