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終戦の頃の思い出

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/5 21:15
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【終戦の頃の思い出】平成16年8月5日
思い起こすとあれから60年、老生も人生77歳を過ぎ去ってしまったが生まれて間もなく満州事変《1931年》に始まった戦争が当時大東亜戦争と称されるまでに発展して、その結果が惨めな敗戦になろうとは夢にも思わなかったその時数え歳19歳の若者であった。
昭和16年12月8日未明《みめい=まだ夜が明けていない時》、華々しく始まったハワイ真珠湾攻撃からアジアの各地に大勝利を意識しながら勇ましかった戦争だったが、資源も人員も少ない我が国がやがては追い込まれ、日に日に盛り返して来たアメリカ軍が、遠い太平洋の先から陸海空と膨大な戦力を持って昭和20年3月10日東京大空襲を皮切りに僅《わず》か1週間ぐらいの間に名古屋、大阪、神戸と更には地方の都市を含め大規模な空襲が連続し、日本の青い大空にはB29と称する重爆撃機の銀色に輝く機影が何処《どこ》からでも肉眼で眺められる状況となり、本土全体が毎日毎晩のように空襲による焼夷弾《しょういだん=燃えやすい油や黄燐を詰めた爆弾》爆撃での被害甚大《じんだい=きわめて大きい》が続出壊滅的にやられ、それ等に続いて硫黄島での日本軍玉砕《ぎょくさい=潔く死ぬこと》、米軍の沖縄本島上陸となり、8月6日廣島への原子爆弾投下、9日長崎へも原爆投下となってはどうにもならず、片や8月8日でしたかソ連の参戦となり、我が軍全てが外地も内地も抵抗もならず昭和天皇も無条件降伏を決心されたのであろう。
恐ろしい空襲で焼け出されたあの頃を思い出し、当時を振り返ってみるのも後世への言い伝えに必要かなと考え書き起こしてみた。されどかなりその頃の記憶も因《よ》る歳並に色々が混じり合って定かなようで友人との話しの中で行き違いを指摘され、「そうであったろうか?」と幾つかの疑問も混じり込んでいる昨今である。
ともあれ60回目の敗戦記念日を迎えるに当り、あの日のあまりにも唐突《とうとつ=出し抜け》な天皇陛下の終戦についての玉音放送という思い掛けないラジオ放送はショック以外の何ものでも無かった。12時正午の時刻には老生、現在の群馬県太田市に近い新田郡尾島町の当時中島飛行機KK尾島工場の学徒寮《がくとりょう=強制的に動員された学生達の寮》の部屋前で近くの畑から誰かが畑から?ぎ取って来た南瓜を輪切りにして火七輪(モノを煮炊きする昔の勝手道具)で猛暑の中焼きながら聴き入っていた。ザ~ザ~と雑音交じりばかりの聞き難い当時のラジオ放送を結果は口惜《くや》しさに泣きながら昼食代わりを学友と共にしていたのである。
さて我々はこれから先の行動を如何《いか》に決めるべきか引率の教授はドイツ語の教師で先ず全員120名が集められた。片や血気盛んな駐在の航空隊員の厳しい指示で末尾に掲げたようなビラを作り、先輩学生もそれに呼応してのアジビラを作り撒《ま》き始めたのである。当時1年生であった老生は先輩に従うべきか、それとも4年前親父が死んで母一人での兄弟の所へ急ぐべきか随分と迷ったのも事実である。
それは当時工業専門学校の校長閣下《かっか=高官に付ける敬称》の実弟の西田巳四郎指導教授の意見を聴き即刻帰宅を決意したが、恐らく氏もあまりにも突然の放送と聴こえたのではなかろうか?翌日以降の記憶もマチマチで、友人と話すと違いを感じさせる処も多いが2,3日後には兎に角《とにかく》ちりじりバラバラに電車を乗り継ぎ我が家を目指し、自宅へ引き揚げて来たのであるが無我夢中で定かな記憶ではない。
前日14日の夜最後の空襲を受け焼き出された高崎の実家付近は運良くまぬかれたものの相当数の犠牲者と家屋が焼き出されていたのである。
当時60歳前後の母と小学校2,3年生であった弟に、未だ産んで間もない姉とその乳飲み子長女は、郊外約6KM程離れた疎開先の田舎から荷車に積み込んだ僅《わず》かばかりの鍋釜《なべかま》と日用品を着の身着のままで持ち帰ったそうである。どうみても市民の全部が気落ちし、てんやわんやの街をあちらこちらに見掛けたのが実情であった。
やがてアメリカやソ連から軍隊ガ来て“男は去勢され、女は遊びの道具にされること必定”と流言蜚語《りゅうげんひご=うわさ、デマ》が飛びかい、銘々が言われたそのことだけで毎日を生きて来たようなと言う以外唯《ただ》恐ろしさだけを待っていたようだ。
情け無いことに我々は無表情に身の回りの始末に追われ、食糧が先ず先決、衣類などは次の次と先送りされていたようだが、母や姉など一家の主婦は明日の食い物など、全然見知らぬ郊外の農家を親戚《しんせき》知人を通じて訪《たず》ね探し回っていたのであろう。それが女性の日課の様だった。
やがて進駐して来たアメリカのマッカーサー将軍が偉かったのか、時の総理大臣が立派であった所為《せい》か兎に角大きな反乱もなく、来る日も来る日も海外からの将兵やら開拓に外地に出掛けていた多勢の人々の内地への引き揚げやら、戦時疎開で地方へ散っていた人々のかつての住所への復帰も毎日の仕事であり、世の中の風情そのものであった。幸い一時期封鎖されていた学校も開放され、学生生徒もあちらこちらから復帰して来た。
夏休みなどと言うのんびりした気分も意識も無いうちに確かアメリカ呼び名の猛烈な台風で、鉄道線路の流失やら田も畑も大被害を受け、学校の授業の始まりは10月に入ってしまったような気がする。
振り返って見ると老生などの青春時代とは過去に食糧増産のため農家への勤労動員に始まった中学2,3年生の時代と、4,5年生になっては沖電気KK高崎工場で軍需産業での水中電波探知機の組立て作業が主で、いわば1億総動員総決起の時代を経て、専門学校へ入っても飛行機の機内配線整備は最初のうちだけ、最後はエンジンの取り付けを待つ飛行機の掩体壕《えんたいごう=》とか言う防空壕への機体運搬など、当時徴用されていた台湾や韓国の人などとともにやらされていたのである。
それこそ祖国日本の為に戦死した人は勿論、全ての日本人が全力を尽くした偉い時代であり、勉強などには全然役に立たず大馬鹿を観たご時世であったと思う。

