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私の戦後はまだ終わらなかった

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/7/17 17:30
スカッパー  半人前   投稿数: 25
確か沖縄が米占領軍から返還された時《1972》 当時の総理が言った「最早戦後は終わった」という言葉を 今でも覚えている これから記述する事実は この方には未だ戦後は終わっていなかったのである 
幸い当時の全記録をコピーしておりましたので メールのやり取りを主に事実のみ書きます〔原文〕 (戦死者以外は匿名《とくめい=名を秘す》にします)

 (それは2003年8月21日の見も知らない方からのEメールから始まった)
「拝啓 突然のメール失礼いたします
私はOOOOで輸入車の販売修理を営む HT と申します
先日アメリカLAに住む 日系4世の友人が私宅を訪れ 調べて貰いたい事がある と頼まれました
彼PYいわく アメリカ在住の従兄弟《いとこ》の兄弟の消息を知りたい
この人の兄弟に頼まれたと 戦後アメリカに渡り 自分の兄が 戦死したのは分かるが ただそれだけで 他は何も分からない 是非日本に行く機会があれば 詳しく そしてどのような人であったか 是非知りたい この人ももう先がないようなので唯一《ゆいいつ=ただ一つ》心残りであるそうです

     名前は   緒方 秀一  一飛曹(注、一等飛行兵曹)
                          出身県  熊本
     出撃部隊名 徳島第五白菊隊
     出撃 日時 20年6月26日
  上記は私が 調べた内容です

どなたか この緒方 秀一さんの人柄をご存知でないか? と不仕付けながら メールいたしました
もし 少しでも 分かる事があれば 情報を返信して頂けたら 幸いです
宜しくお願いします」

(以上の第一信が突然入り 如何して私のアドレスが判り 戦中の事について照会があるのかと 一瞬不審におもいましたが特攻戦死者の事でもあり早速手持ちの特攻戦死者名簿を調べると 確かに間違い無く 彼の名前を発見 私が居りました鹿児島串良海軍航空基地から発進しておりました
しかし 私の所属飛行隊でもなく また一等飛行兵曹で同期でもないので詳しい情報は判らず 取り敢えず 次の返信を発信しました)

2003年8月21日(返信)
「HT様
特攻戦死者に対する御照会の件について 返信します

お調べ通り20年6月25日神風特別攻撃隊《太平洋戦争末期、海軍で編成された、敵軍艦、空母などに飛行機で突入する体当たり攻撃隊》徳島第五白菊隊で5機が鹿児島串良基地を発進しており その一番機として(二OO五)今西二飛曹(注、二等飛行兵曹)と同乗で緒方一飛曹が特攻に出撃しておりますが 私は当時攻撃第251飛行隊付で串良基地におりましたが 他隊の事は詳しく判りません 海軍の場合各クラス毎に戦後もクラス会が継続しているものもあり 彼の場合乙種飛行練習生(注、乙種海軍飛行予科練習生)ですから このクラスの会があれば 分かるかも知れません  当時の記録は防衛庁戦史研究所か厚生省(復員援護局昭和50年頃)あたりで記録があるかも知れません 当方でも知人に当たって見ますが 何か判ればれ連絡します
尚 私のアドレス誰から聞きました 良ければ教えてください   HS拝」

2003年8月22日HT様より
「大変有難う御座います
HS様のアドレスは 白菊隊を調べて居た所 掲示板 にて クリックした所 アドレスが出てきたので 失礼と知りながら メールしてしまいました 申し訳ありません
この様に協力いただける方が 日本にいる事を アメリカに住む 緒方 秀一さんの親族にお伝えします さぞかし喜ぶと思います 何せ 殆ど《ほとんど》絶望していたので ご無理の無いところで 何か判りましたら 又ご連絡いただければ幸いです  中略
特攻の話を調べれば調べるほど テレビや資料と違った一面があり 私個人として 何かが私に足らない部分を教えようと さえ 感じます 私にとって過去の現実を私なりに感じて 今 今後の世をどのように生きるか プラスになると思います     有難うございました」

(成るほど そういえば Fmellow の掲示板に何回か 戦中の事について投稿した事が あり それを見てアドレスを発見したのかもと 納得)

