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小学生の戦争の記憶

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/7/5 18:37
佐七  新米   投稿数: 4

小学生の戦争の記憶

太平洋戦争開戦の時は小学校入学直前だった、祖父が読んでいた新聞の一面に真珠湾攻撃の写真が載《の》っていたのを記憶している、それだけだった。

翌年国民学校《=戦時中小学校は国民学校と改められた》に入学した、その時分友達と家の近くで遊んでいて一人が僕は大将だと言った、次が僕は元帥《げんすい=将官の統率者、総大将》だと言った、私は僕は大元帥だと言った、家に帰ったら父から大元帥とは言ってはいけないと叱られた、何故《なぜ》と聞いたら天皇陛下の事だからと言った、なんか判ったような判らない様な気持ちだった。

父がハワイ、マレー沖海戦と言う映画を見につれて行って呉《く》れた。超満員で日本の爆弾が命中すると見ている人全部が大拍手していた。

同級生の商船学校出の兄さんがラバウルの近くで3回も船が沈められて泳いだと言った、日本の船が沈められるなんて、戦争は勝っているのにとなにか不思議だった、ちょうどラバウル小唄《=流行歌》が流行《はや》っていた頃だった。

家が順番で隣組《=戦時中作られた町内会の組織》の班長になり集まりをする事になった、近くの靴屋さんは朝鮮の人だった、母が集まりに呼ぶのか父に聞いた、父は同じ班の人だからと答えた、その夜いつもと違ってチョゴリマを着た靴屋さんの太ったおばさんが端《はし》っこに座っていた、なんかもの凄く存在感があった。

3年になって担任が代わった、若い男の先生で優しい先生だった、ある日屋上で体操していた時急に先生が全員並べて(男子だけだったと思う)皆ピンタをくらった、なぜピンタなのか理由は判らないし優しい先生だっただけにびっくりした、その後すぐ先生は兵隊に行ってしまった。

同じころ、虫歯の治療に行っていた歯医者さんが明日から戦争に行くからと虫歯に詰め物してくれた、これは高校2年まで大丈夫だった、母の話では少尉で戦争に行ったそうだ。

鴨川沿いの公園で撃墜《げきつい》されたB29《=アメリカ、ボーイング社製の大型長距離爆撃機》の残骸《ざんがい》の展示を見に行った、尾翼《びよく》のデッカイのに驚いた、そばに日本の練習機が有り(通称赤とんぼ)それを引っぱりだしていたがベンチに当たり羽が少し壊れてしまいこれにも驚いた。

しばらく東京の伯父の所に預けられた、3才上の従姉《いとこ》は集団疎開《しゅうだんそかい=空襲を避けるため小学生は集団で田舎へ移った》でいなかった、或る夜ラジオで大宮島(グアム島)が玉砕《ぎょくさい=全員がいさぎよく死ぬこと》したと言った、縫い物をしていた伯母がそっと涙を拭いていた、なにか不思議な気持ちだった。

また京都に戻った、4年生になろうとしていた、東京の伯父が祖母をつれてきた、何時空襲になるかも知れないし京都のほうがまだ安心だからとの事だった、よくB29が飛ぶようになった、或る夜一晩中飛んでいた、寝られなくて外に出た、両親も近所の人も全部外に出ていた、西の空が赤くなっていた、誰かが大阪がやられていると言ったのを覚えている、それ以前に東京の伯父の家も焼けていたし、別の伯父もその空襲で行方不明のままだと聞いた。

ある日学校に行く前に急に空襲警報が鳴った、2階から見るとグラマン《=戦闘機》が何機も低空で飛んでいてびっくりした、その日は学校でもその話ばかりがった。

向かいの洋服屋の良ちゃん(ヨホチャン)が6年卒業後青少年満蒙開拓義勇軍《まんもうかいたくぎゆうぐん=日本から中国東北部へ送り出された農業移民団に自分から志願した青少年》として満州に行く事になった、我々も学童集団疎開として丹後半島に行く事となった、宿舎はお寺だったがはじめての夕食の時ノミが沢山いたのにはびっくりした、毎日お腹をすかせていた。
 
はじめて桑の実をたべた、凄く美味しかった、グミもはじめてだった、グミを食べたその夜食べた者殆ど《ほとんど》が激しい下痢を起こした、全員先生に凄く怒られた。
 
地元の友達の家に行った時牛小屋に大豆粕《=大豆から油を絞った後のかす》が無造作《むぞうさ》に置いてあった、友達に聞けば牛の餌だと言った、京都では代用食として配給だったといったら驚いていた、友達のお母さんもその話を聞いて蒸《ふ》かし芋を食べさせてくれた。

学校は分校だったが時には本校に行く事もあった、本校の講堂には教育勅語《きょういくちょくご=1890年発布1948年国会で排除》をエピソード毎に大きな絵に書いて何枚も掛けてあった、教育勅語はそのとき全部覚えさせられた。

7月のはじめ授業中に先生がすぐに宿舎に帰れと言った、帰ってみると父がいた、家族全部疎開したので迎えに来たといった、そのまま誰にもさよならを言わず父とお寺を出た。

疎開先の滋賀県に行く途中乗り継ぎ時間待ちがあり駅近くの農家で父が商売品の糸と交換してご飯を頼んだ、おかずの記憶は無いが白米のごはんが美味しく、何杯もお代わりした、父も農家の人もその食欲に驚いていた、今でもこれだけ美味しかったご飯を食べた記憶は無い。

疎開先は農家の納屋《なや=倉庫》だった、祖母の親戚筋《しんせきすじ》とか聞いた。学校では疎開もんといはれていじめられた、日の丸弁当を持って学校に行くと疎開もんのくせに、と言われる、麦飯弁当でも言われる、何故なのか今でも判らない。

ある日近くの東海道線の列車にグラマンが機銃掃射をしていた、近所の人達なんかと田んぼで見ていたら、1機がくるっと反転して機銃掃射をこちらにしてきた、驚いてそばの水車小屋に飛び込んだ、あとで牛が一頭死んだと聞いた、遠くに見える東レーヨンの工場にB29が1機爆弾を落とすのを見たのもその頃だった、落ちる爆弾がキラリと光り何時迄も煙が上がっていた。

夏休みは1週間だけだった、手旗信号《=赤白の旗を用いる信号》を習う事になった、教えるのは若い海軍の人だったが凄く怖かった、何人もピンタをもらった。

昼に何か重大放送があると言うので母屋《おもや》で近所の人々と聞いた、雑音がひどくさっぱり判らなかった、誰か大人の人が戦争に負けたんだなと言った。

その夜同じ部落の親戚の家で何か集まりがあって両親についていった、その家のおばさんがもう空襲は無いと言ってあかあかと電気をつけた、もの凄く明るく見えた、それなら明日から手旗を習わなくても良いんだな思うと嬉しかった。

                                          

 
 



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