戦後七十年 河田 宏 3 みどりのかぜ<第39巻>より 3 戦災孤児
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戦後七十年 河田 宏 1 みどりのかぜ<第39巻>より (編集者, 2016/7/7 8:32)
- 戦後七十年 河田 宏 みどりのかぜ<第39巻>より 2 東京大空襲 (編集者, 2016/7/8 7:43)
- 戦後七十年 河田 宏 3 みどりのかぜ<第39巻>より 3 戦災孤児 (編集者, 2016/7/9 7:43)
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戦争が終わったとき、野坂昭如は私と同年の中学三年生であった。彼は神戸の空襲で焼け出されて母は焼死し、三歳の妹と二人きりになってしまった。父は軍人で生死不明。『火垂(ほたる)の墓』は戦災にあってから、妹を栄養失調で死なせてしまったまでの日々を、関西弁のねばつこい文章を読点だけでえんえんと綴っていて、読んでいると何とも切ない思いになってくる。彼は浮浪児になった。本書はフィクションであるが、現実もこの本に近い体験をしている。彼の伝記は『行き暮れて雪』に詳しい。
彼も私も満州事変の年に生まれ、日中戦争の始まった年に小学校に入り、五年生のとき日米戦争が始まる。幼少年期は戦争しか知らなかった。そして彼は敗戦の廃墟に放り出された。彼が戦中派でもなく戦後派でもなく、焼跡闇市派と称する所以である。彼は飢えで死んでしまった妹のことを書いた。もっと何かしてやれたであろうことも。
あの戦争で両親を失った孤児、親類縁者からも見捨てられた孤児と海外からの引揚孤児、捨て子を合わせると一二万三五一〇人いた。うち戦災孤児が二万八二四八人いる。ただしこれは昭和二三(一九四八)年の政府統計であって、記録に残らない孤児がかなりいたのではないかと思われる。
私は東京が焼け野原になったのに、そして頻繁に上野に行っていたのに、戦争が終わるまで戦災孤児の存在に気が付かなかった。気付いたのは敗戦後である。上野に出ると駅構内から地下道にかけてたくさんいた。幼い子から小学校高学年ぐらいの子が、汚れたポロポロのシャツ一枚で小さなカンカラを持って小銭を求めたり、食べ物を貰ったりしていた。どの子も髪の毛ボウボウで、手足は垢で黒く汚れていた。夜になると地下道の両側に小さく蹲って寝ていた。
そのあいだを通るとき、私とさして歳の違わないその子たちに、どうしようもなく気持ちが疼いた。どうしてよいかわからない。何もできない。逃げるようにそこを立ち去るしかなかった。私は逃げたのであろう。そうなのだ。本を読みはじめた私は、本を読むことに没入した。そこには未知のすばらしい世界があった。しかし後ろめたい気持ちはいまも心底にある。
戦災孤児については戦後史のなかであまり語られてこなかった。考えられる理由は、一九五一年のサンフランシスコ講和条約締結まで、日本はアメリカ占領下にあったので、爆撃被害の報道は制限されていたからである。日本政府も適切な対応をしていない。主権が回復しても、軍人軍属の補償は積極的に行ったが、戦災被害者に対してはほとんど何もしていない。まして声を上げることのできない戦災孤児については黙殺といってもよい対応を続けていた。
戦災孤児自身が声を上げるにはあまりに幼かつた。成人してからもその日々は苛酷だったので、自ら語り出し得なかったのであろう。子供のとき親を見失ったときの不安ほど恐ろしいことはない。
その恐ろしさがずっと続くのが孤児である。「身無し子(みなしご)」として社会から差別される。
そういうことを付度できなかった私自身が恥ずかしい。老境に入ったいま、忸怩たる思いはいろいろあるが、少年のころ浮浪児に後ろめたい気持ちを抱いた自分が、結局は何もしてこなかったことが恥ずかしい。
これが私の戦後七十年断想である。
戦争だけはしてはいけない。戦争に正しい戦争なんてないのである。いま日本の津々浦々では、
日本を戦争のできる国にしようとしている安倍総理に反対する運動が盛り上がっている。