終戦直前から日本へ引き揚げ
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- 終戦直前から日本へ引き揚げ (らごら, 2005/8/3 13:35)
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投稿日時 2005/8/3 13:35
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
終戦真近の日常
京城(ソウル)に近い永登浦に住んでいました。
父は郵便局に勤務、私は永登浦小学校という日本人小学校の6年生でした。
通学
学校まで徒歩で20分位でしたが、僕等が通学する方向と逆の方向に朝鮮人の学校があって、時々朝鮮人児童(当時は韓国とか北朝鮮がなかったので以後朝鮮人と書きます)がわざと広い道一杯に広がっての通学、僕等日本人への嫌がらせをやられていました。石が飛んでくる。そちらを向くといかにもわざとらしく上を向いたり横を向いたりする。そういう雰囲気《ふんいき》の中を、怖いけれどやせ我慢して通り抜けたことが何回かありました。
こう云うときは、大部分の日本人生徒は外へ出ませんでした。
そういうことの対策かどうか分かりませんが、学校の指導で近所の同校生が集まって隊列を作って学校へ行進するようになりました。私が年長だったので班長でした。途中、先生がこられると「ほちょうとれー かしらーみぎーっ」と、軍隊式の挨拶をしました。戦闘帽《せんとうぼう=軍隊で使用した略帽を真似たもの》を被り国民服《=戦時中一般男子が着た軍服に似た洋服》を着た男の先生は敬礼を、もんぺ姿の女の先生は会釈《えしゃく=おじぎ》で返礼しました。こういうことをするようになってから、朝鮮人児童の僕等日本人児童への嫌がらせはなくなりました。
空襲
B29《=アメリカの大型爆撃機》が偵察《ていさつ》飛行ではるか上空を飛行雲を曳《ひ》きながら飛んできたことが数回ありました。空襲警報がでて一応は防空壕へ入ったものの、僕等は物珍しさから外へ出てその飛行雲を眺めていました。
家の近くに飛行場はあったけれど、迎え撃つために舞い上がった飛行機はなかったように思います。高射砲も撃っていませんでした。飛行雲が出る位高いところまで弾が届かないと云うことでしょうか。
ラジオ放送は日本語が大部分でしたが、この空襲のときから朝鮮語でも空襲に関するの放送が多くなったような気がします。私は朝鮮語は知りませんが「イルモンピャンギ イルモンピャンギ トラガッソスミダ・・・」なんてやっていました。
学校を軍隊に
戦争末期になった頃、学校を軍隊が兵舎として調達《ちょうたつ=軍隊が強制的に借り上げる》してしまったので、生徒は自宅学習と言うことになっていました。
学校はどうなっているのかと思い行ってみました。新兵さんの体操の時間で、鉄棒の逆上がりをやっている。ところがそれがどうしてもできない兵隊さんが多数いました。怒った上官は「お前達はぶったるんでいる 気合いを入れる 一人ずつ殴《なぐ》るからお前らも俺《おれ》を殴り返せ」といって殴っては殴り返させていました。部下がちょっと遠慮して殴ると、もっと本気で殴れと怒っていました。10数人の部下と殴り合った後の上官の顔は物凄く膨《ふく》れ上がって痛ましかった。軍隊ってとこは凄いところだなーと実感しました。
赤ベタ
父は外地での公務員なので徴兵《ちょうへい=強制兵役》はありませんでしたが、一応何日か体験入隊をさせられました。正式な兵隊ではないので徽章《きしょう》には星が着いていない。僕等はこれを「赤ベタ」といって馬鹿にしたものです。この体験入隊でもなにがしかの賃金は出ていたようです。父はそれでも「○○の賃金を貰ったよ」と笑っていました。いくらかは具体的な金額は覚えていないけれど、子供心でも「なーんだそれっぽっちか」と思ったのを覚えています。
勤労奉仕
