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私の記憶 鈴木忠男

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2013/1/5 7:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和20年4月16日に入隊することになっていた。当時、私は名古屋から横須賀の海軍工廠へ徴用されていた横須賀の兄の家から講習所へ通っていたので、そこから入隊することにしていた。その前夜、横浜、川崎京浜方面の空襲があり、東海道線も横須賀線も大船より東京方面は全線不適になっているとの事であった。徒歩で行く覚悟で朝五時に家を出た。横須賀線は大船駅で降ろされたが、なんとしても入隊しなければと決心して線路伝いに歩くことにした。戸塚、保土ヶ谷と横浜に近くなるほど空襲の悲惨な状況が目に入ってくる。

 横浜から大井、大森あたりでは線路上に焼け焦げた死体が折り重なって凄まじい限りであったが、なんとしても入隊時間に遅れまいと頭が一杯。どうしたらよいのか、考えた末に横浜で憲兵隊の所在を聞いて証明書を貰っていこうと決めた。先を急いでいると、たまたま同じ教室の友達に会った。証明書の話をして二人で憲兵隊を探し当て、遅隊証明書を手に入れ、少しは気が楽になった。

 後はただ赤坂の連隊を目指してひたすら歩くのみ。昼近くになったが、弁当など持っているわけもなく、腹はすくし、足も痛いが、ただひたすら一刻も早く入隊しなければと、思うのみ。途中、横浜で水道管が爆破されて水が流れ出している場所がところどころあったので、二人はその水で空腹をしのぎながら夕方に品川駅に着いた。暗くなって赤坂の連隊本部にやっとたどり着くことができた。そこには、やはり遅れてきた仲間が三名いた。明朝、勤務隊の北多摩通信隊へ送られる事になり、連隊の夕食を食べさせて貰い、泊まることになった。その時食べた軍隊食のうまかったことは六十年たった今、飽食の時代にも忘れることはない。

 私達遅れた五人の者は朝早くに引率されて、田無の北多摩通信隊へ入隊することになった。隊につくと既に入隊式が始まっていた。すぐに軍服を貸与され列に加わった。式後各自が内務班に分けられ、班長から訓示をうけた。班長は少年通信学校出の十八歳の伍長だった。その夜から就寝前の班長によるしごきが始まった。今まで経験したことのない厳しいもので、帯皮で尻が紫色になるほどたたかれた。入浴に行って他の班もやられたことがわかったが、お互いにどんな理由でやられたのか、わからなかった。ただ婆婆気があると言うだけの事だったらしい。一夜明けて作業開始と共に厳しい通信訓練がはじまった。ここでも木刀が待っていた。夜、毛布に入ると中央線八王子方面からかすかに聞こえてくる汽笛に、なんとも悲しい思いをしたことを覚えている。

 朝になると、軍事訓練、通信術訓練と矢継ぎ早の厳しい訓練が続き、あっと言う間に一週間が過ぎ、十日が過ぎた。殴られることにも、少しは堪えられるようになっていたが、辛く苦しい事ばかりで、「志願をしてくる馬鹿もある」と歌われる歌が現実である事に切ない思いをしたのを覚えている。しかしお国のためだ、戦争に勝つためだ、と自らに言い聞かせ、頑張った。今にすれば、ただ気力だけの日々であった。この事は戦後60年経った今も、気力だけは人に負けない心算であり、戦後の苦しい時も、今現在もこの気力で生きているような気がしている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/6 7:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 一ケ月程の初年兵教育を受け、北多摩通信隊の中にある陸軍中央通信調査部高速班に配属になった。勤務所に連れて行かれたが、大きな通信機がずらりと並び、モールス信号の音が高速のため、トロロトロトロとしか聞こえず、さっぱり解らない。どうなる事かと、あたりを見るとカセットテープのような紙のテープが印字機を通っており、信号の印字されるスピードが速いので、あっと言う間にテープが山のように吐き出されてくる。そのテープのモールス信号を見てタイプライターで電文にするのだ。勿論英文で六文字ずつキレイに打たれている、タイプしている間に吐き出されたテープを巻き取り機で巻き取って整理する。この一連の仕事を一人でこなしていかなければならないとの事。こんなことが今の俺にできるかと、一瞬呆然としていた。今日は見学だけで明日から勤務に就けとの事。死ねと言われるほうがまだましだと思った。勤務に就いているのは、殆どが軍属から徴兵で兵隊になった二等兵。我々はなんにも知らなくても一等兵。階級に従えと言われても彼等に頭を下げて教えを請うより仕方がない。仕事ができなくて殴られても、もう慣れていると覚悟を決めて、明日からの勤務に就くことにして眠った。

