遺しておきたい事がある 元塩釜漁業用海岸局長 鈴木 周造
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- 遺しておきたい事がある 元塩釜漁業用海岸局長 鈴木 周造 (編集者, 2013/1/3 8:09)
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投稿日時 2013/1/3 8:09
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
昭和16年12月8日『新高山登れ』の合図で開戦、その時乗福丸は奄美大島の名瀬に停泊、本間兵団はフイリッピンに向い敵前上陸を敢行した。
次は今村兵団はジャワに向かい日本海軍は(米)ヒーストン巡洋戦艦と交戦、ヒーストンは火ダルマになって戦力を失い航行不能になり全滅。今村兵団は難なく敵前上陸に成功し進撃を続ける。
第1回目の遭難は、昭和18年某月某日午後10時頃、光晴丸(8500屯)は朝鮮巨文島近海を船首右前方に微風を受けながら航行を続ける。濃霧、視界50米足らず。その時突如ドスンと敵潜水艦の攻撃を受け第2船艙に魚雷が命中する。救命ボート2隻のうち1隻が使用可能、他の1隻は口ープが切れるかして使用不能。このほかに小さなボートが使用可能。船長の退船命令は聞きとれなかった。私は、先に離船したボートに乗り遅れた乗組員を集め、全員で小さなボートに移乗する。
光晴丸は徐々に沈みはじめ、全員が移乗するのを待って本船から離れる。50米ぐらい前は霧のため見えない。点呼したところ11名に私を交えて12名、指揮をとる士官がいるかどうか訊ねた所、甲板員と機関員の中に誰も士官がいないので私が指揮をとることにした。離船して5分程経過したときイギリスの潜水艦が沈没確認のため浮上、何やらしゃべっている。万一拿捕されれば捕虜になるか銃殺されるかも知れないので、船員帽の白のカバーをはずし姿勢を低くして緊張が続く。霧は依然として濃く光晴丸の姿なし。いつの間にか潜水艦も遠ざかる。
運は天にまかすという言葉がぴったりすることが起こった。それはアテもなく漂流をはじめた。何日漂流をつづけなければならないか誰にも分からない。運が悪ければ最悪の事態も考えられる。朝と昼の食事をとらず漂流は続く。午後2時30分霧が薄くなって来た。ふとボートの後ろに島が見えて来た。元気を出して島に近づく。視界は広くなり4~5名の者がハンカチを振って来い来いをする。接岸すると光晴丸の乗組員だった。ボートには船食が積んであり少々分けて貰う。夜になって濃霧がしずくになって身体をぬらす。蚊は服の上から射すので一睡もせずに夜を明かす。翌朝大きい方のボートで陸の救助機関に救助を求める。やがて陸からお巡りさん、消防士さん、お医者さん、その他が島にやって来て無事救出された。死線は乗り越えたが次に乗る船が決るまで待機することとなった。
第2回目の遭難はラバウル港内で起きた。昭和19年某月某日、日本の港を出てから途中潜水艦の襲撃を受ける事なくラバウルに入港する。無事人選して積荷を降ろす準備中に敵11機が侵入し本船に襲いかかり、最後の1機が投下した爆弾が命中浸水する。
その時胸部を強打し呼吸困難となりラバウル通信隊宿舎に落ち着いた。毎晩空襲警報に悩まされる。船を失ったので自力で帰国することが出来ない。約1ケ月滞在していた所、通信隊からラバウルを出港する日産汽船の日愛丸に便乗が決る。この船がラバウル最後の船とのこと心細く悲しかった。
第3回目の遭難は、昭和19年某月某日午前10時ラバウルを出港しパラオに向う。夜10時30分頃敵機の襲撃を受け、爆弾は機関部に命中、船はストップする。漂流に入って1時間位に空中魚雷らしきものの襲撃を受けるも魚雷は船首前方100米位を通過し難を逃れる。一応難を逃れても再度襲撃があるかも知れないので船長は退船命令を出す。