【お詫び】
あの日以降に撒《ま》かされたビラ2枚の写しを最後に付加しますが、老生の能力では縦書き横版の原文とおりにならず、縦文字横書きになってしまいましたが、A4版に縦書きの縦文字で書かれたものがその昔ばら撒かれたビラとお考え願えれば本望です。

平成16年(2004)-8月5日  としつる原澤利雄





  帝國臣民ニ告グ      海軍航空部隊
一、停戦協定決烈ノ可能性大ナリ即時生産ヲ
續行《ぞっこう》セズンバ後續ノ飛行機ハ皆無トナル
《ねが》ワクバ各位ノ即時工場ニ復帰サレンコトヲ
二、 帝國海軍ヲ信頼サレヨ神風ハ我等ニヨリ斷《だん》
ジテマキ起ス
三、新聞「ラジオ」ニ決シテ迷フナ「ユダヤ」ニ躍《おど》ッタ
  重臣閣僚共ノ國民ヲダマス術ナリ
四、被占領國ノ惨サハ戦地ヨリ帰還ノ兵隊ニ聞ケ決シテ
  日本国民ノ生存ヲ許ス筈《はず》ハナイ
今ダ一億戦死蹶起《けっき》セヨ
現在倍舊《ばいきゅう》ノ生産續行ヲ要スル所以《ゆえん》
一、 我等日本國民ハ協定ノ決烈ヲ祈ッテイル、
其ノ決烈ノ曉飛行機ナシニ有利ナ戦闘ガ
出来得ルカ結果ハ明瞭デアル
二、 未ダ停戦協定ハ成立ヲ見ズ今生産ヲ中絶スレバ
談判ハ決シテ我ニ有利ニ導ケナイ、後ニ飛行機
即チ武器ヲ多ク持ッタ精強ナル軍隊ガ在ッテ
コソ談判ハ有利ナリ      

國民諸氏ニ告グ     動員学徒
 一、敵國兵ガ本土ニ上陸シタ時國體護持《こくたいごじ》
ハ出来得ルト考フルヤ國民ヨ敵ノ謀略ニ翻弄《ほんろう》
サレル勿《なか》レ敵ハ今ト同様ノ謀略ヲ以ッテ
「ドイツ」「イタリヤ」ヲ陥《おとし》
入レテ来タノダ。
二、無条件降服センカ帝國三千年ノ歴史ハ
滅セン但我等國民ハ最後マデ頑張ルノミ
三、原子爆弾何ゾ恐ルベキ諸氏ハ敵「アメリカ」
ノ國内窮乏《きゅうぼう》ヲ知ルヤ必勝ハ我ガ手中ニアリ
四、「アッツ島」ノ男士「硫黄島」「沖縄」ノ勇士ハ
最後ノ勝利ヲ信ジツツ笑ッテ散ッテ行ッタ
デハナイカ諸氏ヨ最後迄敵撃滅ニ邁進《まいしん》スヘキ
ナリ
 五、「新聞」「ラジオ」ニ惑《まど》フ勿レ敗戦國「ドイツ」
   ノ惨状ヲ直視セヨ婦女子ハ如何《いか》ナル暴行ヲ
   受クルヤ

帝國陸海軍ハ滿ヲ持シテ醜敵《しゅうてき》ヲ持ツ今コソ正ニ神機ナリ
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/7 9:08
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
としつるさん

 動員先の詳しい様子がよくわかりました。
 ありがとうございました。

 よく、このビラがお手許にありましたね。
 これは、どの程度、撒かれたのかは別として、貴重な資料ですね。でも、こんな難しい表現で、拾った人で理解できたのでしょうか。

 それから「台風の名前」に、キャサリン キティー などの女性の名前がついていたのも記憶しています。台風12号 などの番号の呼び名に比べて恐さが違ったのでしょうか。
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