母は近所の森永だったか明治だったか、大手の菓子製造工場に勤労奉仕《=無償で働くこと》に出かけていました。給料はなかったけれど、時々は乾パンの原料でメリケン粉の練ったのを貰ってきました。これはそのまま蒸して食べましたが、若干《じゃっかん=いくらか酸っぱいちょっと変わったパンの味でした。
私は小学校6年のとき、学校では油を穫《と》るための菎麻子(ひまし)《=トウゴマ》を大量栽培をしたり、麦や野菜などの栽培、軍隊で使う水筒を吊《つ》るための革製品やバンドの遊間隔などを作っていました。不器用な私は革製品の縫い合わせが下手で、先生のところへ持っていくとこの革の合わせ方が逆だとか縫い方が緩《ゆる》すぎるとかでやり直させられました。何時も不器用な生徒数人と残されて泣きべそをかきながら縫っていました。
体操の時間は柔道と剣道が主な授業でして、剣道のときは木刀《ぼくとう》の素振りを何百回とやらされました。木刀にはいろいろな大きさのがあって、一番軽いのを取ろうと木刀置き場にはみんな先を争って走ったものです。
終戦の日
昭和20年8月15日の永登浦も朝からかんかん照りの暑い日でした。
学校は軍隊が使っているから毎日が日曜日。この日は朝から近所の池でトンボ捕りをしていました。雌の鬼ヤンマをなんとか捕まえて、30cm程度の糸を結んで30cmぐらいの竿につけて頭の上で「ヤンマボーイ ヤンマボーイ」と云いながらゆっくり回していると、雄のヤンマが絡《から》んでくる。何時も面白いように沢山捕れました。沢山捕って家路についたけれど、どうも様子がおかしい。みんな深刻な顔をしてラジオにしがみついていて、「お母さん 御飯は」と云ったら「しっ 黙ってなさい」と叱られました。やがて戦争が終わったこと、それも日本が負けたことが分かりました。
その日の夕方からは、日本人は夜は外へ出ては危ないから出るなと云うことになりました。
夜になると、朝鮮人が騒ぎ出しました「マンセー マンセー」(万歳 万歳)と町を練り歩いているようでした。どこそこの親父は朝鮮人に掴《つか》まって酷《ひど》い拷問《ごうもん》を受けているという噂が出始めました。母は怖くて昼間でもあまり外へ買い物に出かけられなかったようです。どうしても食料品がなくなって買い出しに行くと、若い朝鮮人が寄ってきて尻をけっ飛ばされたと云っていました。
父と近所のおじさんとで近くの川に釣りにいったとき、朝鮮人が寄ってきて紐で僕等の首を縛るような仕草をして「パカヤロー」(馬鹿野郎)と脅《おど》されました。何時も「おはようございます」と挨拶すると「オボッチャマ オハヨウゴザイマス」とさわやかな挨拶を返していた朝鮮人は僕の挨拶を完全に無視しました。
戦後まったく変わらなかったのは支那人《しなじん=中国人》(支那人は差別用語ではありません、彼等に対する差別用語はチャンコロです)でして、野菜が買えなくて困っていると、農業の支那人がやってきて、「どうして野菜を買いに来ないか?」と不思議そうな顔をしていました。
この日からラジオ放送も変わってきました。日本語が主だったのが次第に朝鮮語が主体になり、日本語の放送は簡単なニュースと引き揚げ情報だけになりました。
叔母の死
昭和20年9月14日に京城(ソウル)に祖父母と住んでいた叔母《おば》が病死しました。
僕等一家は葬式のため永登浦から京城へ行きましたが、まだ市電には乗ることが出来ました。後には日本人は乗せてもらえなくなりました。
我が家の宗旨は浄土真宗で、近くに浄土真宗のお寺がありましたが、どうも終戦で廃寺になったようです。浄土真宗のお経は叶わず、お婆さんは来てくれた坊さんに「浄土真宗のお経をお願いします」と云いましたが、坊さんはちょっと困った顔をしてから何やらお経をあげました。何時も主人と喧嘩《けんか》をしては家を飛び出して、祖父母の家に手伝いに来ていた朝鮮人も葬式に来ていました。涙が頬《ほほ》に何時までも光っていたのが印象的でした。この朝鮮人は日本語は話せないけれど飯炊きだけは上手ということで祖母は可愛がっていたようです。僕等はこの人を「オモニー」(かあさん)と呼んでいました。暫く手伝いで住み込んでいて何日か経つと、オモニーの主人が頭を掻きながら迎えに来るのでいつものパターンでした。
