紫竹のの8月15日(1)
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- 紫竹のの8月15日(1) (紫竹の, 2005/8/4 17:44)
- 紫竹のの8月15日(2) (紫竹の, 2005/8/5 8:21)
- Re: 紫竹のの8月15日(2) (桂女, 2005/8/6 10:48)
- Re: 紫竹のの8月15日(2) (紫竹の, 2005/8/7 16:18)
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投稿日時 2005/8/4 17:44
紫竹の
居住地: 神戸
投稿数: 92
昭和20年《1945》 8月15日、終戦の日、敗戦の日、それは、勤労動員に行っていた工場が疎開することになり、初めて、疎開《そかい=空襲を避けて都会から田舎に住まいを移すこと》先の掘っ立て小屋《=基礎の無い粗末な家》に行った日だった。
旧制高等学校の二年生であった私たち(確か、理科8クラスのうち2クラス)は、1945年4月から、実家の遠近にかかわらず全員寮に入れられた。寮は、京都の中心部から東によったところにあったが、勤労動員《戦時中学生は強制的に工場などで働かされた》先の京都の西南にある軍用飛行機のエンジン工場に、2交替(そのうち3交替になった)で、電車を乗り継いで通うことになった。肝心の学校の勉強は二の次で、勤労動員の合間合間にしていただけのように思う。
東一条から市電に乗り、四条大宮で京阪電車(今の阪急)に乗り換えて桂まで。あとは隊列を組んで、少し南の、今は自衛隊桂駐屯地《ちゅうとんち》になっている中日本重工(今で言えば三菱重工)の工場に向かった。そこは、軍用飛行機のエンジンを一貫して作る工場だった。食事は寮ではとらず、三食とも工場でとることになった
私たちの担当は、そのエンジンのクランクシャフトを削ることだった。日本の飛行機のエンジンは、ほとんどが空冷式のエンジンで、星型といわれる形をしていた。軸の周り《まわり》に、奇数のシリンダーが放射状に並んでおり、一つおきに燃焼して2回転で一回りとなる。作っていたエンジンは、この星型が前後に2重になっていた。シリンダーが何個だったか覚えていないが、仮に9個だとすると、これが2重になると18個だ。一重が11だったかもしれない。参考 http://www.warbirds.jp/kakuki/sanko/hosigata1.htm
クランクシャフトも、一つの部品では出来るわけではないが、それより、2重のエンジンだから、ほとんど同じ形のもの、と言っても、一方の軸部分がもう一方の軸部分に作られた孔の中に入るような構造になっており、工程の途中でそれを結合させるようになっていた。その一方のものを鋳物《いもの=金属を溶解し型に流したもの》から削り出し、クランクシャフトの形にするまでが私たちの分担していた流れだった。
そういう細かい作業を伝えるのが、この文の目的ではないが、私たちが担当して短い作業の流れの中にいろんな工作機械が入っていることを知っていただけば十分。
まず、真っ黒い鋳物のかたまりが積んである。これを旋盤《せんばん=切削用工作機械》にかけて、大体の形にする。はじめは、剣先のような形をしたバイト(旋盤で使う刃のような物)で、ゴリゴリゴリとスゴイ音を立てて削るのだが、出て来る大きな削りかす(切り粉と言ったような気がするが、とても、粉と言うような小さなものではない)が、熱を持っていて、バーナーであぶったように熱くなっており、見る見るうちに青く、赤く色が変わっていった。
大体の形が出来たら、平らに削るフライス盤、孔をあけるボール盤、特殊な歯車を削る機械(名称不明)などなどを使っていくと、だんだんと形が出来ていく。最後に二つを噛《か》み合わせたものが次の工程に行く。この噛み合わせで誤差が出て大騒動になったことがある。つまり、そんなものは使い物にならないわけなのだ。そこの担当の生徒は、きちんと言われたとおり、やっていたのだが、どうしたことだったのだろう。
エンジンになるには、それはそれは沢山の部品がいるのだが、その部品を作ったり、組み立てたりしている広い、大きな工場の向こうの端では、出来たエンジンの試験設備があるらしく、毎日、凄《すご》い音を響かせていた。
(2)に続く
