私の記憶 鈴木忠男 その2
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私の記憶 鈴木忠男 (編集者, 2013/1/5 7:31)
- 私の記憶 鈴木忠男 その2 (編集者, 2013/1/6 7:59)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
一ケ月程の初年兵教育を受け、北多摩通信隊の中にある陸軍中央通信調査部高速班に配属になった。勤務所に連れて行かれたが、大きな通信機がずらりと並び、モールス信号の音が高速のため、トロロトロトロとしか聞こえず、さっぱり解らない。どうなる事かと、あたりを見るとカセットテープのような紙のテープが印字機を通っており、信号の印字されるスピードが速いので、あっと言う間にテープが山のように吐き出されてくる。そのテープのモールス信号を見てタイプライターで電文にするのだ。勿論英文で六文字ずつキレイに打たれている、タイプしている間に吐き出されたテープを巻き取り機で巻き取って整理する。この一連の仕事を一人でこなしていかなければならないとの事。こんなことが今の俺にできるかと、一瞬呆然としていた。今日は見学だけで明日から勤務に就けとの事。死ねと言われるほうがまだましだと思った。勤務に就いているのは、殆どが軍属から徴兵で兵隊になった二等兵。我々はなんにも知らなくても一等兵。階級に従えと言われても彼等に頭を下げて教えを請うより仕方がない。仕事ができなくて殴られても、もう慣れていると覚悟を決めて、明日からの勤務に就くことにして眠った。
内務斑から通信所までは約2キロ離れているので、いろいろと考えながら戦友と二人で通信所へ向かった。6年程ここにいるという遠藤上等兵から通信機の扱いと、印字機、タイプライター、電報用紙、印字テープ等についての扱いについて訓辞があった。すぐに実践せよとのことだが、出来るはずがない。もたもたしていると、上等兵がとても無理のようだから、印字されて出てくるテープをタイプのブリッジに架けてタイプせよとの事。タイプするだけならなんとかなるだろうと挑戦してみたが、練習した時はど指が動かない。それでも一生懸命タイプするが、今度はテープがますます山のように溜まって行く。「テープの処理をしないか」と、怒鳴られる。巻き取りも難しくなかなか思うようには出来ない。そのうち昼飯の時間になり、他の兵隊はテープを流して見ながら食べているが、自分にはそんな暇などない。出てくるテープの始末とタイプするのに全力で、飯など食っている時間など全くない。夢中でやっている間に午後6時になる。勤務交代の時間だが、電報の整理も出来ず、テープの整理も出来ていない。自分の勤務時間内に出た電報は全部片付けて交代することになっている。その日何とか終わったのは夜八時過ぎだった。やっと解放され急いで内務班に帰ったが、夜の点呼整列で、とうとう昼も夜も飯にありつけず空腹のまま点呼でしごかれて就寝。こんな日が何日か続いた。一週間の勤務時間は日勤、前夜、後夜とあり、前夜の時は朝、昼、夜と食事をしてからの勤務で、後夜は夜中の十二時交代なので何とか食事は出来、日勤の時だけはそれでも昼食だけ抜けばやってゆけるようになった。二週間ほどは無我夢中で過ぎていったが、残念ながら自分が受信している電報の中身はなんであるか、サッパリわからない。恐る恐る遠藤上等兵に聞くと、アメリカと垂慶間で交信している外交電報で、自分が取っていたのはアメリカ・サンフランシスコから送信されているものを傍受しているとのこと。重要な情報源であると、事の重大さに驚いた。
やがてひと月ほどが経過して、受信先が変わり、グァム島から送信される米軍の全艦船向け放送電報を取ることになった。これは暗号ではなく英文そのままなので、大阪を空爆したとか、日本の艦船を何処何処で沈めたとか連日そんな情報を傍受していた。月曜日はグァム島の米軍は日曜日になるので、一日中電報は送信されず自符がでていた。
「NPMツートントツーツートンツーツー」今も記憶から離れることはない。日本では月月火水木金金と日曜日など忘れていたのに、日曜日に休んでいる米軍の余裕に脅威を感じた。
しばらくして7月25日真夜中、アメリカの傍受をしていた先輩通信兵がポツダム宣言を受信し、所内にざわめきが起きた。そのざわめきの覚めやらぬ早朝、憲兵隊のサイドカーが到着と同時に全員集められた。厳しい口止めと同時に本日より外出は禁止。外泊者は帰隊命令と全員足止めになった。それから3、4日は勤務を続けたが、8月に入ると、大量にあった受信資料の焼却、アンテナの撤去作業、通信機材の破壊撤去、何がなんだか解らぬままに撤去作業で半月程が過ぎ15日の終戦を迎えた。その日の夕方、隊長が自決されたと知らされた。自分たちはその日のうちに全員帰郷せよとのことで、中央線八王子駅まで歩き翌朝名古屋へ帰る事となった。