京城の風景
叔母の葬式が済んでから、どういう訳か僕だけが祖父母の家に残りました。永登浦に引っ越す前はここに住んでいたから友達は沢山います。そのなかの年上の悪が僕に米兵からチョコレートや煙草《たばこ》を買わせようとしました。近くに大きな師範学校《しはんがっこう=教員養成学校》があって、そこが米兵の宿舎になっていたようです。道路に面した塀《へい》の上に腰掛けて煙草・チョコレート・チュウインガムなどを手にしている。彼等は現地の現金が欲しくて売りつけようとしている。現金を差し出して「チョコレート」と云うと手真似《てまね》で「お前はまだ小さいから売れないよ」と云っているのが分かった。別の米兵に同じ事をしても結果は同じでした。近くの交番には日本人の巡査に代わって国連軍の兵士が立っていました。英語が出来るインテリらしい朝鮮人が話しかけていました。「アーユー アメリカン?」「ノー ウイアー オーストラリア」から始まって長々と立ち話が始まった。それを大勢の人達が取り囲んで眺めていました。
近所の友達と竹馬《たけうま=2本の竹竿に足がかりを作って乗る》で遊んでいました。それをインテリらしい朝鮮人が興味深そうに道端に座り込んで眺めている。僕は竹馬が下手でしょっちゅう手から竹が離れて勢いよく竹を地面に叩きつけた。運悪くその朝鮮人の頭を竹が直撃した。朝鮮人は今にも失神しそうになりながら耐えました。「ごめんなさい」と謝ったら、あたまを押さえてふらふらと向こうへ歩いて行きました。花園町から京城帝大付属病院でしたか?動物園?でしたか、路面電車がありましたが、これは戦時中に鉄を必要とすると言うことで撤去されていました。
京城の人的秩序《ちつじょ》は保たれていて、何処《どこ》を歩いても特に危険なことは感じませんでした。ただ小遣い欲しさに、遠い親戚を訊《たず》ねてちょっと歩きで遠出したときは、帰りが遅いと言うことで祖父にこっぴどく怒られました。なにかあったのかと必死で探し回ったらしい。
祖母は家財道具は一切日本に持って帰れないのだからここで全部処理しようと、道端に並べて二束三文で売り出しました。それを朝鮮人が買いに来ましたが、「このババー 高いことを云《い》う」と云っているよと、朝鮮語の分かる人が教えてくれました。
永登浦へ
暫く京城にいたが永登浦へ帰ることになった。ただ途中が心配だと言うことで同方向へ行く知り合いの年上の人と行くことになった。市電は走っているけれど日本人は乗せないと云う。しかたなく10km以上の道を歩くことになった。途中、龍山に親戚があるのでそこで一休みしようと寄ったら当てにした叔父《おじ》さんが居なかった。
中国人がその家の一階で料理屋をやっていたが中国人は入り口の小部屋で昼寝の最中だ。その枕元をそーっと通り抜けて叔父の居る二階に行って家捜《さが》し、黒砂糖を見つけて食べた。大分歩き疲れた頃、うっかり市電には日本人は乗せないというのを忘れて電車を待っていた。電車賃を握りしめていたけれどこっちを見ている朝鮮人が居る。直感的に危ないなと思って電車賃をそっとポケットに入れました。案の定《あんのじょう=思ったとおり》親しげに話しかけてきた朝鮮人は、僕の握りしめていた小銭を取ろと、話しながら手のひらをこじ開けたけれど、金がなかったので諦《あきら》めたようでした。やがて電車が来て乗ったけれど、直ぐに日本人と分かったらしく、女の朝鮮人車掌に朝鮮語で怒鳴られて強制的に下車させられた。なんとか徒歩で京城から永登浦迄帰ることが出来た。
引き揚げ準備
日本へ引き揚げるについて、荷物は持てるだけで車で曳《ひ》いてはならない。現金は一人あたり○○円まで(具体的金額は忘れました)。貴金属は一切持ち帰ってはならない。などの制限がありました。