旧制高等学校の二年生であった私たち(確か、理科8クラスのうち2クラス)は、1945年4月から、実家の遠近にかかわらず全員寮に入れられた。寮は、京都の中心部から東によったところにあったが、勤労動員《戦時中学生は強制的に工場などで働かされた》先の京都の西南にある軍用飛行機のエンジン工場に、2交替(そのうち3交替になった)で、電車を乗り継いで通うことになった。肝心の学校の勉強は二の次で、勤労動員の合間合間にしていただけのように思う。
東一条から市電に乗り、四条大宮で京阪電車(今の阪急)に乗り換えて桂まで。あとは隊列を組んで、少し南の、今は自衛隊桂駐屯地《ちゅうとんち》になっている中日本重工(今で言えば三菱重工)の工場に向かった。そこは、軍用飛行機のエンジンを一貫して作る工場だった。食事は寮ではとらず、三食とも工場でとることになった
私たちの担当は、そのエンジンのクランクシャフトを削ることだった。日本の飛行機のエンジンは、ほとんどが空冷式のエンジンで、星型といわれる形をしていた。軸の周り《まわり》に、奇数のシリンダーが放射状に並んでおり、一つおきに燃焼して2回転で一回りとなる。作っていたエンジンは、この星型が前後に2重になっていた。シリンダーが何個だったか覚えていないが、仮に9個だとすると、これが2重になると18個だ。一重が11だったかもしれない。参考 http://www.warbirds.jp/kakuki/sanko/hosigata1.htm
クランクシャフトも、一つの部品では出来るわけではないが、それより、2重のエンジンだから、ほとんど同じ形のもの、と言っても、一方の軸部分がもう一方の軸部分に作られた孔の中に入るような構造になっており、工程の途中でそれを結合させるようになっていた。その一方のものを鋳物《いもの=金属を溶解し型に流したもの》から削り出し、クランクシャフトの形にするまでが私たちの分担していた流れだった。
そういう細かい作業を伝えるのが、この文の目的ではないが、私たちが担当して短い作業の流れの中にいろんな工作機械が入っていることを知っていただけば十分。
まず、真っ黒い鋳物のかたまりが積んである。これを旋盤《せんばん=切削用工作機械》にかけて、大体の形にする。はじめは、剣先のような形をしたバイト(旋盤で使う刃のような物)で、ゴリゴリゴリとスゴイ音を立てて削るのだが、出て来る大きな削りかす(切り粉と言ったような気がするが、とても、粉と言うような小さなものではない)が、熱を持っていて、バーナーであぶったように熱くなっており、見る見るうちに青く、赤く色が変わっていった。
大体の形が出来たら、平らに削るフライス盤、孔をあけるボール盤、特殊な歯車を削る機械(名称不明)などなどを使っていくと、だんだんと形が出来ていく。最後に二つを噛《か》み合わせたものが次の工程に行く。この噛み合わせで誤差が出て大騒動になったことがある。つまり、そんなものは使い物にならないわけなのだ。そこの担当の生徒は、きちんと言われたとおり、やっていたのだが、どうしたことだったのだろう。
エンジンになるには、それはそれは沢山の部品がいるのだが、その部品を作ったり、組み立てたりしている広い、大きな工場の向こうの端では、出来たエンジンの試験設備があるらしく、毎日、凄《すご》い音を響かせていた。
(2)に続く
紫竹の
居住地: 神戸
投稿数: 92
(1)から続く
私たちが参加した頃、その工場が作っていたのは、爆撃機用の比較的大きな土星(WEBで調べてみたが、見つからない。その代り火星というのがあるらしい)という名のエンジンだった。ところが、ほどなく、爆撃機よりも戦闘機用のエンジン(金星)が必要になったと言うようなことで、作るクランクシャフトがぐんと小さなものになった。一方、クランクシャフトを削りだすもとの鋳物も、材料の鉄が少なくなったのだろう、削り代《しろ》の少ないやせたものになってきた。したがって、最初、旋盤にかける時、よほどうまくセットしないと、必要な形を削りだせなくなった。実際、一度など、ほんの少し黒い皮が残ってしまったので、熟練の工員がそこをたたき出すようなことをしたことさえあった。大体、鋳物の表面と中の方は、冷える速さの違いなどから、成分も差が出るであろうし、材質が相当に違う。だから、外側は相当に削ってしまい、中の方だけを使うのが普通なのだ。それでも、やせた鋳物を使うようになったのは、それほど、本当に、資源が乏しくなっていたのだろう。
