朝鮮人の友、布施辰治弁護士 犢川 曹 京植 2 みどりのかぜ<第39巻>より
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朝鮮人の友、布施辰治弁護士 犢川 曹 京植 1 みどりのかぜ<第39巻>より (編集者, 2016/8/22 17:49)
- 朝鮮人の友、布施辰治弁護士 犢川 曹 京植 2 みどりのかぜ<第39巻>より (編集者, 2016/8/30 17:47)
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(つづき)
一九五三年に彼が腸癌で亡くなると、彼の出身地宮城県石巻の曙南公園には、地元の井内石で造った彼の顕彰碑を建てた。その碑には、彼の常の座右銘であった「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」が刻まれているという。
報勲処では義烈団員であった金祉燮(一八八四~一九二八、建国勲章大統領章)と朴烈(一九〇二~一九七四、建国勲章大統領章)の弁論も布施弁護士の功績に認めた。金祉燮は、一九二四年一月、日本の宮城に入る二重橋に爆弾を投げて日本全体を驚かせた。彼は無期懲役を下されて服役中、二八年、獄中で四四歳で殉国した。
一九二六年、朴烈は金子文子と一緒に暗殺を謀議の嫌疑で起訴された、以前から朴烈を知っていた布施弁護士は、朴烈の法廷闘争で力を尽くして助けた。朴烈は二二年二カ月間の獄中生活を耐え忍び、一九四五年一二月七日、秋田刑務所から出獄する。朴烈に感銘を受けた布施弁護士は、一九四六年『運命の勝利者朴烈』という本を出した。
ここで朴烈と金子文子の活動についてちょっと触れることにする。
一九二三年九月二日、関東大震災が起きた翌日、日本警察は、朴烈と金子文子らを自警団の危害の虞があるので保護する、との名分で連行した。事実のこと、これは日本政府がこの惨事を契機に、労働運動家、社会運動家などを不穏な社会悪として一切検挙、一掃する次元で展開した政策の一環であった。
結局朴烈と金子文子ら十六人の「不逞社」会員は、社会団体を結成、労働運動に関与したり、無政府主義傾向の社会主義運動など、反日運動まで展開しているとの理由で強制連行された。後に爆弾を搬入を計ったとの情報が取られ、主導者である朴烈と金子文子が大逆罪を企てた容疑者に企てた。しかし日本検察が、皇太子結婚式に爆弾投擲を企図したとの事件にむりやりに嫌疑を被せると、布施弁護士は根拠無しとして無罪を弁護する。
朴烈と金子文子カップルの裁判は日本社会に大きな衝撃と反響を呼び起こした。金子文子は、日本の社会制度を無政府主義者らしい視点で分類、説明した。第一階級=皇族、第二階級=大臣及び他の実権階級、第三階級=民衆に分けて、「皇族は政治の実権者である第二階級が、無知な民衆を欺瞞するため捏造した、かわいそうなお人形または木偶に過ぎないと思います」と陳述し、大きな反響を呼び起こした。
朴烈の同志であり、情人であった金子文子の法廷での態度は革命家の妻として、また無政府主義社会運動家として、真撃であり献身的面貌が見られると、布施弁護士も評したことがある。
ところが、朴烈は日本警察に連行されてから検察に移送された以後にも審問に一切応じなかった。保護のため検束された自身を警察が問招する権限がないとして、ただ一枚の調書も残さなかった。警察令により拘留を宣告された後には、既決因に対して問招されることがあれば、拘留を解除して問招に応じると堪えた。検察の審問に対しても現行犯でないかぎり、強制審問を受ける理由はないとして「聴取書」一枚残さない機智を発揮した。
彼は予審判事を相手に次のような内容で男児の気概をみせた。「私は、そなた(判事)の質問の答えを通じて、我が祖国朝鮮を強奪した強盗日本に対する不当性を、日本国民と日本天皇に伝えたいのである。我が民族はこのような日本の強盗行為を憎悪するため、この後も何時、誰かが私のようなことの企画しないと保証できないということを判事を通じて日本天皇に通告するのである。朝鮮民衆の絶叫を側めず、一日もはやく我が祖国朝鮮を返遺してほしい。そうでないと何時かは必ずひどい目にあうことを伝えて置きたい」といった。布施弁護士は朴烈の堂々とした態度、とうてい二四、五の若者と見られない風格に魅了された。
ついに朴烈は死刑に直結する短審最高特別裁判に臨んで、沈着ながら力強い声で四つの条件を要求して担当判事を困らせた。それについて法院側と弁護人との何度かの協議をかさね熟議した結果、二つの要求は受け入れられた。これは布施弁護士の努力の結果であろう。