荷物は父に普段《ふだん》担《かつ》げない重たいのを与えられました。火事場の馬鹿力を期待したようです。
父は大きなリュックの他に大きな麻袋を引きずるようにしました。車で曳くのではないからよいとの判断でしょう。
現金は紙幣《しへい》をくしゃくしゃに揉《も》んで服の内側に縫い込むという方法を採《と》りました。そんな事したって裏地を剥《は》がして全部調べられるんだよという噂はありましたが、実際には米兵はそのようなことはしませんでした。
家財道具は全てそのままで引き揚げることになりました。土地や家屋を持っている人も当然そのままで帰ってきました。売れたとしても現金の額が決められているから意味がない。
引き揚げ
やがて、引き揚げの順番が来てトラックで京城駅へ行き、そこから貨物列車に乗り込みました。先ず荷物を積み上げてその上に人が乗るという寸法だ。無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》でないのがありがたい。途中、ガンガンと投石を受けたけれど被害はありませんでした。釜山では乗船の順番が来るまで大きな寺の本堂などに数日泊まり込みました。
やがて順番が来て船に乗るため港へ行くことになりました。
途中、若い朝鮮人が大勢で見物しながら「バカヤロウ ザマーミロ ソーレミロ イイキミダ」などと罵声《ばせい=ののしり声》を浴びせてきたけれど、みんな下を向いて黙々と歩いて行きました。港では日本から朝鮮人が、釜山からは同じ船で日本人が乗って行きました。
日本から来た年輩《ねんぱい=中年》の朝鮮人が、もたもたと歩いていると、米兵が「ハバハバ」と云いながら木の枝様のもので尻を叩いて煽《あお》っていました。僕等もあぁやられるのかと思ったけれど、僕等の場合は逆に助けられました。(後術)
船に乗る直前に、米兵による所持品と現金の検査がありました。荷物を開けさせて中を調べる。家族の人数と現金を余計に持っていないかを調べます。「お前は現金が多ぎる」と云っているよと、英語が分かる人が教えてくれた。父はすかさず荷物の中から、かなり露骨《ろこつ》な春画を出してお前にやるよと手真似したら、米兵はにやにやしながら片手の親指と人差し指で輪を、もう一方の手の人差し指をその輪の中に出し入れしながら、「ヒュッヒュッ」と唇を吹き、やりたくなるからこれは入らないと言うそぶりをして、多めの現金を見逃してくれました。
普段持てない重たいリュックを必死で担いで歩いたけれど、ついに尻餅をついてしまい起きあがれなかった。みんな自分のに持つだけで精一杯、誰も助けてくれなく泣き出してしまいました。と、体が急にフワッと宙に浮き上がりました。引き揚げ風景を見物していた米兵が荷物ごと起こしてくれたのだった。「サンキュー サンキュー」と云いながら必死になって引き揚げ船「興安丸」に辿《たど》り着いたけれど、そこで息も絶え絶えに倒れ込んでしまった。見かねた人が、「これ心臓にいいから」と薬をくれました。
やがて船は山口県の仙崎港に着きました。初めてみる内地の景色は鮮明で美しかった。仙崎の人達は我々を暖かく迎えてくれました。ここでは休養をかねて民宿に二泊してから父の実家のある福井へ向かいました。
長門駅のプラットホームで福井方面の列車を待っていると、反対側のホームに家族同伴の米兵専用列車が入ってきた。「ハロー」と手を振ったとたんに「ヘーイ」と云ってチョコレート・キャンデー・ビスケット・ココアなどが列車の窓のあっちからこっちからビュンビュン飛んできました。こんな旨いものは何年ぶりだったか。
餓《う》え
京城や永登浦にいた頃は戦時戦後ともに食べ物についてはそれ程困っていなかった。引き揚げてきてから、初めて列車で弁当を食べたとき、米が殆ど《ほとんど》なくて大豆や麦ばかりなのに驚きました。福井には3ヶ月程度居たけれど、葉っぱや大根などが沢山はいった飯にはうんざりだったけれど、小学生の僕は腹が減って腹が減ってどうしようもなくて文句の云いようがなかった。やがて、父は職を求めて千葉県の市川へ出てきたけれどやはり職がない。母は編み物ができたので、当面はこれで一家を養った。
