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レンパン島捕虜収容所 第三部 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/9/23 23:15
てっちゃん  新米   投稿数: 6
  
滝本隊 句会 
昭和20年 《1945》12月8日から、英軍口糧《えいぐんこうりょう》
3日分を一日とし加えて米6オンスの支給と、開墾栽培
の野菜が食えるようになり、栄養失調の身体もだんだ
んと回復し、年が明けて昭和21年《1946》初頭からは乏《とぼ》
しいながらも食生活は安定し、微かな故国の噂
や笑い声が聞こえるようになった。

俳句会の誕生 俳号の決定
2月初め臼田亜浪《うすだあろう》門下の俳人であった第一小隊長
加籐燕雨《えんう》が音頭を取り滝本隊長が賛同して俳句会が作
られた。
加藤小隊長は、「俳句は誰でも作れる。先ず「句会」と言うものを
始めて日本的な風流に親しみ故国を偲びたい。俳句には俳号と言う
ものがある。
自分の俳号は燕雨である。みんなそれぞれ好きな俳号を作れ」との
号令で、滝本隊長以下好き勝手な思い思いの俳号を作り、にわか俳
人が誕生した。

俳号
滝本中隊長          春夢 《しゅんむ》
小寺機関銃小隊長       葉々 《ようよう》
加藤第一小隊長        燕雨 《えんう》
鉄屋第二小隊長        愚童 《ぐどう》
山之口第三小隊長       閑々子《かんかんし》
小畑第四小隊長        帰去 《ききょ》
佐藤指揮班長         松雪 《しょうせつ》
奥田指揮班准尉        筑葉 《ちくよう》
濱田軍医少尉         翠光 《すいこう》
松本中隊書記         松本 《まつもと》

句会 第1回から10回まで 361句
昭和21年2月11日、紀元節の日に第一回の句会が将校宿舎で開かれ
た。
我々滝本隊は、昭和20年10月26日レンパン島上陸、翌21年6月14日
出港、鹿児島港へ同年7月2日上陸復員したのであるが、帰国まで
に10回の句会が開かれた。

俳句は先任小隊長加藤燕雨から俳句の初歩の初歩、いろはから教え
られた素人》ばかりであったが、明日の分からない捕虜生活の中で、
万感の想いを篭《こ》めて、10回の句会で
合計361句が作られた。
誠に残念なのは将校句会の記録は故松本只義さんの尽力で完全であ
ったが、その他の戦友の俳句は散逸《さんいつ》し不詳《ふしょう》
のままである。

361句の中から独断と偏見で、最初に主宰《しゅさい》の燕雨、
その後は滝本隊編成順の俳号で5句づつ記したい。

レンパン句会 選句
紀元節《きげんせつ》島の自活の豊かな餉《しょう》    燕雨
兵はだか「断腸の歌」口づさむ
降り晴れし海紺青《こんじょう》に種を蒔《ま》
虫に病み父のたまひし珠数《じゅず》手にす
山深きここに拓《ひら》きて蝶に耕《たがえ》

雲間洩る陽のあまねしや紀元節           春夢
母恋ひし眠れぬ夜半の朧月
  丸田軍曹を送る
水遣《や》りて土匂ふうち戦友《とも》のはや
熱さめて聞く囀り《さえずり》や配流《はいる》の身
土を焼く兵碧海《へきかい》に夏痩《なつやせ》

日の丸は掲げ《かかげ》ず島の紀元節           葉々
蚊帳《かや》担ふ《になう》兵を援《たす》けて貨車に入る
回診に肌拭きおるを遠き雷
返納の病衣すすぐや雲の峰
征く日近くもの縫ふ妻と虫の縁
 
夏痩せの兵のつぎはぎ滲《し》む流離《りゅうり》  愚童
《ま》き終へしゆとりを株に驟雨《しゅうう》待つ
量《はか》り待つ肩の細りや雲灼《や》くる
大詔《たいしょう》を虫におろがみ謙虚《けんきょ》なる
菜の花に蝶や流島《るとう》に老ゆるかと

糧秣《りょうまつ》を負いて裸足《はだし》に追はる影   閑々子
《しょう》につけば残りし青虫汁に浮く
《な》ぎており吾れ待ち給ふ母の顔
緑陰に隊長の弔辞声くもる
農耕兵せわし遠雷聞きて施肥

紀元節花なき島に故国《くに》想ふ《おもう》       帰去
種下す《おろす》兵の笑顔は黒かりき
海を背に影大いなる裸の兵
《う》ち終へて鍬《くわ》寄す株に若芽萌《も》
蝿を追ふ手に力なく戦友《とも》は病む

