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大正生まれの戦前・戦中記 その1(投稿 神津康雄)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/7/11 17:52
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358

 群馬県との県境にある山村、長野県の志賀村(現在の佐久市志賀)に生まれました。
 神津家は三百六十年前の慶長年間《1596-1615》から続く家柄で、天保年間には五十町歩《50ヘクタール》五百石《こく=幕府や藩から与えられた扶持の数え方》、信州有数の地主でした。正住寺山を背にして大きな長屋門が目に入ります。人呼んで「赤壁の家」は今も現存しています。父は神津家の十一代当主で、慶応義塾《けいおうぎじゅく=1858年福沢諭吉が開いた洋学塾。現在は総合大学》に学びました。多才な人で、文豪島崎藤村と深い交友関係にあり、処女作『破戒』の出版から、生活費、フランス滞在費などいっさいの資金援助をした間柄でした。

 私は十人兄姉の九番目でした。しかし、昭和初期の経済大恐慌《だいきょうこう=経済不況によるパニック》の時、地元の銀行の役員だった父は全財産を抛《なげう》ち、一部の家・土地を残しただけで破産同様の状態となり、中学二年の時に、両親、弟の四人で、「夜逃げ」同然で東京に出たのです。そして私は知人の伝手《つて》で東京府立五中に編入学しました。

 医学の道を目指した動機

 私は小さい時から絵が好きで、特に中学の三、四年生頃は勉強せずに絵ばかり描いており、美術学校に行くつもりだったのです。ところが仙台の第二高等学校を出た兄から「画家なんて人間のクズだ」と大反対を受けました。建築科なら良いということになり、二高を受験して二度失敗、二浪して山形高等学校の理乙に入ったのです。
 入学は昭和十三年ですから、すでに日支事変《=日中戦争》も始まっており、社会は戦時下の気配が濃厚でした。以前から高等学校といえば弊衣破帽《へいいはぼう=ぼろ衣服に破れ帽子、旧制高等学校生の風俗》、下駄履き《げたばき》にマント、そしてストーム《集団で騒いだり暴れたりする》というのが伝統だったのですが、まず寮の入り口に「長髪禁止」の貼《は》り紙があるのを見てびっくりしました。そんなことに猛反発、入寮早々の集まりで、これを弾劾《だんがい=罪を追求する》する大演説をぶったり、二年生で寮の委員長に選ばれたのをいいことに、三年間、厳しくなった校則を破る行動などを繰り返して大いに暴れました。

 いよいよ大学への進学という時になり、親友に頼んで、東京帝国大学の建築科に願書を出しに行ってもらいました。しかし帰ってきた友人から「建築科は希望者の倍率が高くお前には無理だ。兵隊に行くしかない」と言われました。この時、理乙のクラスメートは私たち二人を除き全部医学部志望でした。医学部は無試験で大学四年間兵役免除ですから、私たちも医学部にしたわけです。

 旧制高校で大暴れ、校則破りを指揮して退校寸前に
 
 私は一年生の終わりに寮の委員に選ばれ、二年生になったら総務委員長に選任されてしまいましたが、この役は寮の催し物の企画その他の責任者ですから何でもできるのです。
 ところが、その頃になると、時節柄、街頭行進はだめ、寮祭も不可、ストームも認めないといった調子で、昔からの旧制高校らしい行事はすべて禁止という有り様でした。私は委員長として学校と何度も交渉したのですが、ラチがあきません。そこで一計を案じて、街頭行進の代わりに「招魂社《しょうこんしゃ=国家のために殉難した人の霊魂を祀った神社》参拝」をやる許可をとったのです。紋付《もんつき=紋の付いた衣服、和服の正装》、羽織《はおり》、袴《はかま》姿も認めさせました。太鼓も学校を出るときだけ叩くという条件で持っていくことにしました。参拝を終わり、山から下りて山形市の一番の繁華街八日町まで来た時に、ここで太鼓を打ち鳴らし、ストームを強行したわけです。

