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帰国(投稿:藤河朝子)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/27 12:20
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
東京・小金井市の藤河さんの記録です。



置きて来し北京の雛の行方かな

昭和二十年三月のお雛《ひな》飾りは我家最後のものとなった。私の大正雛と妹二人の昭和雛に北京の中国人形、美しい梅蘭芳の楊貴妃《ようきひ》もあった。

その頃は戦況不利が続き、遂に終戦となった。私共の住んでいた、紫禁城北池子の蒙古《もうこ》親王府跡は、大倉喜八郎が清国から買い受けた建物と聞いていた。終戦後父は、中央政府の命に従い、裏の事務室に軟禁され間もなく、山西省太原閻錫山長官の許に護送され、私共家族は皇城根の大きな民家に移された。引揚を待つ日本人が六家族程いた。

翌二十一年一月には、太原から林親族皆来原するように指示があった。
主人は中国語が通じないのでマスクの大きいのをかけ、支那服と外套《がいとう=コート》、私共は支那服に頭からスカーフを被り、将校の護衛つきで、太原市の南華門の家に無事着いた。

十数年家族同様にしていた李とその妻と親戚《しんせき》の少年李登という十四歳の元気者もいた。北京脱出は首尾上々で誰も日本人と気付かなかった。

主人は長官部財務局の楊思誠の第一秘書となり、局長は日本の慶大出身で、金銭に潔癖で借銭王といういみじき《=適切な》別名がついていた。彼の妻は美しい日本人で、日本語は余り知らなかった。

彼はうちのいたずら息子を紹介し、その息子の名は和尚、うちの長女は小宝という中国名で山西語と北京語でよく遊び、水売りや饅頭《まんとう=まんじゅう》売りの老人の手伝いをした。

共産軍は勢い良く北上し、戸口調査は厳しく、私はいつも北京太々で近隣の人からかばってもらった。

李の妻は文盲《もんもう=文字が読めない》なので、調査に来る南方の役人と口論し、名前は書けないので腕の入墨を見せて騒いだ。

共産軍は嫌《きら》われ恐れられ、平和な街も金の相場は上がり、日本人の引揚げ者も急に増え、私共も帰国を決めた。そして引揚げ者に通達が来た。

引揚げ者の所持品
  一人10㎏ 所有金額一人千円 
  貴金属 時のみ一個  写真  
  手帳 手紙 メモ 書類一切不可
もし違反する者あれば、一人出てもその船全員沖縄にて使役《しえき》

私は使役を聞くと、米軍基地による重労働と聞き驚いた。

器用な婦人達は、中国人に習いアメリカ紙幣5弗10弗を、蝶々《ちょうちょう》の形に支那式折り紙で作った。黒とピンクの色合いで繊細で美しかった。

私はとても自信がないので、タオル十枚を買い長女四歳のリュックを作り、次女にはエプロンを作った。時間も無いので神経を使う蝶々の話は、米弗も入手困難で立消えとなった。

その時、主人が残念がったのは、俳句手帳の一冊で、どこかに入れて欲しがった。若い日の河南前線の感激・興奮は二度とないから、唐詩を思い出したり、リュックに当たった弾を数えたりしたからと。

その頃私は、俳句なぞ頭の曲がった人の言葉で、短くてまるで暗号みたい、七七を倹約するからだと思っていた。

みいくさはこれより春のたちにけり
酒旗に駒つなぎとどめて杏花村
父となり児に三寒の炭をつぐ
芭蕉《ばしょう》忌を修して必勝疑わず

今から思うと故人に申し訳ないと悔悟《かいご=あやまちを悟り改める》の念に、私の未熟を思う。

帰国には種々の工夫話が出た。
話では石鹸《せっけん》に穴をあけ、ダイヤ翡翠《ひすい》をつめ、その上を少し濡《ぬ》らし薄いペーパーで包みケースに入れるとか。ダイヤと翡翠が無いから出来ない。
中国の革靴を前線からまだ帰らぬ人のために一足買い、その中に私の靴を入れ長いスカートを穿《は》くとか。皆必死の発想発案に笑う人もいなかった。

日本丸は最後の引揚げ船となり、皆真剣な顔で、若夫婦は「如何《いか》にして結ばれたか」を両親に説明し、中国人妻を伴っている人は「彼女の名前にみどりと付けたが、日本では赤といわれる」と心配している人もいた。

引揚げ途中、病死させて孫を失った、お祖父《じい》さん、お祖母《ばあ》さんに何と言うべきかを思案しているご夫妻もいた。またある老人男子は、今頃帰国したら頭が息子夫婦に上がらず苦慮していると。

様々の帰国話を聞かされ、人間は何処《どこ》に行っても苦の娑婆《しゃば》だと思わされた。真顔の帰国劇に胸が熱くわが子の山西語で今夜は何のご飯を食べるのかと訊《き》かれて現実に戻った。

船は高僧・異文化を運んだ海を渡り、二十三年九月佐世保に着いた。日本の若い婦人達が、美しい和服姿、献上の帯《博多帯》など、好み良き母の国の女性の姿に泪《なみだ》がこぼれた。手を振ってにこやかに「お帰りなさい。ご苦労様でした。」と。

正しく私達の母国だと痛感して日本の土を踏んだ。


           以上;代理投稿
掲載に当たり、コケッコッコーさん、三上さんにご協力頂きました。ありがとうございました。

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あんみつ姫

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あんみつ姫

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