2003年8月22日(返信)
「アドレスの件了解しました
緒方 秀一君は乙種海軍飛行予科練習生(18期)で高等小学校卒あるいは旧制中学2学年から海軍航空兵を志願されたのでしょう 中略
私がいた串良海軍航空基地から出撃された同じ基地にいた事は奇遇《きぐう=不思議なめぐり合い》でした
色々各クラスを尋ねたところ 緒方君と同期(乙飛18期)が関西で見つかりましたので 私から照会して見ます その結果は次便にて報告いたしましょう
戦後58年も経ておりますので それぞれ喜寿《きじゅ=77歳、喜の祝い》を超えているものと思います
判明次第直接貴兄から照会されるように取り計らいたいと思ってます
それまで 少し時間を頂きます
                           HS拝」
2003年8月22日HT様より
「お心遣い本当に有難うございます」

(早速 乙飛18期の関西在住の方に電話にて照会したところ 彼らの同期の名簿にも登載《とうさい=記載》があり 確認はできましたが 緒方君自身を知る方はおらず 彼の人となりを把握《はあく=手に入れる》する事が出来なかった 何分多く(千人以上)の同期の中の一人であり又戦後58年も経過しており 個人的なものまで調査出来なかった 今まで判明したもので 取り敢えず報告書を作成 搭乗した機上作業練習機 白菊と串良平和記念塔の写真を添付してA4版5~6枚にまとめた)

2003年8月24日(返信)
「HT さま
ご依頼の件 不十分ではありますが 取り敢えず調査をまとめましたが 残念ながら ご本人の性格なり人となりを聞きたいと思い調査しましたが 結果上手く《うまく》ゆきませんでした 判明した事項等と参考資料等も含め 添付書類にと思いましたが 都合でA4版5~6枚になりますので郵送させてください
ご都合の良い住所をお知らせ下さい おまちしてます
                         HS拝」

2003年8月25日HT様より
「〒OOOO 住所OOOOO
      HT宛
まで 着払いで お願いいたします

本当に有難うございます 普段私は仕事以外で見ず知らずの方にインターネットで問い合わせするということは 全くしない人間ですが 今回緒方さんの件に関しては何故か ためらいなく 自然に調べている自分を感じます そしてHS様の様にためらい無く ご協力頂き 人情を改めて感じさせて頂きました
中略
過去の彼らの死というものを 無駄死にさせるか 意味ある死にさせるかは過去の出来事ながらも 現在から未来の日本人一人ひとりにその「意味ある死」にする事が永遠に責任としてあるように 感じました
以上私の感じた事です 失礼ありましたらお許し下さい」

2003年8月25日(返信)
「HT 様
お申し越しのご照会の件 私なりに纏め《まとめ》ましたが 御気に入るかどうかわかりませんが 今日郵便で発送しておきました 本当に図らずもこの様な 意思の交換が出来て喜んでおります 
中略
御報告内容その他 追加不明な点は遠慮なくお申し付けください
                           HS拝」

2003年8月28日HT様より
「報告書届きました
HS様と周りの方々まで 御協力頂き 私のとっては 十分過ぎるほどの報告書でした まさか当時の緒方氏遺族の連絡先までわかるとは アメリカの遺族の話ですと 理由はわかりませんが本家との意志疎通《そつう=通じる》が途絶えて やはり50年以上は経つと 話していました 連絡が付く付かないは別として 喜ぶと思います
HS様始め御協力いただいた皆様に対して 深くお礼させていただきます
中略
個人的な質問をさせて下さい
当時 白菊 という飛行機 装備少なく重量軽くする為無線機まで下ろしたと有りますが それなら緒方さんの様に副座で一人分余計に重くなると思うのですが 失う命は一機に対し1つでいいと思うのですが 零(零戦)《ぜろせん=海軍の零式戦闘機》は一人ですよね
後一つ アメリカの友人が質問があるらしく あとで 連絡させていただきます」

2003年8月28日〔返信〕
「HT様
無事に到着 安堵いたしました
中略
御質問のお答えを致します
機上作業練習機 白菊 に2人搭乗したのは 緒方君は偵察員(ナビゲーター)で操縦員がペアとして必要です 海軍では分業制度で操縦員 偵察員 電信員と分かれ 通常は艦上攻撃機はこれ等3人で一ペアを組み艦上爆撃機は操縦と偵察の2人で一ペア 戦闘機は操縦員が偵察員の職務をかね一人で搭乗します
従って最低2人が必要です 
                              HS拝」