父が職に就くまでの数年間は地獄のような餓えに苦しみました 本気で今度生まれ変わるとしたらミミズになりたいと思いました。ミミズはそこいらの土を食べて暮らせますから。
京城(ソウル)に近い永登浦に住んでいました。
父は郵便局に勤務、私は永登浦小学校という日本人小学校の6年生でした。
通学
学校まで徒歩で20分位でしたが、僕等が通学する方向と逆の方向に朝鮮人の学校があって、時々朝鮮人児童(当時は韓国とか北朝鮮がなかったので以後朝鮮人と書きます)がわざと広い道一杯に広がっての通学、僕等日本人への嫌がらせをやられていました。石が飛んでくる。そちらを向くといかにもわざとらしく上を向いたり横を向いたりする。そういう雰囲気《ふんいき》の中を、怖いけれどやせ我慢して通り抜けたことが何回かありました。
こう云うときは、大部分の日本人生徒は外へ出ませんでした。
そういうことの対策かどうか分かりませんが、学校の指導で近所の同校生が集まって隊列を作って学校へ行進するようになりました。私が年長だったので班長でした。途中、先生がこられると「ほちょうとれー かしらーみぎーっ」と、軍隊式の挨拶をしました。戦闘帽《せんとうぼう=軍隊で使用した略帽を真似たもの》を被り国民服《=戦時中一般男子が着た軍服に似た洋服》を着た男の先生は敬礼を、もんぺ姿の女の先生は会釈《えしゃく=おじぎ》で返礼しました。こういうことをするようになってから、朝鮮人児童の僕等日本人児童への嫌がらせはなくなりました。
空襲
B29《=アメリカの大型爆撃機》が偵察《ていさつ》飛行ではるか上空を飛行雲を曳《ひ》きながら飛んできたことが数回ありました。空襲警報がでて一応は防空壕へ入ったものの、僕等は物珍しさから外へ出てその飛行雲を眺めていました。
家の近くに飛行場はあったけれど、迎え撃つために舞い上がった飛行機はなかったように思います。高射砲も撃っていませんでした。飛行雲が出る位高いところまで弾が届かないと云うことでしょうか。
ラジオ放送は日本語が大部分でしたが、この空襲のときから朝鮮語でも空襲に関するの放送が多くなったような気がします。私は朝鮮語は知りませんが「イルモンピャンギ イルモンピャンギ トラガッソスミダ・・・」なんてやっていました。
学校を軍隊に
戦争末期になった頃、学校を軍隊が兵舎として調達《ちょうたつ=軍隊が強制的に借り上げる》してしまったので、生徒は自宅学習と言うことになっていました。
学校はどうなっているのかと思い行ってみました。新兵さんの体操の時間で、鉄棒の逆上がりをやっている。ところがそれがどうしてもできない兵隊さんが多数いました。怒った上官は「お前達はぶったるんでいる 気合いを入れる 一人ずつ殴《なぐ》るからお前らも俺《おれ》を殴り返せ」といって殴っては殴り返させていました。部下がちょっと遠慮して殴ると、もっと本気で殴れと怒っていました。10数人の部下と殴り合った後の上官の顔は物凄く膨《ふく》れ上がって痛ましかった。軍隊ってとこは凄いところだなーと実感しました。
赤ベタ
父は外地での公務員なので徴兵《ちょうへい=強制兵役》はありませんでしたが、一応何日か体験入隊をさせられました。正式な兵隊ではないので徽章《きしょう》には星が着いていない。僕等はこれを「赤ベタ」といって馬鹿にしたものです。この体験入隊でもなにがしかの賃金は出ていたようです。父はそれでも「○○の賃金を貰ったよ」と笑っていました。いくらかは具体的な金額は覚えていないけれど、子供心でも「なーんだそれっぽっちか」と思ったのを覚えています。
勤労奉仕
母は近所の森永だったか明治だったか、大手の菓子製造工場に勤労奉仕《=無償で働くこと》に出かけていました。給料はなかったけれど、時々は乾パンの原料でメリケン粉の練ったのを貰ってきました。これはそのまま蒸して食べましたが、若干《じゃっかん=いくらか酸っぱいちょっと変わったパンの味でした。
