戦後七十年 河田 宏 みどりのかぜ<第39巻>より 2 東京大空襲
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戦後七十年 河田 宏 1 みどりのかぜ<第39巻>より (編集者, 2016/7/7 8:32)
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戦後七十年 河田 宏 みどりのかぜ<第39巻>より 2 東京大空襲 (編集者, 2016/7/8 7:43)
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戦後七十年 河田 宏 3 みどりのかぜ<第39巻>より 3 戦災孤児 (編集者, 2016/7/9 7:43)
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私には忘れられない光景がある。浦和に疎開してまもない三月十日の東京大空襲の光景だ。夜中にたたき起こされて外に出ると、南側の東京方面が真っ赤に燃えていた。帯状に炎々と燃え広がっている。音が聞こえたかどうか覚えていない。周囲の大人たちは大声で叫びながら見ていたが、私はあまり恐怖を感じなかったような気がする。空襲が日常になっていたからだろうか。
この日、午前〇時過ぎからB29爆撃機一五〇機(大本営発表一三〇機、米軍発表では二七九機)が東京下町一帯を、最初は大きな楕円形に焼夷弾を落として火網を作り、その内側に大量の焼夷弾を投下したのだ。死者はわかっているだけでも九万二七七八名。負傷者おおよそ四万人。羅災者一〇〇万といわれている。
その日の夕方から夜にかけてであろう。親戚の人たちが線路伝いに歩いて続々と浦和のわが家に避難してきた。上野から浦和までは約二〇キロである。誰もが焼け焦げた防空頭巾をかぶり、顔は煤で真っ黒であった。父の兄弟も上野と深川にいたので、全部で二七名になったことは覚えている。さして広くないわが家は人でいっぱいになった。
その翌日か二日後であったと思う。省線電車(現JR)はもう上野まで動いていた。父は私と一歳年上の従姉を連れて上野まで出た。そして高台にある上野駅プラットホームに降り立ったときの光景はいまも脳裏に焼き付いている。なにしろ、隅田川が見えるのである。一面の焦土に点々とあるのは焼けなかった鉄筋コンクリートの建物と土蔵。そして四角い小さな塊り。後でわかったのだがそれは金庫だった。
上野駅前は焼け出された人でいっぱいであった。地べたに座り込んで汽車に乗れるのを待っているのだ。誰もが焼けただれた衣服をまとい、顔は煤でマックロ。御徒町の方向に歩いていくと道のど真ん中に大きな黒焦げの屍体が横たわっていた。私は足がすくんで歩けなくなってしまった。そのとき父親に思いっきり横っ面をひっぱたかれた。それから屍体のごろごろと、場所によっては何人か積み重ねてある道を厩橋方向に歩いていくうちに黒焦げの屍体に慣れてきた。というか無感覚になってきた。私の手をしっかり握っていた従姉の手に、女の手は柔らかいなと思ったりした。
敗戦から三四年後に講談社から『昭和万葉集』が出版された。その「巻七 焦土と民衆」に当時をまざまざと思い出す歌があった。
石炭にあらず黒焦の人間なり
うづとつみあげトラック過ぎぬ
原爆被爆者 正田篠江
この歌を読んだとき、焼死体を積み上げたトラックが上野の山に向かって、一台また二台と行く光景をありありと思い出した。手や足が荷台からはみ出していたのである。