紀元節礎石の誓ひ《ちかい》重ねたり      松雪
兵なやむ坂路につづく裸足あと
《ひら》きゆく森に囀《さえずり》りしきりなり
父逝《ゆ》くの電報手にせり花吹雪
ひねもすを裸に馴れて耕《たがや》せり

木陰計り飯上げを呼ぶ当番兵               筑葉
青虫や葉を巻き上げて巣籠《すごも》れり
哨戒機《しょうかいき》いま飛び去りぬ雲の峰
朝露に手をさし伸ばす胡瓜《きうり》かな
その上にまたその上に入道雲

帰還をも待たで断《た》つあり海炎《も》ゆる       翠光
土まみれ兵は端居《はしい》の昼餉《ひるげ》かな
蝶の舞ひ島の自活も落付けり
いらだちて眠れぬ夜を虫しきり
うたた寝の兵の裸をたしなめる

空缶の反射まばゆき暑さかな               松本
海近く椰子《やし》の葉ずれや紀元節
青虫とる裸の兵のうずくまり
ゴム林の既設家屋や蚊喰鳥《かくいどり》
隊長の和の語らひに月凉し


手作りの句集 句集 拓魂《たくこん》(デジカメ写真を別途添付)
この手作りの句集はレンパン島から帰国直前、故松本只義
さんが軍用用箋《ようせん》の裏面に句会の結晶である361句を清記
し、米軍レーションの空箱を表紙にして手作りしたものである。

タテ 13センチ ヨコ17センチ タカサ0.5センチの小
さい粗末なものであるが、祖国に捧げた青春が凝縮《ぎょうしゅく》
している。鎮魂《ちんこん》の想いをこめて写真を添付する次第です。

尚句集の名「拓魂」は燕雨主宰の句会の中の句
 夏痩せ《なつやせ》の拓魂《たくこん》切株《かぶ》を握りしむ 
から採ったものです。

生死を共にした戦友の絆《きずな》に結ばれ、援《たす》けられて、
激動の20世紀を超えて、21世紀まで生き永らえた幸せを噛《か》
締める今日この頃です。本当にありがとうございました。
                                  おわり

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/9/24 20:02
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
てっちゃんさんご無沙汰の としつるです。あの敗戦末期における海外派遣の軍隊がどのようにして対処したのか、あの時機随分と興味を持っていました。

結果はシベリヤ送りになってしまった関東軍など捕虜として敗残兵として已む無い結果など、それに較べたら米英軍の処置にあったてっちゃんなど、ご苦労は同じ悲惨でしたろうが恵まれたようですね。

ついぞ外地での従軍にまで到らなかった老生など、敗戦の数年後までは如何《いかが》推移《すいい》するものかと案じておりました。
引用:
俳句会の誕生 俳号の決定
2月初め臼田亜浪門下の俳人であった第一小隊長加籐燕雨が音頭を取り
滝本隊長が賛同して俳句会が作くられた。
加藤小隊長は、「俳句は誰でも作れる。先ず「句会」と言うものを始めて
日本的な風流に親しみ故国を偲びたい。俳句には俳号と言うものがある。
自分の俳号は燕雨である。みんなそれぞれ好きな俳号を作れ」との号令で、
滝本隊長以下好き勝手な思い思いの俳号を作り、にわか俳人が誕生した。

句会 第1回から10回まで 361句
昭和21年2月11日、紀元節の日に第一回の句会が将校宿舎で開かれた。
我々滝本隊は、昭和20年10月26日レンパン島上陸、翌21年6月14日
出港、鹿児島港へ同年7月2日上陸復員したのであるが、帰国までに
10回の句会が開かれた。

{中間部分略}ご免なさい。

生死を共にした戦友の絆に結ばれ、援けられて、激動の20世紀を超えて、21世紀まで
生き永らえた幸せを噛み締める今日この頃です。本当にありがとうございました。
                            
此処まで充分読ませて頂きました。結果から言えば味のある抑留期間
、何とも辛かったでしょうが、現在を思えば味わいある不思議な後生を過ごされた訳ですね。

又の昔語りをお聞かせ願えればと、益々のご健勝を祈らせて頂きます。

            04.09.24PM;としつる


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/9/29 22:12
てっちゃん  新米   投稿数: 6
としつるさん

老生のつたない体験記をお読み頂き、過分のコメントを
頂戴し、誠にありがとうございました。

あの頃の体験が生かされて、今日の自分があると感謝
しています。特に繰り上げ卒業で予備士官学校7ヵ月速成の
若造の下級将校に対し、歴戦の下士官、兵が敗戦から帰国まで
軍隊の規律を守ってくれた恩義は深く胸に刻まれています。

ロシアに捕虜として拉致された人たちに比べると雲泥の差で、
本当に幸せでありました。

ありがとうございました。

                      てっちゃん
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