上海の思い出(その一)
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- Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) (るみ, 2007/2/11 17:52)
- Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) (toshy, 2007/2/12 11:12)
- Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 (ザックス, 2007/2/26 21:08)
- Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 (toshy, 2007/3/13 23:01)
- 白龍丸 (toshy, 2007/4/27 10:20)
- 通知簿(上海の思い出) (toshy, 2007/6/21 8:24)
- Re: 上海の思い出(その一) (toshy, 2007/9/4 10:18)
るみ
投稿数: 1
toshyさん
早速読ませていただきました。
上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。
短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。
以前「上海バンスキング」という映画見ました。たしか主演は松坂慶子さんだと思いましが、また見てみたい映画です。
上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。
るみ
早速読ませていただきました。
上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。
短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。
以前「上海バンスキング」という映画見ました。たしか主演は松坂慶子さんだと思いましが、また見てみたい映画です。
上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。
るみ
toshy
投稿数: 42
> 早速読ませていただきました。
お読み頂き、有り難うございました。
> 上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。
進駐と言う言葉を広辞苑では「軍隊が他国の領土に進軍し、
とどまっていること」と書いて居ます。
米軍のマッカーサー元帥は日本に進駐する直前に上海に飛び、
日本側の上海終戦事務局と中国の警備部隊の出迎えを受けて上海
方面の日本陸・海軍の武装解除の状況を視察していたのですね。
でも中国は敗戦国ではないので、日本でのGHQによる事実上の
統治とは違い、当時の中国国民政府軍が戻ってきたのでした。
もっとも最終回に書いたように引き揚げ船に乗るところまでは
米軍のトラックに乗せられたのですから、駐留はして居たのですね。
> 短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。
短波放送が禁止ではなく、日本人は他国の短波放送の受信が禁止
されたのでした。
その禁を破って、密かに短波放送を聞いて居た人も有ったとか
終戦後に知りましたが、当時そのようなことが見つかったら憲兵に
拘引されたでしょう。
>上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。
当時は子供だったのでジャズなど聴きに行くこともなく、李香蘭の
新聞記事を見るくらいでしたが、10年あまり前に ニフティの
FMELLOW メンバーの海外旅行で上海を訪れ、和平飯店の
「上海バンスキング」の演奏を聴いて来ました。
お読み頂き、有り難うございました。
> 上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。
進駐と言う言葉を広辞苑では「軍隊が他国の領土に進軍し、
とどまっていること」と書いて居ます。
米軍のマッカーサー元帥は日本に進駐する直前に上海に飛び、
日本側の上海終戦事務局と中国の警備部隊の出迎えを受けて上海
方面の日本陸・海軍の武装解除の状況を視察していたのですね。
でも中国は敗戦国ではないので、日本でのGHQによる事実上の
統治とは違い、当時の中国国民政府軍が戻ってきたのでした。
もっとも最終回に書いたように引き揚げ船に乗るところまでは
米軍のトラックに乗せられたのですから、駐留はして居たのですね。
> 短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。
短波放送が禁止ではなく、日本人は他国の短波放送の受信が禁止