 そうしたら警官がとんで来て「中止しろ。責任者は誰だ。警察へ来い」とすごい剣幕。私が名乗り出ると「ブタ箱《=警察の留置場のこと》だ。警察へ来い」というのです。「いいです。行きましょう」と警官と一緒に歩き出しながら、皆には「俺が行ってくるから、ストームはやれ」と指示して続けさせました。
 警察では「何がいけないのか。どうして捕まえるのだ」と反論、やり合っているうちに、学校から生徒主事が飛んできて、「ブタ箱」入りは免れました。また寮祭についても「運動会」ならいいでしょうと許可をとり、始めたのですが見物に来る町の人たちには、そんなこと関係ありません。見物人の前では、運動会ならぬ寮祭と同じ趣向で盛り上げたわけです。
 度重なる私のやりかたに怒った学校当局は教授会で、私を退学させるという会議を開いたのです。その時にただ一人、反村の熱弁を振るい「神津は見所のある男である。将来のある男の退学処分には絶対反村する」と弁護、救ってくれたのが、私が尊敬していた数学の柳原先生でした。この先生の御蔭で私は無事卒業できたのです。

 東北大学医学部を卒業、黒川利雄先生の内科に

 私は昭和十六年の入学ですが、ちょうどその時に黒川先生が、助教授から教授に就任されたのです。先生には大学二年生の時に臨床講義を受けました。その頃から、私たちは先生の人柄に魅《ひ》かれ、慕っていまして、入るのは先生の医局と決めていたのです。戟争の関係で、医学部も昭和二十年の卒業予定が半年繰り上げとなり、昭和十九年七月になったのですが、私はすでに海軍軍医中尉として戸塚の海軍軍医学校で教育中でしたので、卒業証書は軍医学校で受け取りました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/7/11 17:55
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358

特攻訓練で墜落、惨死《ざんし=むごたらしい死》の将校仲間十一人を検屍《けんし=検死》―――軍医時代の経験

 軍医学校で半年の訓練を受けた後、名古屋の海軍第二河和(こうわ)航空隊付になり赴任《ふにん=任地へ行く》しました。ここは 『下駄履き』《げたばき=水上機には水面滑走用のフロートが付いていたので下駄履きと言った》の水上機の特攻《=特別攻撃隊》基地です。昭和二十年一月から六カ月いましたが、約二十人の将校と「ガンルーム」(士官室)で起居を共にし、食事も飲むのも一緒の生活を過ごしたのです。その仲間が半年の間に、半数の十一人が訓練中に事故死しました。特攻用訓練機が途中から例の零式《れいしき》戟闘機(ゼロ戟)《=海軍の小型高速の戦闘機》に二本のフロートを付けたのに変わりました。これで3000メートルの高度から最初は六十度、次には三十度という急角度で突込む訓練を始めたので、空中分解して墜落する事故が頻発《ひんぱつ=しきりに起こる》、乗員は海面に叩き付けられて、見るも無惨な即死です。一時間前まで談笑していた戟友の死体を、私は軍医としてすべて検屍する羽目になったのですから、まさに『地獄』でした。

 六月になって沖縄の設営隊への転勤命令を受けました。実は一カ月前の五月に命令が出ていたのを担当者が見落としていたのです。急いでその設営隊の連絡本部のある大阪へ向かい、本部を探し歩いたが見つからず、ようやく宝塚に移っているのが分かり、出頭しました。そうしたら、担当の中佐から開口一番「貴様《きさま》、いまごろ何しにきた。おまえの代わりにすでに三人が戟死した。責任をとれ。わかっているな」と怒鳴りつけられました。「自決《じけつ=自分で死ぬ》しろ」という意味です。死に場所を求めて近くを探し歩きましたが、どこへ行っても人がいます。まさか人前でピストル自殺するわけにはいきません。

