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我が家の引揚げの記録(母の回想)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/1 14:26
キタノホマレ  新米 居住地: 奈良県王寺町  投稿数: 5
我が家の引揚げの記録(母の回想)

私達家族5人は昭和20年(1945年)10月に南鮮の大田(テジョン)
から引き揚げてきました。当時私は4歳でしたので、そのときの記憶は
ほとんどありませんが、亡父や現在91歳の母親からこれまで聞かされて
きたことをメモにしてありましたので、この機会に自分なりに整理して
伝承館に投稿することにしました。

あれから60年の年月が経ちました。
満州など大陸から引き揚げてこられた方々の苦労とは比較にならないとは
思いますが、戦後すぐの混乱の中を、まだ年端《としは=年齢》も行かぬ私
たち兄弟を護りながら南鮮から三重県までの両親の長い道のりを思うとき、
今さらながら両親への感謝の思いでいっぱいです。
以下、母の回想の形でまとめました。

            *    *    *  

私たち一家は、主人《=夫》が勤務していた朝鮮電力の大田変電所
の社宅に住んでいた。敗戦を迎え、政府の引き揚げ計画があったが、情報
不足でいつ帰国できるのか時期がわからない。いつまでも待っていると生
命の保証がない。 朝鮮人が日本人の広い社宅に早く入りたがっている。
早い人は敗戦とともに早々と帰っていったが、みんなバラバラ。

とにかく釜山まで行かなければ船に乗れない。何はともあれ着の身着のまま
で出発することにした。大きな荷物はあとから出発する遠縁の小坂さん(鉄
道に勤務していた)に、落ち着いたら日本に送ってくれるよう頼んだ。
(結局どれも届かなかったが…)
小坂さんに釜山までのキップの入手を依頼した。何とか汽車に乗れること
になったが、郵便車しか確保できなかった。

昭和20年《1945》10月2日か3日だったと思うが、大田を出発して
一晩かけて釜山までたどり着いた。同行したのは、我が家の5人
のほか、私の兄の家族4人、変電所長の田島さんの家族3人だった。
田島さんはご主人が召集中で、家族を頼まれた。

釜山の港に着くと、埠頭《ふとう=船着場》は乗る船を待つ人たち
でものすごい大混雑。朝鮮各地から一斉《いっせい》に日本人が
釜山に集まったのだからなかなか船が確保できなくて、もう20日も待って
いる人もいる。埠頭は最悪の衛生状態で、トイレなどは垂れ流し状態。ま
ったく途方にくれてしまった。

そんな混雑の中でとつぜん3歳の娘が行方不明になってしまった。全員
で必死になって長時間あちこち捜し《さがし》まわったが、大変な人ごみ
のためなかなか見つからない。ほとんど諦めかけていたときに、叔父《おじ》
の「おったぞー!」という大声、桟橋《さんばし》の柱の陰にもたれて
いた娘を発見した。本当に嬉しかった。
もし見つかっていなかったら、「残留孤児」《その地に残された子供》になって
いたのではないかと今でもゾーッとする。

とにかく今夜ここで寝なければならない、と適当な場所を探していると、
なんと!「朝鮮電力の人はこちら→」と朝鮮電力の従業員あての張り紙を
主人が見つけた。地獄に仏、とはこのことだ。そちらの方へ行ってみると、
「会社が雇《やと》った船が今夜出るから来なさい」とのこと。大変な幸運
に恵まれて、ほかの人たちには悪いけど、この時ばかりは本当に神に感謝した。

釜山までは、親しくしていた朝鮮の人たちも何人か見送りに来てくれていた。
その晩はその人たちと一緒に夕食を共にしたことを覚えているが、何を食べた
のか記憶がない。

会社が雇った船はとっても小さな船だった。それまで日本への往復に乗って
いた関釜《かんぷ=下関ー釜山》連絡船には比べ物にならない小船で、
とても心細かった。こんな小船で玄界灘《げんかいなだ=福岡県北方の海。
波が荒いので有名》
を渡れるのか心配だった…でも贅沢《ぜいたく》
は言えない。釜山の港を出るときに、すぐ側を大きな船が通った。
ぶつけられないようにみんなで腕を伸ばして、相手の船の舷側《げんそく=
船べり》
を押した。
船は大揺れに揺れて、みんな船酔いで大変だったが、船酔いには強かった
兄がみんなの世話をしてくれた。

船は翌朝、山口県仙崎《せんざき》港に着いた。ちょうど隣に停泊し
ていたミカン船がいて、みかんを分けてもらって食べた。美味しかった…
やっと日本に帰れたという気持ちとともに、その味はいつまでも忘れられ
ない。


どこの駅からか覚えていないが、貨車に乗った。普通の客車なんかなかった
と思う。三田尻(今の防府)まで来て、ホームで毛布(軍用の)を敷いて
寝た。途中、駅の待合室で寝たこともある。ほかにも同じような人がたく
さんいたので、あまり惨め《みじめ》な思いはしなかった。でも、気の毒
に思ったのか、あるとき枕元に5円玉が置いてあった。運がよいときには旅館
にも泊った。
でも、旅館に泊るには米を持っていないとダメ。幸い、出発する時に持てる
だけの米を持ってきたので助かった。

広島まで来て、停車中にホームから一面焼け野が原の広島の町が見えた。
日本はこんなことになっていたのかと、涙が出て仕方がなかった。原爆から
僅か《わずか》2ヵ月後の広島を目撃したのだった。

明石まで来たら、台風のため鉄橋が落ちていたため足止めを食ってしまった。
(注:その前月に枕崎台風が来襲して、広島県では死者・行方不明者合わせ
て2000人を超えるなど被害は甚大《じんだい》であり、原爆の惨禍《さんか=
ひどいわざわい》
に追い打ちをかけた。)
何処《どこ》で泊ったのか記憶がない。主人と兄が次の駅まで歩いて、何往復もして
みんなの荷物を運んだ。そのあとみんなで歩いたが、何処の駅でまた汽車に
乗ったのか記憶がない。

そのドサクサの中でトランク(皮製)を一つ失ってしまった。必死の思いで
背負ってきた貴重な荷物だったのでショックだった。主人の背広などは持って
きたが、自分の着物は全部捨ててきた。途中で二男(当時生後10か月)の
おしめを失くしてしまったので、自分達の肌着を破っておしめ代わりにした。

そのあと何処をどういう風に通ってきたか覚えていないが、何とか私たち夫
婦の故郷である三重県まで辿り《たどり》着いた。主人の実家での
最初の食事はお粥だった。
朝鮮では内地より食料事情が良かったので、とにかく悲しかった。

以上
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