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団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどってNo.1幼年時代‐昭和20年代

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/23 6:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 
 小学校5年生の時の思い出というと、なんと言っても、伊勢湾台風のことだ。私が10歳の時(1959年:昭和34年)に東海地方を襲った。
 9月の台風の被害は甚大だった。

(右の写真は、アコードさんのブログからお借りしました)



 風速36mの風の中、家が傾いてしまったので、両親が1km離れた鉄筋コンクリート校舎のある稲沢沢高校に避難しようということになった。家族と隣の家の人たちと一緒に歩き始めた。突然
隣の家の4歳になる、名前は忘れたけど、女の子が消えた。風に飛ばされてしまったのだ。約100メートル先の畑の中に落下したのだった。それほどの強風にあおられたのだった。


 その年は、私の小学校・稲沢西小学校で、鉄筋コンクリート校舎が増設建築が完工した年で、愛知県の海部郡の水没地域の飛島小学校の生徒たちの疎開避難を受け入れ、一緒に勉強したことを今でも、覚えている。


 とにかく大変な災害だった。(2年前の3.11は、それをはるかに凌ぐ、大災害だ。被災者の方々のお気持ちは、私の思いの何倍だろうかと今でも思う。)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/25 0:01
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
閑話休題。
実は、そろそろ、中学年時代の事を書こうと思っていたのだが、
私事で恐縮、先日、築25年の家をリフォームして、思い切って、
2つのトイレをウオッシュレットにした。
そこで、想い出したのが、小学校時代のトイレの話。


当時は、未だトイレとは言わないで、便所とか、厠といった。
勿論、水洗便所なんかなくて、ボットン、ボットンの便所が当たり前の時代だった。汚い話だが、当時は、糞尿が農家の畑のいい肥し、となった時代で、農家のオジサンが学校の便所の汲みとりに両てんびん棒を担いでチャップン、チャップンと、やってきた姿を今でも夢に見る。


そんな時代の、農家世帯は50%を超えており、勿論、我が家
も農家で、よくお袋が、畑のそばを通る時は、肥だめに落ちないよう注意しなよ、と言ってくれた。肥だめというのは、農家にとっては糞尿が、いい肥料になるまで、時間がかかるので、畑の横の道路わきに水槽(今でいうプールのようなもの)を作ってそこに、半年ぐらい寝かすのが常だった。そうすると、その表面は、カバカバの皮のような皮膜が覆って、そこに肥だめが、あるのがわからない。



そこでだ、小学校の低学年の遠足と言えば、歩きで1kmぐらいの所にある・・・公園などに行って、お弁当を食べて帰るのだが、
帰り道、村の子は、決してそんなことはないが、町場の子に限って、一人か二人、必ず肥だめに落ちる子がいた。そうなると担任の先生は、大変、その子を、肥だめから、引き出し糞尿にまみれた着ているものを、近くの農家の井戸水を借りて洗い流す作業、それはもう大変なものだった。臭くて、子供ながらに先生は、大変だと思った。


イラスト・酒井だんごむし  アメーバブログ『だんごむしの社交場』より


だから、私は、先生が向いてると言われたが、学校の先生には、ならなかった次第である。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/28 23:39
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
昭和35年(1960年)の4月に私は、稲沢中学校に入学した。クラス分けがあって、何組だったかはよく覚えていない。でも、小学校の時と違って、こりゃ、勉強しないと追いついてゆけないかな、と感じたのは、英語の授業の時だった。abcから覚えたのだが、いろんな英文が出てくると、英語にも何か法則があって、自分で理解できるのかと思いこみ、いろいろ試したけど、結局のところ、覚えるしかないと悟った。


                                                                               (日図協HPより転載)




Jack&Bettyの教科書を自宅に持ち帰り、必死に復習をする様になった。そしたら面白くなって、一学期の期末試験で、満点が取れた。
それまでは、勉強の嫌いな子だったのが、だんだん勉強が面白くなって、他の教科も勉強するようになった。


小学校の時は、クラスの真ん中くらいだったのが、中学では、2,3番になり、ますます勉強が面白くなった。でも、あんまり勉強ばかりしていると、友達から、ガリ勉と言われ仲間外れにされるので、たまには、友達の冗談に付き合った。


友達は、早熟で、俺はあの子が好きだとか、おまえは誰がいいのかとか聞かれるけど、まだピンとこない。すると、おまえの彼女は、あの子だよ、ほら、おまえの隣の席のHさんだよと言われ、その気になってしまった。


でも、口がきけない、恥ずかしくて。確かH家具屋の娘さんだった。今頃、どうしているのだろう。いい旦那と添い遂げているのかな? 確かにあのときは、ほのかな恋心というものを感じた。
初恋の思い出である。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/9 23:27
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
昨今は、いじめや、体罰を不可とする風潮で、連日、マスコミも
批判の筆を緩めないようです。
確かに、柔道女子の反乱は、止むをえないことだった。日本柔道の
今後の世界での失地回復には役立つものと思うが、体罰そのものは
決してなくならないと思う。躾には付き物だから。いじめも然り。
この世から決していじめは無くならないと、思う。