私は小学校6年のとき、学校では油を穫《と》るための菎麻子(ひまし)《=トウゴマ》を大量栽培をしたり、麦や野菜などの栽培、軍隊で使う水筒を吊《つ》るための革製品やバンドの遊間隔などを作っていました。不器用な私は革製品の縫い合わせが下手で、先生のところへ持っていくとこの革の合わせ方が逆だとか縫い方が緩《ゆる》すぎるとかでやり直させられました。何時も不器用な生徒数人と残されて泣きべそをかきながら縫っていました。
体操の時間は柔道と剣道が主な授業でして、剣道のときは木刀《ぼくとう》の素振りを何百回とやらされました。木刀にはいろいろな大きさのがあって、一番軽いのを取ろうと木刀置き場にはみんな先を争って走ったものです。
終戦の日
昭和20年8月15日の永登浦も朝からかんかん照りの暑い日でした。
学校は軍隊が使っているから毎日が日曜日。この日は朝から近所の池でトンボ捕りをしていました。雌の鬼ヤンマをなんとか捕まえて、30cm程度の糸を結んで30cmぐらいの竿につけて頭の上で「ヤンマボーイ ヤンマボーイ」と云いながらゆっくり回していると、雄のヤンマが絡《から》んでくる。何時も面白いように沢山捕れました。沢山捕って家路についたけれど、どうも様子がおかしい。みんな深刻な顔をしてラジオにしがみついていて、「お母さん 御飯は」と云ったら「しっ 黙ってなさい」と叱られました。やがて戦争が終わったこと、それも日本が負けたことが分かりました。
その日の夕方からは、日本人は夜は外へ出ては危ないから出るなと云うことになりました。
夜になると、朝鮮人が騒ぎ出しました「マンセー マンセー」(万歳 万歳)と町を練り歩いているようでした。どこそこの親父は朝鮮人に掴《つか》まって酷《ひど》い拷問《ごうもん》を受けているという噂が出始めました。母は怖くて昼間でもあまり外へ買い物に出かけられなかったようです。どうしても食料品がなくなって買い出しに行くと、若い朝鮮人が寄ってきて尻をけっ飛ばされたと云っていました。
父と近所のおじさんとで近くの川に釣りにいったとき、朝鮮人が寄ってきて紐で僕等の首を縛るような仕草をして「パカヤロー」(馬鹿野郎)と脅《おど》されました。何時も「おはようございます」と挨拶すると「オボッチャマ オハヨウゴザイマス」とさわやかな挨拶を返していた朝鮮人は僕の挨拶を完全に無視しました。
戦後まったく変わらなかったのは支那人《しなじん=中国人》(支那人は差別用語ではありません、彼等に対する差別用語はチャンコロです)でして、野菜が買えなくて困っていると、農業の支那人がやってきて、「どうして野菜を買いに来ないか?」と不思議そうな顔をしていました。
この日からラジオ放送も変わってきました。日本語が主だったのが次第に朝鮮語が主体になり、日本語の放送は簡単なニュースと引き揚げ情報だけになりました。
叔母の死
昭和20年9月14日に京城(ソウル)に祖父母と住んでいた叔母《おば》が病死しました。
僕等一家は葬式のため永登浦から京城へ行きましたが、まだ市電には乗ることが出来ました。後には日本人は乗せてもらえなくなりました。
我が家の宗旨は浄土真宗で、近くに浄土真宗のお寺がありましたが、どうも終戦で廃寺になったようです。浄土真宗のお経は叶わず、お婆さんは来てくれた坊さんに「浄土真宗のお経をお願いします」と云いましたが、坊さんはちょっと困った顔をしてから何やらお経をあげました。何時も主人と喧嘩《けんか》をしては家を飛び出して、祖父母の家に手伝いに来ていた朝鮮人も葬式に来ていました。涙が頬《ほほ》に何時までも光っていたのが印象的でした。この朝鮮人は日本語は話せないけれど飯炊きだけは上手ということで祖母は可愛がっていたようです。僕等はこの人を「オモニー」(かあさん)と呼んでいました。暫く手伝いで住み込んでいて何日か経つと、オモニーの主人が頭を掻きながら迎えに来るのでいつものパターンでした。
京城の風景