資源が乏しくなりはしたが、作業は急ぐ必要があり、2交替が3交替に変わった。
一つの勤務が何時から何時までだったか覚えていないが、とにかく、寮に帰るには都合の悪い場合は、桂駅近くのお寺に泊まることになった。今の本願寺西山別院である。桓武《かんむ》天皇の勅願《ちょくがん=天皇の祈願》によって最澄《さいちょう=平安初期の僧、日本天台宗の開祖》が創建《そうけん》したとか、由緒《ゆいしょ》ある寺であるが、私たちは何をしたであろうか。一度、やんごとなき《高貴な》方々がお使いになるであろう厠《かわや=トイレ》を、面白がって使おうとしたことがある。畳《たたみ》敷きの広い部屋、真ん中にそれらしい仕掛けと穴。座《すわ》ってみたが、つかまるところもない。下は何もなく明るく、風が吹いている。出そうなものも出なくなってしまった。
そうこうしているうち、だんだんと空襲が激しくなり、京都も危ないと言うことで、工場が疎開することになった。疎開先は、京都の東北部の松ヶ崎。今のどこに当たるのかよくわからないが、山と山との間だったように記憶している。まずしたことは、街に出て歩道の30cm角位のコンクリートタイルをはがすこと。これを、疎開先の掘っ立て小屋に敷いた砂の上に並べるのだ。そのころは、すでに、ほとんどの道路の両側には防空壕《ぼうくうごう=空襲時に逃げ込む地面に彫った穴や建造物》が掘られていたが、その場所からはがしたものも使われた。
そして、準備が出来たところから移転が始まった。今まで見たこともない大きなトレーラーに、いろんな工作機械が載せられて出て行った。私たちの職場の辺りの疎開はちょっと遅れていたが、そろそろ、行って据付《すえつけ》をやる段階になったとのことで、みんなそろって松ヶ崎まで行ったが、何が手伝えるのやら。その建物に一台のボール盤が届いた時、ちょうど昼になった。
それが8月15日だった。正午に重大な放送があると聞いていたから、近所の民家の玄関まで行った。
天皇陛下のお声は良くは聞き取れなかったのだが、それでも、戦争が終わったらしい、もう、疎開もしなくていい、と言うようなことはわかり、皆腑抜け《ふぬけ=はらわたを抜き取られたような意気地の無いありさま》のようになって、小屋に戻って座り込んでいた。その後どうしたか、良く覚えていない。あとで考えてみると、私たちが作ったクランクシャフトの使われた爆撃機は飛ぶに至ったのだろうか。あの黒皮の残ったクランクシャフトの使われた戦闘機は、幸いにして間に合わなかったのではないだろうかと言うことだ。
5ヶ月間の労働の報酬は、中学卒の公定賃金(本当はなんと呼んでいたか不明)の5か月分、200円強は、のちほど、郵便貯金通帳に入った形で支給され、自分の小遣いになったのだった。
(完)
私たちが参加した頃、その工場が作っていたのは、爆撃機用の比較的大きな土星(WEBで調べてみたが、見つからない。その代り火星というのがあるらしい)という名のエンジンだった。ところが、ほどなく、爆撃機よりも戦闘機用のエンジン(金星)が必要になったと言うようなことで、作るクランクシャフトがぐんと小さなものになった。一方、クランクシャフトを削りだすもとの鋳物も、材料の鉄が少なくなったのだろう、削り代《しろ》の少ないやせたものになってきた。したがって、最初、旋盤にかける時、よほどうまくセットしないと、必要な形を削りだせなくなった。実際、一度など、ほんの少し黒い皮が残ってしまったので、熟練の工員がそこをたたき出すようなことをしたことさえあった。大体、鋳物の表面と中の方は、冷える速さの違いなどから、成分も差が出るであろうし、材質が相当に違う。だから、外側は相当に削ってしまい、中の方だけを使うのが普通なのだ。それでも、やせた鋳物を使うようになったのは、それほど、本当に、資源が乏しくなっていたのだろう。
資源が乏しくなりはしたが、作業は急ぐ必要があり、2交替が3交替に変わった。
一つの勤務が何時から何時までだったか覚えていないが、とにかく、寮に帰るには都合の悪い場合は、桂駅近くのお寺に泊まることになった。今の本願寺西山別院である。桓武《かんむ》天皇の勅願《ちょくがん=天皇の祈願》によって最澄《さいちょう=平安初期の僧、日本天台宗の開祖》が創建《そうけん》したとか、由緒《ゆいしょ》ある寺であるが、私たちは何をしたであろうか。一度、やんごとなき《高貴な》方々がお使いになるであろう厠《かわや=トイレ》を、面白がって使おうとしたことがある。畳《たたみ》敷きの広い部屋、真ん中にそれらしい仕掛けと穴。座《すわ》ってみたが、つかまるところもない。下は何もなく明るく、風が吹いている。出そうなものも出なくなってしまった。