 内務斑から通信所までは約2キロ離れているので、いろいろと考えながら戦友と二人で通信所へ向かった。6年程ここにいるという遠藤上等兵から通信機の扱いと、印字機、タイプライター、電報用紙、印字テープ等についての扱いについて訓辞があった。すぐに実践せよとのことだが、出来るはずがない。もたもたしていると、上等兵がとても無理のようだから、印字されて出てくるテープをタイプのブリッジに架けてタイプせよとの事。タイプするだけならなんとかなるだろうと挑戦してみたが、練習した時はど指が動かない。それでも一生懸命タイプするが、今度はテープがますます山のように溜まって行く。「テープの処理をしないか」と、怒鳴られる。巻き取りも難しくなかなか思うようには出来ない。そのうち昼飯の時間になり、他の兵隊はテープを流して見ながら食べているが、自分にはそんな暇などない。出てくるテープの始末とタイプするのに全力で、飯など食っている時間など全くない。夢中でやっている間に午後6時になる。勤務交代の時間だが、電報の整理も出来ず、テープの整理も出来ていない。自分の勤務時間内に出た電報は全部片付けて交代することになっている。その日何とか終わったのは夜八時過ぎだった。やっと解放され急いで内務班に帰ったが、夜の点呼整列で、とうとう昼も夜も飯にありつけず空腹のまま点呼でしごかれて就寝。こんな日が何日か続いた。一週間の勤務時間は日勤、前夜、後夜とあり、前夜の時は朝、昼、夜と食事をしてからの勤務で、後夜は夜中の十二時交代なので何とか食事は出来、日勤の時だけはそれでも昼食だけ抜けばやってゆけるようになった。二週間ほどは無我夢中で過ぎていったが、残念ながら自分が受信している電報の中身はなんであるか、サッパリわからない。恐る恐る遠藤上等兵に聞くと、アメリカと垂慶間で交信している外交電報で、自分が取っていたのはアメリカ・サンフランシスコから送信されているものを傍受しているとのこと。重要な情報源であると、事の重大さに驚いた。

 やがてひと月ほどが経過して、受信先が変わり、グァム島から送信される米軍の全艦船向け放送電報を取ることになった。これは暗号ではなく英文そのままなので、大阪を空爆したとか、日本の艦船を何処何処で沈めたとか連日そんな情報を傍受していた。月曜日はグァム島の米軍は日曜日になるので、一日中電報は送信されず自符がでていた。

 「NPMツートントツーツートンツーツー」今も記憶から離れることはない。日本では月月火水木金金と日曜日など忘れていたのに、日曜日に休んでいる米軍の余裕に脅威を感じた。

 しばらくして7月25日真夜中、アメリカの傍受をしていた先輩通信兵がポツダム宣言を受信し、所内にざわめきが起きた。そのざわめきの覚めやらぬ早朝、憲兵隊のサイドカーが到着と同時に全員集められた。厳しい口止めと同時に本日より外出は禁止。外泊者は帰隊命令と全員足止めになった。それから3、4日は勤務を続けたが、8月に入ると、大量にあった受信資料の焼却、アンテナの撤去作業、通信機材の破壊撤去、何がなんだか解らぬままに撤去作業で半月程が過ぎ15日の終戦を迎えた。その日の夕方、隊長が自決されたと知らされた。自分たちはその日のうちに全員帰郷せよとのことで、中央線八王子駅まで歩き翌朝名古屋へ帰る事となった。

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