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戦時下の懲罰

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/7/1 18:20
スカッパー  半人前   投稿数: 25

戦時下では 今では考えもつかない懲罰《ちょうばつ》を与えられる事もあった

昭和20年4月 終戦4ヶ月前の 海軍航空基地での出来事である
昭和18年6月 旧制大学 高等専門学校を卒業した若者たちがこぞって当時の海軍航空兵を志願し 総数5千人にも達し その名を13期海軍予備学生と称した 昭和20年4月には それぞれ 連日の猛訓練に耐え 初級士官として 毎日の軍務に励んでおり 既に実施部隊での沖縄周辺敵艦船に対し 連日連夜の攻撃に従事していた  此処《ここ》に登場するT少尉は 旧制旅順《りょじゅん》工大《=工業大学》を卒業 艦上攻撃機 天山 の操縦《そうじゅう》員として下士官の偵察《ていさつ》員と兵の電信員とペアを組み 何度か攻撃に出撃していた

そんな或る日 この日も沖縄周辺敵艦船に対する 夜間攻撃に出撃 敵艦船に魚雷攻撃を行い 反転帰投《きとう=基地に帰る》についた 当時の作戦として 敵戦闘機の攻撃を避ける為 低空での飛行を行う。ご承知の方も有るでしょうが 夜間低空での飛行は危険極まりなく 極度の緊張感の中であったろうと 推察するものである
偵察員(ナビゲーター)の僅か《わずか》の針路の誤りで 東支那海を北上 朝鮮海峡 釜山沖に達し 燃料切れで不時着水した

《ところ》が操縦員のT少尉と偵察員とは無事漁船に救助されたが 後部座席の電信員は 付近を捜索《そうさく》するも見当たらず 機と運命を共にしたか 脱出したが海流に流されたか 発見できず 止む無く後日2名での帰隊となり 指揮所で報告していたが 隊長から部下掌握《しょうあく=自分のものとする》管理責任について 手荒い詰問を受けていたのを覚えている
当時の海軍航空隊の風潮として 昭和19年10月ヒリピンでの 第一航空艦隊の一機一艦必殺《=一機で一艦を沈める》の特別攻撃隊発進からの思想が蔓延《まんえん=伸び広がる》しており 内地各練習航空隊から 特攻機が続々と ここ鹿児島串良基地に集結 基地内は混乱の極度に達していた

T少尉の所属していた 攻撃251飛行隊も 第一回の天山艦攻による 特攻《とっこう=特別攻撃》が4月6日菊水天山隊として9機が 発進していった その後何度か通常攻撃が行われていたが 彼T少尉機の発進は無かった
10日後の4月16日第二回目の特攻が菊水天桜隊の登乗割りの発表が指揮所に掲示 その中の3番機に 彼T少尉の名前が載《の》っていた 何故《なぜ》彼が特攻に選ばれたのか 真意は解らないが 或いは先日の釜山沖不時着水時の部下掌握管理責任を取らされた と感じざるを 得ない 
特攻は決して 上からの命令でなく 本人の発意によらねばならないと 特攻を最初に決断した一航空艦隊司令長官大西中将の意思であったと聞き及んでいるが 事実はどうなんだろうか 或いはT少尉に責任を取らせる 武士の情けであったのか 隊長も戦死した現在 真意を求める すべも無い
 
当日0638串良基地を7機が発進していった 最後の別れに彼の3番機に行き 挨拶をしたが 彼はただ「残念」と涙を浮かべていたのが 彼との最後であり 忘れる事のない出来事であった         合掌       スカッパー
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