されたのでした。
その禁を破って、密かに短波放送を聞いて居た人も有ったとか
終戦後に知りましたが、当時そのようなことが見つかったら憲兵に
拘引されたでしょう。
>上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。
当時は子供だったのでジャズなど聴きに行くこともなく、李香蘭の
新聞記事を見るくらいでしたが、10年あまり前に ニフティの
FMELLOW メンバーの海外旅行で上海を訪れ、和平飯店の
「上海バンスキング」の演奏を聴いて来ました。
ザックス
居住地: 東京
投稿数: 65
最近、「李香蘭」と言うドラマが放映され、かなりその時代の背景が分かり、興味深いものでした。なかにし礼の「赤い月」はフィクションですが、やはりその時代が浮かび上がってきますね。
toshy
投稿数: 42
私も二夜連続のテレビ番組を録画して置いたので見ました。
私の場合、李香蘭が上海で活躍して居た時に上海に住んで居て、
殆ど同じ時に上海から引き揚げて来ましたので、特別の感慨を持って
見ました。
もっとも当時私は小学生だったので、時代に翻弄された李香蘭の
苦渋に満ちた心境は知るよしも無かったのですが、70歳を過ぎた今、よく判ります。
私の場合、李香蘭が上海で活躍して居た時に上海に住んで居て、
殆ど同じ時に上海から引き揚げて来ましたので、特別の感慨を持って
見ました。
もっとも当時私は小学生だったので、時代に翻弄された李香蘭の
苦渋に満ちた心境は知るよしも無かったのですが、70歳を過ぎた今、よく判ります。
toshy
投稿数: 42
私が乗った引き揚げ船は白龍丸でした。
東京新宿の新宿住友ビル31階に「平和記念展示資料館」と言うのが有ります。
(google などで「平和記念展示資料館」で検索して下さい)
そこに引き揚げ船の展示コーナーが有りました。
-----------------------------------------------------
昭和21年、旧満州(中国東北部)のコロ島を出発し、博
多港に入港した引揚船白龍丸の船内の様子を関係者の
証言や当時の写真をもとに再現展示しています。
幾多の労苦を乗り越えながらやっとの思いで日本の港
に向かう引揚船に乗り込んだ方々の生活状況を再現し
ました。
-----------------------------------------------------
船倉の底に畳(だった?)が敷かれ、その上で上陸までの一週間、
生活をしました。
広さは体育館くらい、天井は見上げるばかりの甲板、退屈な
一週間の間には、余興大会や夜の甲板で星空教室などが有りました。
東京新宿の新宿住友ビル31階に「平和記念展示資料館」と言うのが有ります。
(google などで「平和記念展示資料館」で検索して下さい)
そこに引き揚げ船の展示コーナーが有りました。
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昭和21年、旧満州(中国東北部)のコロ島を出発し、博
多港に入港した引揚船白龍丸の船内の様子を関係者の
証言や当時の写真をもとに再現展示しています。
幾多の労苦を乗り越えながらやっとの思いで日本の港
に向かう引揚船に乗り込んだ方々の生活状況を再現し
ました。
-----------------------------------------------------
船倉の底に畳(だった?)が敷かれ、その上で上陸までの一週間、
生活をしました。
広さは体育館くらい、天井は見上げるばかりの甲板、退屈な
一週間の間には、余興大会や夜の甲板で星空教室などが有りました。
toshy
投稿数: 42
toshy
投稿数: 42
>>私たちから小学校は尋常《じんじょう》小学校から国民学校となり、国語の教科書も「サイタサイタ」から「アカイアサヒ」に変わったのでした。
ところで、平成19年8月21日の日経新聞の夕刊の一面の下の方の
「明日への話題」と言うところに、作家の柴田 翔さんが次のように
書いていらっしゃいました。
私たち昭和九年遅生まれ、昭和十年早生まれの連中は
時々変な自慢をする。
入学時も卒業時も国民学校だったのは、唯一自分たちの
学年だけだったと言うのである。
(中略)
変な自慢には続きがあって、それは新制中学の第一期生
だといういうことだが・・・
私も同様の自慢をして来ましたが、皆同じなのですね。
ところで、平成19年8月21日の日経新聞の夕刊の一面の下の方の
「明日への話題」と言うところに、作家の柴田 翔さんが次のように
書いていらっしゃいました。
私たち昭和九年遅生まれ、昭和十年早生まれの連中は
時々変な自慢をする。
入学時も卒業時も国民学校だったのは、唯一自分たちの
学年だけだったと言うのである。
(中略)
変な自慢には続きがあって、それは新制中学の第一期生
だといういうことだが・・・
私も同様の自慢をして来ましたが、皆同じなのですね。