叔母の葬式が済んでから、どういう訳か僕だけが祖父母の家に残りました。永登浦に引っ越す前はここに住んでいたから友達は沢山います。そのなかの年上の悪が僕に米兵からチョコレートや煙草《たばこ》を買わせようとしました。近くに大きな師範学校《しはんがっこう=教員養成学校》があって、そこが米兵の宿舎になっていたようです。道路に面した塀《へい》の上に腰掛けて煙草・チョコレート・チュウインガムなどを手にしている。彼等は現地の現金が欲しくて売りつけようとしている。現金を差し出して「チョコレート」と云うと手真似《てまね》で「お前はまだ小さいから売れないよ」と云っているのが分かった。別の米兵に同じ事をしても結果は同じでした。近くの交番には日本人の巡査に代わって国連軍の兵士が立っていました。英語が出来るインテリらしい朝鮮人が話しかけていました。「アーユー アメリカン?」「ノー ウイアー オーストラリア」から始まって長々と立ち話が始まった。それを大勢の人達が取り囲んで眺めていました。
近所の友達と竹馬《たけうま=2本の竹竿に足がかりを作って乗る》で遊んでいました。それをインテリらしい朝鮮人が興味深そうに道端に座り込んで眺めている。僕は竹馬が下手でしょっちゅう手から竹が離れて勢いよく竹を地面に叩きつけた。運悪くその朝鮮人の頭を竹が直撃した。朝鮮人は今にも失神しそうになりながら耐えました。「ごめんなさい」と謝ったら、あたまを押さえてふらふらと向こうへ歩いて行きました。花園町から京城帝大付属病院でしたか?動物園?でしたか、路面電車がありましたが、これは戦時中に鉄を必要とすると言うことで撤去されていました。
京城の人的秩序《ちつじょ》は保たれていて、何処《どこ》を歩いても特に危険なことは感じませんでした。ただ小遣い欲しさに、遠い親戚を訊《たず》ねてちょっと歩きで遠出したときは、帰りが遅いと言うことで祖父にこっぴどく怒られました。なにかあったのかと必死で探し回ったらしい。
祖母は家財道具は一切日本に持って帰れないのだからここで全部処理しようと、道端に並べて二束三文で売り出しました。それを朝鮮人が買いに来ましたが、「このババー 高いことを云《い》う」と云っているよと、朝鮮語の分かる人が教えてくれました。
永登浦へ
暫く京城にいたが永登浦へ帰ることになった。ただ途中が心配だと言うことで同方向へ行く知り合いの年上の人と行くことになった。市電は走っているけれど日本人は乗せないと云う。しかたなく10km以上の道を歩くことになった。途中、龍山に親戚があるのでそこで一休みしようと寄ったら当てにした叔父《おじ》さんが居なかった。
中国人がその家の一階で料理屋をやっていたが中国人は入り口の小部屋で昼寝の最中だ。その枕元をそーっと通り抜けて叔父の居る二階に行って家捜《さが》し、黒砂糖を見つけて食べた。大分歩き疲れた頃、うっかり市電には日本人は乗せないというのを忘れて電車を待っていた。電車賃を握りしめていたけれどこっちを見ている朝鮮人が居る。直感的に危ないなと思って電車賃をそっとポケットに入れました。案の定《あんのじょう=思ったとおり》親しげに話しかけてきた朝鮮人は、僕の握りしめていた小銭を取ろと、話しながら手のひらをこじ開けたけれど、金がなかったので諦《あきら》めたようでした。やがて電車が来て乗ったけれど、直ぐに日本人と分かったらしく、女の朝鮮人車掌に朝鮮語で怒鳴られて強制的に下車させられた。なんとか徒歩で京城から永登浦迄帰ることが出来た。
引き揚げ準備
日本へ引き揚げるについて、荷物は持てるだけで車で曳《ひ》いてはならない。現金は一人あたり○○円まで(具体的金額は忘れました)。貴金属は一切持ち帰ってはならない。などの制限がありました。
荷物は父に普段《ふだん》担《かつ》げない重たいのを与えられました。火事場の馬鹿力を期待したようです。
父は大きなリュックの他に大きな麻袋を引きずるようにしました。車で曳くのではないからよいとの判断でしょう。