2003年8月29日HT様より
「中略
納得しました 
アメリカに調査書がHS様から届いた事を連絡した所 次のメッセージが届いております
Thanks for everything I will forward this to my relative.
そして彼なりの調べによると どうも緒方さんの飛行記録 らしきものを入手したらしいのですが 私にはどうも判りません 下記になります
戦闘概要
①徳島空機密第18号の60(20.6.26)
「徳島海軍航空隊第五次白菊特別攻撃隊戦闘情報」
串良航空基地、徳島海軍航空隊司令職務執行者、海軍大佐川元徳次郎によれば
予定経路=⑥機串良-黒島-211度210浬-141度75浬-嘉手納沖
     =2機串良-黒島-211度150浬-111度125浬-246度-70浬-中条湾
(これは八機で⑥機2機で2箇所、嘉手納、中条湾に攻撃にいったとでよろしいのでしょうか)
②行動。単機。白菊×8機
高度500 211度  100浬より100  以下。
(これは全然わかりません 何がなんだか?)

③25日2005串良 発進  〔内5機未帰還〕
電信機搭載なきため発進後の経過並びに成果不明未帰還
(3機無事帰還のようですが HS様の調査では5機と有ります
その 3機は護衛又は誘導だったのでしょうか?)
布告 204」



2003年8月29日〔返信〕
「HT様
以下の項目について 私なりに説明いたします
私の報告書に記載した 発進記録は 特攻と認められた者のみの記録で これ以外に同時に発進したが エンジン故障或は天候不良等不測の出来事で基地に引返した者は 大抵次の日に再度させる事が多く 例えば5月25日の1機は 5月24日に発進した内のⅠ機の再発進であり 6月26日の機は 5月28日発進した内の1機の再発進である その他途中不時着等機体破損等で行けなかった者もあります
① については
仰せの通りと思います 恐らく3機は前述の様なトラブルで途中不時着でもしたのではないでしょうか(この予定針路をチャートに記載確認しながら飛んだのであろうと想像します 大体南西諸島伝いに飛びます)従って途中の島にでも不時着すれば 島から連絡が時折入ります
② については
 当日の行動記録は無線機も無く 直援機もなければ記録も書けません 従って予定通り行動したとしか書けません
③ については
 無線機はやはり外していたようです 3機は前述のように引き返したのでなく不時着で無いでしょうか 単機での行動ですから直援機も誘導機もありません特攻当初では直援機もありましたが この頃には単機夜間出撃で練度《=訓練度》の低い搭乗員では目的地に着くか着かないかの瀬戸際でしょう 
中略
「電信機未搭載の為発進後の経過並びに成果不明未帰還」
今から考えて こんな無責任な事がまかり通っていたのである
通常特攻では突っ込む時に電信でトトト(短符)〔我突入する〕でツーーーーーー{長符}を発進 この長符がきれた時自爆したものと判定され 聞いている基地電信室の電信員は 思わず「たまらん」とよく言っていたのを思い出す
白菊の場合の確認方法は米軍の記録にあるやもしれません 途中撃墜された時は如何《いかが》なんでしょうか 少し感情がはいりましたがお許し下さい
                            HS拝 」

2003年9月3日{追伸}
「HT様
戦後58年 いまだに当時の肉親の最後 経過等探しておられる 御遺族がおられる事を再認識いたしました
私にはまだまだ戦後は終わっていない事を思い知らされました
又同じ基地に存在していたのも 奇遇でした
中略
当時戦況の状況を客観的に判らず 将棋の駒の様に振り回されていただけの自分を想い 恐ろしさと生死の別れ目に対して運命を感じます
今回の件についても 私宛にメールが届く事事態 戦死者との運命をかんじます これで少しでも御遺族が安堵《あんど=安心》して頂ければ幸甚《こうじん=幸せ》におもっております
御社の御発展と御幸福をいのり 有難う御座いました
                             HS拝」

2003年9月3日(HT様より)
「本当に 恐縮いたします お礼 感謝 をするべきは 私の方です
このたび 私は 過去の特攻についても視野が広がり 新たにHS様の様に見ず知らずの人間に対し 貴重な時間 努力を惜しまず 使っていただき「人情」について心一杯です
ただ今送って頂いた資料を一部英訳する為に 仕事の合間みて奮闘中です 普段使わない単語のオンパレードなので もう少しで完了 で そして アメリカに送るつもりです