さて、昭和37年(1962年)は、ファイティンング原田が世界チャンピッンになった年である。
私の中学2年の時。1年の時に入ったクラブが演劇部で、2年の担任がその顧問だった。ある日のこと、運動場にいたら、校舎の窓から呼ばれた。行ってみたら、なんと先生に往復びんたを食らった。というのは、2年の時に、サッカー部が創設されたので、皮肉なもので、運動神経の鈍い私が、逆に運動部に憧れ、サッカー部にも入部してしまったのだ。それを担任は、許せなったのだろう。二重登録を。でも私は、痛みを感じなかった、というかなんとなく、先生の気持が、わかるような、気がした。



3年生の時は、演劇部で卒業記念講演で、シェイクスピアの「リア王」のケント伯爵の役を振られ、何とか失敗しないでその役を演じ切った。それが私に、小心者の私に自信というものを植え付けてくれたのだと今でも思っている次第である。



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/12 23:37
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
昭和30年代は、流行歌全盛の時代だった。昭和38年(1963年)は、
私の故郷の先輩、舟木一夫が「高校三年」で鮮烈なデューを飾った年だった。私たちは、中学の三年生だったが、みんなでよくこの歌を口ずさんだものだ。歌詞のとおり「フォークダンスの手を取れば・・・」
本当に、「・・・黒髪に」酔いしれた?


時代は右肩上がりの高度成長期の真っ盛り、黒四ダムが完成し16インチのカラーテレビが20万円台を切り、世はまさにクレージーキャッツの植木仁の歌のとおり無責任時代に突入しようとしていた。
農業も「三ちゃん農業」の言葉に象徴されるように農村から若手労働力は、都市へ、都会へ囲い込まれて、産業分野では工業化の波が襲いつつあった頃だった。


学校もそろそろ、進学コースと就職コースに分かれ始めていた。
私もてっきり就職するものと決めていたのだが、担任が高校進学を勧めてくれた。それでも普通校を受験する前に、中部高等専門学校の試験を受けて、技能工の道を進むはずだった。試験に合格して手続きをする段になって、また担任が経済的に高校を出るのは大変だけど、それを乗り越えて大学に進めば、アルバイトで何とかなると
普通科の進学高校を薦めてくれた。


中学時代の悪ガキ仲間の8人がいたが、そのうち大学まで行ったのは、私を含め4人。全員が高校までは出た。大学進学率が50%を超えるのは、昭和の40年代に入ってからだった。


中学3年時代の思い出は、キリがない。その中でも忘れられないのは、私の母の不慮の事故死と、その時、なにくれとなく私のことを
気遣ってくれた同級生のM.&M.さんのことだった。
私もM.&M.(旧姓)で二人はなんとなくウマがあって、仲がよかった。恋愛感情程のものはなかったが、よく弁当のおかずを交換しあったりの、他愛のない男子生徒と女子生徒のやりとりだった。
今頃、彼女どうしているんだろう。・・・。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/18 23:56
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
昭和39年(1964年)私は、愛知県は、一宮高校に無事、入学できたのだった。中学では二、三番の成績が、なんと高校では、真ん中よりも後ろ、ショックだった。このままでは、みんなに着いてゆけないのではと心配をした。



歌謡界では、ザ・ピーナッツが、西郷輝彦、園マリが「何も言わないで」を唄った年だ。ライシャワー大使が少年に刺されたり、ビートルズNo.が日本に上陸、柴田翔が「されど我らが日々」を発表、「愛と死をみつめて・・・マコ、ごめんね・・・」が流行った年だった。



なんとなく1年が過ぎ、高校の2年生では、いまでも時々夢の中に出てくるS先生(英語の)が、担任だった。よく先生のご自宅に伺って、昼食をごちっそうになったりしながら同級生と議論をした。
僕より、頭のいいS君が何か、哲学的な事を話出すと、どうしてか、僕は、反発して、意地悪な質問をしたりして彼を困らせたものだ。



高校2年生の時が、私にとっては、青春時代の真ん中だった。恋もした。サッカー部がなくて、止むなく水泳部に、昨年入って、夏の間は、よく合宿をして、鍛えられた。倫理の何先生だったかは忘れたけど、彼女と授業中にふざけ合っていたら、チョークが飛んできた。



その彼女とは、デートをする約束をしたある日のことだった。朝、電報が届いた。僕の家には、未だ電話がなくて、彼女はやっとのことで、電報を使って、急用ができ、会えないと言ってきたのだ。
そんな彼女の気持ちがわからなくて、僕は、腹を立てて、もう彼女なんか付き合えないんだと決めてしまった。なんと残念なことをしたのかと今でも後悔している。ms.k.n.さん、今頃どうしてる?ずっと音信不通・・・。



2年から3年になっても、クラス替えがなく、担任は、変わったけど、クラス仲間は同じ。彼女と何とかよりをもどそうと、焦ったけど。もうどうにもならない。講堂で何かのイベントがあった時、舞台のの袖で、彼女が手を振っているのを、僕に向かって振っているものと勘違いして、彼女に近づいたところ、なんと彼女は、僕の後方にいた、S君に手を振っていたのだ。全くバツが悪かった。



昭和39年(1964年)は、とにかく色々あった年だった。ソニーの家庭用テープレコーダーが発売されたり、横須賀に米原潜が寄港したのでおおきな
デモがあった。何よりのトピックは、東京オリンピックが開催されたことだった。この年にテレビのカラー放送が始まり、高度成長は順風満帆に船出したのである。




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