 たまたま目についた小屋があったので入ると便所でした。ここならと思いピストルに手をかけ、下をのぞいたら、ウジムシが無数にうごめいているのが目に入りました。こんなウジムシと一緒では死にきれないとピストルから手を離し外へ出たところへ、あの中佐の従兵が駆けよってきて「すぐに中佐のもとへ来て下さい」というのです。連れ立って本部に戻ると、さっきとは違い中佐は機嫌がよく「ちょうどよかった。徳島の設営隊で集団赤痢《せきり=法定伝染病の一》が発生した。貴様、そこへ行ってくれ」という命令です。そこは徳島の近くの「学」町にあり三千五百人の隊員がいる第五八四設営隊で「第三航空艦隊」指揮下に属しており、私は町の病院などの医師にも応援を求め防疫《ぼうえき=伝染病の発生を防止する》に当たりました。

 昭和二十年の八月近くなるともう敗戟の気配が濃厚になってきました。その三週間くらい前でしたか、設営隊を統括する航空隊司令から「敗戟になると四国は敵に占領されるかもしれない。その時は全員自決するように総員人数分の青酸カリを呉《くれ》の施設本部まで取りに行け」という命令が私にありました。苦労して呉につき、担当の薬剤少佐に話すと「駄目だ」と断られました。「設営隊になどやる分はない」と言うのですが、強引に頼み、259グラムの青酸カリをもらい、隊に辿《たど》りつきました。全員自決のことを主計長《会計係の長》に相談すると、「やめておけ」というのです。まもなく八月十五日を迎え、隊は自動的に解散となり、その後、いろいろありましたが、法務《法律上の事務をとる》中尉の副長、と主計長、私の三人が十一月まで隊に残り残務整理に当たりました。

神津 康雄
大正8年2月生まれ
日本病院管理教育協会理事長
日本臨床内科医会前会長
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/4/12 13:42
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
命がけの辺地診療

 復員後、昭和二十一年から黒川内科に戻り、学位論文の仕上げが終わった段階で、先生の指示に従い、いくつかの病院や診療所に勤めました。
 その後、昭和二十五年一月、青森県の浪岡町に町立病院をつくることを先生から命じられたのです。町外れの広い敷地に七十床の病院を建てるため、設計、建築からはじめ、職員、医師、看護婦の選任に打ち込み、昭和二十七年七月五日にやっと開院にこぎつけました。弱冠三十三歳でした。
 ところが、当時の浪岡町は自民党と共産党が血みどろの政争を展開中でした。
 町立病院は、当時の青森県としては出色の施設として注目され、折り紙つきの医療レベルを保って順調なスタートを切ったのですが、これに対抗した共産党系の人たちは昭和二十八年、町の一角に別の組合立共済病院を建設、露骨な対抗措置をとり始めました。患者の奪い合いが激しくなり、回診してみると、町立病院の入院患者が前の晩に担架で組合病院に連れ去られ、居なくなっていたなんていうこともありました。
 そのうち、院長にも矛先が向いてきました。ある雪の日、私が馬ソリで、往診に出かけると、共産党員の家から馬の尻に大きな石が投げつけられ、驚いた馬が棒立ちになりました。ソリはひつくり返り、私は抱えていた火鉢で危うく大火傷を負うところでした。親しい患者からは 「先生、気をつけないと子供さんが危ないですよ」という忠告まで受けるようになりました。
 こんな状況に大詰の時が来ました。昭和二十年六月、町民大会が開かれ、町の保健施設として町立病院、組合病院のありかたを討議することになったのです。当然、町長・助役と共産党との村決です。その日、私が外来で診察をしていると、自民党の幹部が血相変えて飛んできました。当事者の一人、助役が首を吊って死んでしまったというのです。
 咄嵯に、次は自分の命が危ないと思いました。早速、私は仙台に飛び、黒川先生にお会いし、詳しく現状を報告、転勤を願い出ました。しかし、ことはそう簡単にはいきません。東京にいる親友に電話、相談したところ「東京に出てこいよ。部屋も提供するから」ということです。そこで、急遽、荷物をまとめ、幼い子供三人を連れて一家五人で、東京へ『大脱走』ということになりました。
 浪岡の駅を発つとき、聞きつけた患者たちが、何十人も線路の周りに集まり、旗を振って別れを惜しんでくれた情景が、重い心にいつまでも残っています。


神津 康雄
大正8年2月生まれ
日本病院管理教育協会理事長
日本臨床内科医会前会長
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