私の記憶 鈴木忠男
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私の記憶 鈴木忠男 (編集者, 2013/1/5 7:31)
- 私の記憶 鈴木忠男 その2 (編集者, 2013/1/6 7:59)
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投稿日時 2013/1/5 7:31
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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昭和20年4月16日に入隊することになっていた。当時、私は名古屋から横須賀の海軍工廠へ徴用されていた横須賀の兄の家から講習所へ通っていたので、そこから入隊することにしていた。その前夜、横浜、川崎京浜方面の空襲があり、東海道線も横須賀線も大船より東京方面は全線不適になっているとの事であった。徒歩で行く覚悟で朝五時に家を出た。横須賀線は大船駅で降ろされたが、なんとしても入隊しなければと決心して線路伝いに歩くことにした。戸塚、保土ヶ谷と横浜に近くなるほど空襲の悲惨な状況が目に入ってくる。
横浜から大井、大森あたりでは線路上に焼け焦げた死体が折り重なって凄まじい限りであったが、なんとしても入隊時間に遅れまいと頭が一杯。どうしたらよいのか、考えた末に横浜で憲兵隊の所在を聞いて証明書を貰っていこうと決めた。先を急いでいると、たまたま同じ教室の友達に会った。証明書の話をして二人で憲兵隊を探し当て、遅隊証明書を手に入れ、少しは気が楽になった。
後はただ赤坂の連隊を目指してひたすら歩くのみ。昼近くになったが、弁当など持っているわけもなく、腹はすくし、足も痛いが、ただひたすら一刻も早く入隊しなければと、思うのみ。途中、横浜で水道管が爆破されて水が流れ出している場所がところどころあったので、二人はその水で空腹をしのぎながら夕方に品川駅に着いた。暗くなって赤坂の連隊本部にやっとたどり着くことができた。そこには、やはり遅れてきた仲間が三名いた。明朝、勤務隊の北多摩通信隊へ送られる事になり、連隊の夕食を食べさせて貰い、泊まることになった。その時食べた軍隊食のうまかったことは六十年たった今、飽食の時代にも忘れることはない。
私達遅れた五人の者は朝早くに引率されて、田無の北多摩通信隊へ入隊することになった。隊につくと既に入隊式が始まっていた。すぐに軍服を貸与され列に加わった。式後各自が内務班に分けられ、班長から訓示をうけた。班長は少年通信学校出の十八歳の伍長だった。その夜から就寝前の班長によるしごきが始まった。今まで経験したことのない厳しいもので、帯皮で尻が紫色になるほどたたかれた。入浴に行って他の班もやられたことがわかったが、お互いにどんな理由でやられたのか、わからなかった。ただ婆婆気があると言うだけの事だったらしい。一夜明けて作業開始と共に厳しい通信訓練がはじまった。ここでも木刀が待っていた。夜、毛布に入ると中央線八王子方面からかすかに聞こえてくる汽笛に、なんとも悲しい思いをしたことを覚えている。
朝になると、軍事訓練、通信術訓練と矢継ぎ早の厳しい訓練が続き、あっと言う間に一週間が過ぎ、十日が過ぎた。殴られることにも、少しは堪えられるようになっていたが、辛く苦しい事ばかりで、「志願をしてくる馬鹿もある」と歌われる歌が現実である事に切ない思いをしたのを覚えている。しかしお国のためだ、戦争に勝つためだ、と自らに言い聞かせ、頑張った。今にすれば、ただ気力だけの日々であった。この事は戦後60年経った今も、気力だけは人に負けない心算であり、戦後の苦しい時も、今現在もこの気力で生きているような気がしている。