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主計科士官の任務あれこれ <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/3 17:59
不虻  新米   投稿数: 20
  
御真影の警護
らごらさんの「御真影」《ごしんえい=天皇・皇后の写真》を見て思い出しました。
私が昭和19年3月から20年4月にかけて海軍工作学校の庶務主任を勤めていたことは前に書きましたが、この庶務主任の重要な任務の一つに「御真影」警護の仕事がありました。

 戦前の学校や官公庁などは何処《どこ》でもそうだったと思いますが、ここ工作学校でも庁舎の2階中央部に「奉安室《ほうあんしつ》」があり、そこに「天皇、皇后両陛下の御真影」と「軍人に賜った勅諭《ちょくゆ=天皇が下された告諭》」が入った唐櫃《からびつ=足のついた収用箱》が安置されていました。

 警戒警報のサイレンが鳴ると直ちに軍装して、下士官《=士官と兵の間の階級》、兵数名と共に、その部屋にとんで行ってその唐櫃を運動場を隔てた山際の横穴防空壕まで運ぶのです。櫃を担いでいる兵以外の警護兵は皆、銃に着剣しているという物々しさでした。櫃を防空壕内に安置すると、入り口に衛兵《えいへい=番兵》2名を立て、私はまた校舎に戻り、空襲時には今度は首から筆記版を提げて、校長閣下《かっか》の傍に立って戦闘記録の係りになります。尤も《もっとも》久里浜当たりには殆《ほとん》ど敵機は現れませんでしたから、仕事は余りありませんでした。

 それより怖かったのは、式典などの行事で御真影を講堂に運び、飾り付ける時でした。御真影というのは、新聞紙を全部拡《ひろ》げた位の大きさのお写真で、それが立派な額縁に入っているので相当な重さもありました。副官が天皇、庶務主任の私が皇后のお写真を運ぶのですが、額縁の最下部の両端を持ち、腕を真っ直ぐに前に伸ばして捧持し、可成《かな》り長い距離をしずしずと運ぶのです。万一、突風でも吹いて来て、転んだり落としでもしたら、まず切腹間違いなし、という時代です。これには随分緊張しました。

 「軍人勅諭」もそうでした。式典などで全員が整列している中を、可成り大きな黒塗りの箱を、両腕を真っ直ぐに目の高さに伸ばして捧持し、これを壇上の奉読者(校長)に渡します。あとはまた読み終わるまで、箱を同じ格好で持っていなければなりませんでした。

軍法会議判士
もう一つ、内地勤務の新米主計士官《会計の仕事をする将校》 に課せられた任務がありました。それは軍法会議判士として軍法会議へ出席することでした。軍法会議は、予備役《=現役を終了した軍人》の大佐位の士官が裁判長と成り、その下に若い主計などの士官2人と別に法務士官1人で構成されていました。

 判士に任命されると、一日中、薄暗い法廷に座っていなければならないので、皆、嫌がっていました。結局、横須賀周辺に勤務している主計士官が輪番で担当しましたが、私は2回この役を務めました。

法務官(法務科士官)は凡て司法試験合格者で、裁判官、検事或いは弁護士になる資格を持った人達でした。軍法会議では検察官と弁護士役を一人で担当し、また量刑など素人裁判官に解る筈《はず》もありませんから、その点では裁判官も兼ねるというようなことでした。

案件は1日に数件処理されたと思いますが、大部分は海軍工廠《かいぐんこうしょう=海軍の艦船・武器などを製造・修理する機関》などの徴用《ちょうよう=強制的に就労させる》工員の逃亡事件だったように覚えています。その中で変わっていたのは初戦のハワイ空襲で戦果を挙げ、金鶏勲章《きんしくんしょう=抜群の武功を立てた人に与えられた勲章》に輝いた下士官で、準士官《下士官と将校の間の階級》に昇進していた者が、酒の上で上官を殴り、上官侮辱罪に問われた案件でした。どんな量刑が下されたかは覚えておりません。一件の審査が終わると別室で裁判長以下、量刑など協議しますが、殆ど法務官の独壇場だったような気がします。

 私の2回目の軍法会議出席は19年の12月22日のことでしたが、寒い日で、火の気一つ無い法廷で一日中震え通しでした。余り俳句など作ったことが無いのですが、当時の日記に「囚人衣 被告の顔の寒さかな」
「被告泣く法廷に満つ寒さかな」などが書き付けてありました。                          □
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/6 21:25
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
不虻さん

引用:
 それより怖かったのは、式典などの行事で御真影を講堂に運び、飾り付ける時でした。御真影というのは、新聞紙を全部拡げた位の大きさのお写真で、それが立派な額縁に入っているので相当な重さもありました。副官が天皇、庶務主任の私が皇后のお写真を運ぶのですが、額縁の最下部の両端を持ち、腕を真っ直ぐに前に伸ばして捧持し、可成り長い距離をしずしずと運ぶのです。万一、突風でも吹いて来て、転んだり落としでもしたら、まず切腹間違いなし、という時代です。これには随分緊張しました。

軍法会議判士
法務官(法務科士官)は凡て司法試験合格者で、裁判官、検事或いは弁護士になる資格を持った人達でした。軍法会議では検察官と弁護士役を一人で担当し、また量刑など素人裁判官に解る筈もありませんから、その点では裁判官も兼ねるというようなことでした。

 ご真影のお話、当時、小学生だった私にも少しわかります。
 あるとき、校長先生が、勅語の巻物を取り落としそうになったのです。もし、落としていれば、どうなるのか、子供にもわかりました。校庭に整列していた、600人の先生・生徒全員が「どきっ」としました。

 日本の軍法会議のことも、存在は知っていましたが、内容を伺うのははじめてです。やはり司法試験合格者、すなわち法律の専門家が仕切っていたのですね。

 いろいろと貴重なお話、ありがとうございました。

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