一、私は被告ではなく、朝鮮民族の代表として、日本天皇の代わりの裁判官と同等な資格で法廷に立つ。裁判官が天皇の代わりに法官の法衣を着て出て来たのだったら、私は朝鮮民族の代表として紗帽冠帯(サモクァンデ・官吏の揃いの礼冠礼服)を着用する。
二、裁判官が審譲を始める前、朝鮮民族の代表として、本人が先に本法廷に出た趣旨の宣言することを先約すること。らであった。
結局、朴烈は法廷で罪囚服の代わりに、紗帽冠帯(サモクアンデ)を着て、りりしい姿で登場する。これは法廷史上、空前絶後のことであった。当時の新聞に写真とともに特筆大書したのである。
布施辰治弁護士は、朴烈の人品、整然として透徹した論理と揺るぎない愛国心、何にも屈しない気迫、丈夫らしい男児だった、その姿に魅了され、二十年知己として協力してきた。
朴烈の論理整然であり堂々とした態度に予審判事は勿論担当検事まで、朴烈カップルが好きになり、一緒に写真を撮ったりしたが、これが言論に露呈され、野党からこのことが持ち出され問題となった。大逆罪人を優待するとの攻勢で判・検事が去ったり、司法相が退いた波紋を起こした事もあった。
一九二六年三月一日、最後判決を控え、朴烈と金子文子の獄中結婚が、布施辰治弁護士の周旋で行われた。そして三月二五日、死刑宣告を受ける。死刑宣告が下ると、金子文子は急に座席から飛び立ち「万歳!」と叫んだ。法廷はあわただし雰囲気に化した。ところが朴烈は「裁判官、その間ご苦労した。しかし私の肉体だけはあなたたちが殺すかわからんが、私の精神はどうしようもないだろうな?」と、勝手な言葉つきではあるが平気な態度で無遠慮にいった。
四月五日、死刑宣告を受けてから十日後、刑務所所長が「これは天皇陛下が下した減一等の無期懲役の恩賜章だ」と、いいながら朴烈らに恩賜章を差し出した。朴烈は嘲笑する目つきでそのままもらった。しかし金子は、所長が恩賜章を差し出すと、素早くそれをもらいたちまちちぎれちぎれに破って捨てるではないか。所長は驚いて、すぐ朴烈がもっている恩賜章を回収してしまう。
金子は自分の鬱憤を吐き出し、彼女の遺言でもない遺言となった「天皇の名でどうせ死刑を下したら、それで済むものの、それを再び恩賜章だの何だのといいながら、人間の命を篭絡するものか! 朴烈の妻としてこの文子、すでに私が選んだ朝鮮になげうった道だったが、体も心も全てを奪われた無期懲役の日本監獄で、これ以上生きたって何の意味があるものか! むしろ死んで、その意を夫の朴烈に伝え、自分の骨を朝鮮の土に埋めて欲する。全てのことを朝鮮のため捧げると、何時かは誰かがその意を理解してくれるのではないだろうか」と叫んだ。
朴烈と別途に宇都宮刑務所に収監された彼女は一九二六年七月二三日、監獄の中で死体に発見された。非常に若い芳年二三歳であった。彼女の遺体は不逞社会員たちにより、慶尚北道聞慶市の朴烈の兄のところに移された。今は麻城面梧泉里、朴烈義士の記念館の入り口で永眠している。
大逆罪の嫌疑を受けている朴烈らの弁論は、どの面では日本の国体を否定することもあるので、
すごい剣幕の日帝治下での法廷闘争は、彼としては命懸けての闘争であった。彼は良心にしたがい沈黙されず、憤然として生涯を弱者の側で戦った。
では今まで、韓国で布施辰治弁護士の功績が認められなかったわけは何であろう。これに対して学界では、布施辰治弁護士の、日本帝国に抵抗する社会主義者・無政府主義者の弁護などの活動により、日本政府の否定的見方、たとえば社会主義者として見る傾向があるので、当時、共産主義として戦っている韓国としては彼を敬遠視したのは事実であったと見ていたからであろう。今になって再照明することになっているが。嘉泉大学アジア文化研究所の李教授は、彼はマルクス・レーニン思想に心酔した共産主義者ではなくて、国や民族、思想を越えて、社会的弱者と被植民地民族のため渾身の力をしぼって助けただけであった。たとえば博愛主義者に近いだろう、と見ている。
布施辰治の外孫である大石進は、二〇〇七年、日本で開かれた「布施辰治展示会」で「重要な事は朝鮮民族の尊厳に同感する弁護の論理と被告たちが納得するまで争うとの姿勢であった」といいながら、彼は「学生たちが書いた独立宣言が輝かしいもので、より民族の尊厳を主張しながら終わりまで戦った事実を歴史に残す必要があった」と付け加えた。
布施辰治弁護士
布施弁護士の顕彰碑