私は縄梯子を伝って海水を飲まないよう注意しながら海中へ。身体は汐に流され船尾の方に20米位流されたところで、沈みかけた小さなボートに7~8名がしがみついていた所に引き揚げて貰った。1人で浮遊して朝まで持つ自信がないので、このポートは私にとって命綱なので絶対離さなかった。午前1時前に海中に入ったときはたいして寒さを感じなかったが赤道付近でも朝方は冷えて来た。日愛丸を護衛している駆潜艇に収容されたのは5時40分頃だった。気付けにウイスキー少々飲まされ一命をとりとめた。海中に身を投じたときは何も考えなかった。夜が明けて無人の筈の自愛丸が沈まず皮肉にも浮いていた。パラオからは船便が多く内地に帰還する。1ケ月の間に2度も遭難すると言う憂き目に会った。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
第1回目ラバウルに行く時は無事目的を達成し、帰国に当たっては兵員150名乗せパラオに届ける。この時は3隻の船団で途中までは一緒だったがスコールが1時間以上継続し、雨が止んだら他の2隻はてんでんばらばらになって仕舞った。本船は帰国の途中正確な位置不明、指揮官が船長に訊ねてもはっきり答えてくれないので、今度は私にパラオと連絡をとるよう要請があったが、危険海域航行中は受信機にスイッチを入れることが禁じられている位だから簡単に回答できない。夕方まで自重して貰い、古い乱数表で電文を組みパラオ通信隊に開戦後はじめてキーを叩く。返事は変更になった暗号書で「タンショウトウを空向け照らすから」それに向けて走れ、本船の現在位置では光線が届かない。夜が明けても島が見えない。午後1時頃待望の島がかすかに見える。これで安堵しパラオに無事入港した。一緒に船団を組んだ中の1隻がリーフに乗り上げて動けなくなっていた。戦時中キーを握ったのはこれがはじめてで、通信長は何のために乗船しているのか判断に苦しむ。
第4回目の遭難、戦況は大本営発表と異なりどこの戦場も、敗走を続け敗戦は時間の問題となる。昭和20年5月4日午後3時本船は釜山南港を○○に向うため揚錨中、米国の下駄ばき機1機悠々と空中散歩、本船を目がけて爆弾投下、船の中央部のエンジンルームを直撃、スカライキの窓から船底を突き破って海中へ。私はブリッジが危険なので、タラップを降りて普通船員の食堂に退避した。爆撃を受けた時、腰に掛時計が飛んで来てあたり動けなくなる。陸上から状況を見ていた人達がポートで乗組員を運ぶ。
私は釜山の陸軍病院に運ばれ軍医の診断を受け、第4腰椎骨折絶対安静ということで毛布をぐるぐる巻にし背中に入れる。ギプスも作らずに2週間陸軍病院にいて、あなたは海軍関係だからと、鎮海に移送されることになり汽車で海軍病院に送られる。ベットでは横を向けないので、まっすぐ上をむいた儘1日も早く回復できるよう治療に専念する。はじめ食事は普通食だったが、船舶運営会の係りを呼んで士官食に改めさせる。約2ケ月鎮海に居て釜山に1週間位滞在し、後遺症を治療中のところ、母国に帰る連絡を受けたので、泥船みたいな船で8月13日午前釜山を出港し2日がかりで仙崎に人選する。
やれやれやっと母国の地を踏む。翌朝新潟行きの汽車に乗り直江津付近で終戦を知る。新潟駅のホームで1夜を明かし16日午後故郷にたどり着き涙の対面をする。
この遭難の記事は極めて簡単だが、4度も死線を越えた例はあまり聞かない。第1と第3の例は表現がうまくないが、極限に達する前に助かったが、ダホされたり海中に沈んだら、この世の人ではなかった。
終戦後故郷で某商船から生活に足る給料の送金なく、無収入の儘後遺症の回復に努める。戦前南氷洋捕鯨で若干貯えがあったのを取り崩して凌いだが苦しかった。生活の保証もして呉れない某商船に義理がないので、地元に残ることにした。
石巻無線局の加藤局長さんに、再三乗船を勧められ意を決して、宮城県海洋調査船共栄丸に乗船する事となった。共栄丸は1年2ケ月後安房水産に売却され乗組員全員職を失う。折角乗船したのに残念ながら失業の身となる。しかし少しも慌てない。
偶々塩釜に無線局が開設するという話を聞いた。早速関係者に就職について相談の結果採用が決まった。私の年は40歳、油が乗り切るという言葉の通り勇躍赴任した。電波が国民の手に解放された記念すべき日、昭和25年6月1日選任届けを提出した。最後の仕事は、塩釜、気仙沼及び石巻の3局を統合一本化して、日本一の無線局を石巻に創設する。時に昭和56年7月1日である。
(平成15年6月24日/記)