現金は紙幣《しへい》をくしゃくしゃに揉《も》んで服の内側に縫い込むという方法を採《と》りました。そんな事したって裏地を剥《は》がして全部調べられるんだよという噂はありましたが、実際には米兵はそのようなことはしませんでした。
家財道具は全てそのままで引き揚げることになりました。土地や家屋を持っている人も当然そのままで帰ってきました。売れたとしても現金の額が決められているから意味がない。
引き揚げ
やがて、引き揚げの順番が来てトラックで京城駅へ行き、そこから貨物列車に乗り込みました。先ず荷物を積み上げてその上に人が乗るという寸法だ。無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》でないのがありがたい。途中、ガンガンと投石を受けたけれど被害はありませんでした。釜山では乗船の順番が来るまで大きな寺の本堂などに数日泊まり込みました。
やがて順番が来て船に乗るため港へ行くことになりました。
途中、若い朝鮮人が大勢で見物しながら「バカヤロウ ザマーミロ ソーレミロ イイキミダ」などと罵声《ばせい=ののしり声》を浴びせてきたけれど、みんな下を向いて黙々と歩いて行きました。港では日本から朝鮮人が、釜山からは同じ船で日本人が乗って行きました。
日本から来た年輩《ねんぱい=中年》の朝鮮人が、もたもたと歩いていると、米兵が「ハバハバ」と云いながら木の枝様のもので尻を叩いて煽《あお》っていました。僕等もあぁやられるのかと思ったけれど、僕等の場合は逆に助けられました。(後術)
船に乗る直前に、米兵による所持品と現金の検査がありました。荷物を開けさせて中を調べる。家族の人数と現金を余計に持っていないかを調べます。「お前は現金が多ぎる」と云っているよと、英語が分かる人が教えてくれた。父はすかさず荷物の中から、かなり露骨《ろこつ》な春画を出してお前にやるよと手真似したら、米兵はにやにやしながら片手の親指と人差し指で輪を、もう一方の手の人差し指をその輪の中に出し入れしながら、「ヒュッヒュッ」と唇を吹き、やりたくなるからこれは入らないと言うそぶりをして、多めの現金を見逃してくれました。
普段持てない重たいリュックを必死で担いで歩いたけれど、ついに尻餅をついてしまい起きあがれなかった。みんな自分のに持つだけで精一杯、誰も助けてくれなく泣き出してしまいました。と、体が急にフワッと宙に浮き上がりました。引き揚げ風景を見物していた米兵が荷物ごと起こしてくれたのだった。「サンキュー サンキュー」と云いながら必死になって引き揚げ船「興安丸」に辿《たど》り着いたけれど、そこで息も絶え絶えに倒れ込んでしまった。見かねた人が、「これ心臓にいいから」と薬をくれました。
やがて船は山口県の仙崎港に着きました。初めてみる内地の景色は鮮明で美しかった。仙崎の人達は我々を暖かく迎えてくれました。ここでは休養をかねて民宿に二泊してから父の実家のある福井へ向かいました。
長門駅のプラットホームで福井方面の列車を待っていると、反対側のホームに家族同伴の米兵専用列車が入ってきた。「ハロー」と手を振ったとたんに「ヘーイ」と云ってチョコレート・キャンデー・ビスケット・ココアなどが列車の窓のあっちからこっちからビュンビュン飛んできました。こんな旨いものは何年ぶりだったか。
餓《う》え
京城や永登浦にいた頃は戦時戦後ともに食べ物についてはそれ程困っていなかった。引き揚げてきてから、初めて列車で弁当を食べたとき、米が殆ど《ほとんど》なくて大豆や麦ばかりなのに驚きました。福井には3ヶ月程度居たけれど、葉っぱや大根などが沢山はいった飯にはうんざりだったけれど、小学生の僕は腹が減って腹が減ってどうしようもなくて文句の云いようがなかった。やがて、父は職を求めて千葉県の市川へ出てきたけれどやはり職がない。母は編み物ができたので、当面はこれで一家を養った。
父が職に就くまでの数年間は地獄のような餓えに苦しみました 本気で今度生まれ変わるとしたらミミズになりたいと思いました。ミミズはそこいらの土を食べて暮らせますから。