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前島密賞受賞記念講演予定原稿

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2022/7/25 6:18 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

前島密賞受賞記念講演予定原稿(*) 若宮正子
2022年4月6日

一九三五年四月生まれ、あと一〇日ちょっとで、八十七歳になります。日本式にいいますと今年が米寿ということなのですが、実感はありません。
もの心ついたころには、日本は戦争に向けて進んでいました。
私より一年年上の子どもは「尋常小学校」に入学したのですが、私が入学した前年から「国民学校の初等科」と名前も変わり、教科書もすべて軍事色の濃いものに変えられておりました。そしてその前年の十二月八日、太平洋戦争が始まりました。
一九四四年になりますと本土空襲が現実のものとなり、灯火管制で部屋の電灯に黒い布をかぶせた暗い部屋で夜を過ごすことになりました。空襲警報、警戒警報はサイレンでした。
ところでそんな中での「私たちと情報通信」についてですが、当時は、情報通信機器としましては「ラジオ」だけでした。その時期、都市部では約半数の家庭でラジオを持っていたといわれています。
JOAK(NHK東京放送局)のニュース、・・・ああニュースという言葉は戦争末期には「敵性語」で、横文字語は使用を禁じられていたのです。「報道」のアナウンサーは「報道班員」と言わなくてはならなかったのですが。ニュースでは「はじめは外電から・・リスボン発同盟」という枕詞をよく耳にしました。当時、ポルトガルは中立国だったからなのですね。
空襲警報が発令され「東部軍管区指令発令」とラジオで放送されますと、防空壕へ入らなくてはなりませんでした。防空壕は庭に掘った穴に板をかぶせたものでした。
そして、戦争が終わったことも私たちはラジオの「玉音放送」で知りました。駅の掲示板には「本日、正午より重大放送があるので必ず聞くように」という貼り紙があったのを確かに見ました。といいますのがラジオについての思い出です。
そのころは、電話は、特別な人しか持っていませんでした。ですから急ぎの連絡はすべて「電報」でした。カナ文字一字がいくらという料金体系でしたので、如何に短くて意味の通る文言にするかで皆さんしのぎを削っていました。「カネオクレイサイフミ」というような感じです。
電報を打つためには、郵便局へ行って頼信紙に書き込んで受け付けてもらう、郵便局員さんが、慣れた手つきでモールス信号を送信しておられる姿を子供ながら「かっこいいな」と思って見ていました。
電報は、都市部ですと二~三時間後に配達されました。真夜中にドンドンと戸を叩き「ナントカさーん、電報です」と言われると、家族一同ドキッとしたものです。
大学入試などの「合格」を知られてくれるのも電報でした。合格は「サクラサク」、不合格電報のなかには「津軽海峡波高し」などのよう文学的なものもありました。
戦争後、急に何かが変わったわけではありませんでした。ただ、ラジオに関してはJOAKのほかに「進駐軍放送」が入ってきたことでしょうか。当時のラジオは分離性能が良くなかったので、また一段と聴き取りにくくなりました。
「あなおかし 並4球の悲しさよ ジャズが歌舞伎に乗ってくる(また聞きで不正確かもしれませんが)」という都都逸を目にしたことがありました。  また、子供たちの間では「鉱石ラジオ」を自作する子も出てきました。
日本にテレビが登場したのは一九五三年だそうですが、当時は自宅で見るものではなく、お蕎麦屋さんなどが客寄せのために置いているのを見せてもらうのが普通でした。
一九五〇年代後半になって、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電三品目が「三種の神器」となっていましたが、テレビは特別高価なものでしたので庶民は「割賦販売」で買っていました。家電各社は、いずれも「割賦販売会社」を持ち、ここを通じて販売していました。一九五九年の現在の上皇様のご成婚のパレードを一家そろってご近所のお宅で観させていただいた我が家でも、テレビを割賦で購入いたしました。月々の割賦代金は三千円というのが一般的でした。
一九七〇年でカラーテレビを持っている家は三十%に過ぎませんでした。でも一九六四年の東京オリンピックを機に、徐々に普及し始めたようです。
さてまた電話の話になりますが、この時期になりますと一般家庭でも「電話を引く」ということの便利さに気がつき始め、電電公社(現在のNTT)へは申し込みが殺到するようになりました。しかし、庶民にとって「電話を引く」ということの壁はまだ高かったのです。といいますのは、申し込んでから数年は待たされるのが普通でしたし、数十万円の「電電債」を義務付けられていましたから、それを購入するための資金も調達しなくてはなりませんでした。もちろん電話料も高く、市外電話などは、よくよくの時にしか掛けませんでした。
以上が、戦後復興期の、庶民から見た広い意味での情報機器との付き合いの歴史です。
いずれにしましても、こんな人生を送れたのも、インターネットや数々の通信情報機器のお陰です。近代郵便制度、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、通信という近代社会のインフラを構築してくださった前島密様に因んだ賞をいただけたことを誠に光栄に思っております。
本日は私の拙い話を長なながとお聞きいただきありがとうございました。

(*)本原稿は、授賞式当日本人体調不良で欠席のため読まれることはなかったが、通信文化協会様の会報誌「通信文化」に掲載の予定となりました。
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