HS様の様な方は究極《きゅうきょく=物事のきわみ》の人生を歩んだ方と私は思います
戦争を実践で体験した方々 まして特攻部隊に所属していた人々は私には到底分かりえない 感覚をお持ちだと思います
当時を自分に置き換え 家族 国の為に死ねるか?と問われると 私も家族の為なら・・・と思います が大事なのは これはあくまでも 思っただけ シュミレーションの世界であって 本物の出来事ではない この夏 色々な思いにふけます  私の8歳になる息子が アニメ映画の「蛍の墓」が大変彼にとって影響があるらしく この夏休みだけで 6回くらいビデオを繰り返し見ています そのたびに「悲しい 可哀相だ」と言っています 此れだけ彼も繰り返し見ると 自分成りに戦争について考えるようになり 色々私に なぜ なぜ どうして ? 聞いてきます 私は彼に対し 神風菊水作戦の話や HS様の様な方々が現在も尚 頑張っていて 話が聞ける事を伝えております そして彼は彼なりに理解をしているようです

アメリカの遺族は間違いなく喜んでいます 遺族の方も Thanks so much Every ting! と英語では最高の感謝の意味で 言っております
私がなにより自分の勉強となり得たことが幸運に思っています
戦死した緒方さんが引き合わせ 伝えようとさえ思います 私なりに まだまだ学ばなくてはいけない事が残っている事を実感します
HS様の行っている事は 花びらとして散った人々の魂の最大の供養だと思います
今後も 何かとお問い合わせ させていただきたく 思います
お忙しいとおもいますが 是非宜しくお願いいたします」


以上で交信記録は終りますが 一片の戦死通知だけで遺骨も還らない多くの御遺族のおられる事を考えると やり切れない気持ちをどうする事もできません
         合掌            スカッパー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/7/23 11:06
しんちゃん  新米 居住地: 河内長野市  投稿数: 20
スカッパーさん。

“私の戦後はまだ終わらなかった”を最後まで感慨深く読ませていただきました。

戦後58年(この文書の紹介の当時)経《た》っても、肉親を思う切々な気持ちが伝わってきます。
特別攻撃隊の基地としては、知覧《ちらん》が余りにも有名になりすぎて、串良は良く存じませんでした。

私が軍需工場で油まみれになっていた14歳の頃、(昭和19年10月頃)フイリッピンで初めて神風特別攻撃隊なるものが編成され、敵の航空母艦を撃沈したとの新聞報道があったのを記憶しています。たしか「忠烈《ちゅうれつ=忠義のきわみ》万世《ばんせい=永遠》に燦《さん=きらびやか》たり!」とあったように思います。
当時は戦果ばかりが報道されて、国の未来を信じて死んでいった方々(20歳前後)の気持ちを推しはかる余裕はありませんでした。

昭和20年頃からですか、鹿児島の各基地から特別攻撃機が沖縄に向けて片道燃料だけで飛び立ちましたね。
国民の多くは新聞・ラジオによりウソの戦果に鼓舞《こぶ=ふるい起こす》され続けました。今にして思えば、18才から23歳位の特攻隊の方々の気持ちはどの様であったかと推察致します。

日本は60年間も平和が続いております。これからも戦争の悲惨《ひさん》さを後世に伝えて、2度と戦争を繰返さないようにこの伝承館で伝えていかねばと思います。

しんちゃん
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/7/24 10:06
スカッパー  半人前   投稿数: 25
しんちゃん
コメント有難う御座いました
当時の私は前ばかりみて 客観的に見えなかった嫌いは有りました
まさか 戦後58年にもなるのに こんなメールが飛び込むなんて まさに奇遇でした
当時は 沖縄に近いとて南九州には幾つも特攻基地がありました
海軍の場合 鹿屋は戦闘機 大型陸上攻撃機の特攻基地
      第二国分基地は 艦上爆撃機
      串良基地は   艦上攻撃機のそれぞれ特攻基地でした 多くの戦友が出撃して行きました
二度とこんな悲しい事があってはなりません 大国のエゴが今でもまかり通る世の中 国の舵《かじ》取りは十分に気をつけて欲しいものです                    スカッパー
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