そうこうしているうち、だんだんと空襲が激しくなり、京都も危ないと言うことで、工場が疎開することになった。疎開先は、京都の東北部の松ヶ崎。今のどこに当たるのかよくわからないが、山と山との間だったように記憶している。まずしたことは、街に出て歩道の30cm角位のコンクリートタイルをはがすこと。これを、疎開先の掘っ立て小屋に敷いた砂の上に並べるのだ。そのころは、すでに、ほとんどの道路の両側には防空壕《ぼうくうごう=空襲時に逃げ込む地面に彫った穴や建造物》が掘られていたが、その場所からはがしたものも使われた。
そして、準備が出来たところから移転が始まった。今まで見たこともない大きなトレーラーに、いろんな工作機械が載せられて出て行った。私たちの職場の辺りの疎開はちょっと遅れていたが、そろそろ、行って据付《すえつけ》をやる段階になったとのことで、みんなそろって松ヶ崎まで行ったが、何が手伝えるのやら。その建物に一台のボール盤が届いた時、ちょうど昼になった。
それが8月15日だった。正午に重大な放送があると聞いていたから、近所の民家の玄関まで行った。
天皇陛下のお声は良くは聞き取れなかったのだが、それでも、戦争が終わったらしい、もう、疎開もしなくていい、と言うようなことはわかり、皆腑抜け《ふぬけ=はらわたを抜き取られたような意気地の無いありさま》のようになって、小屋に戻って座り込んでいた。その後どうしたか、良く覚えていない。あとで考えてみると、私たちが作ったクランクシャフトの使われた爆撃機は飛ぶに至ったのだろうか。あの黒皮の残ったクランクシャフトの使われた戦闘機は、幸いにして間に合わなかったのではないだろうかと言うことだ。
5ヶ月間の労働の報酬は、中学卒の公定賃金(本当はなんと呼んでいたか不明)の5か月分、200円強は、のちほど、郵便貯金通帳に入った形で支給され、自分の小遣いになったのだった。
(完)
桂女
投稿数: 9
紫竹のさん、
そうですか、戦時中動員で桂にいらしたんですか? 今自衛隊のところ、軍需《ぐんじゅ=軍事用の需要》工場だったんですね。私は伊丹の三菱へ動員でしたが、旋盤、ボール盤、工場の雑音と焼けた鉄粉の匂いを思い出しました。旋盤は男の子《=男子生徒》で私達《=女学生》はボール盤しか触《さわ》らせて貰えませんでした。穴あけの他、細いドライバーでバリコンの歪み《ひずみ=ゆがみ》調整をしたり、小型変圧器のコイル巻きなどやりましたがあれは飛行機のどこに使ったんでしょうね。
夕食後は灯火管制《とうかかんせい=電灯の光が外へ漏れないようにした》の電灯の下で授業が行われましたが、戦局の悪化と共に時間が短くなり、栄養失調《えいようしっちょう=栄養が不足して体調を崩す》と疲労で居眠りが続出して勉強はお座なりになりました。大阪も神戸も空襲で燃え上がるのを遠くに見ました。真っ赤に染まった空をみんな震《ふる》えながら抱き合って何時までも見ておりました。
不謹慎《ふきんしん=つつしみのない事》ながら、青空に編隊を組む「B29」の群れ、息を呑む程綺麗《きれい》でした。一度、警報発令で避難の途中、低空飛行の機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から銃で連射する》を間近に見ました。怖くてそれからは敵機を見るために壕を出る勇気は無くなりました。
戦争は絶対してはいけません。苛め《いじめ》られてもキレてはいけないのです。切ないですねぇ。
そうですか、戦時中動員で桂にいらしたんですか? 今自衛隊のところ、軍需《ぐんじゅ=軍事用の需要》工場だったんですね。私は伊丹の三菱へ動員でしたが、旋盤、ボール盤、工場の雑音と焼けた鉄粉の匂いを思い出しました。旋盤は男の子《=男子生徒》で私達《=女学生》はボール盤しか触《さわ》らせて貰えませんでした。穴あけの他、細いドライバーでバリコンの歪み《ひずみ=ゆがみ》調整をしたり、小型変圧器のコイル巻きなどやりましたがあれは飛行機のどこに使ったんでしょうね。
夕食後は灯火管制《とうかかんせい=電灯の光が外へ漏れないようにした》の電灯の下で授業が行われましたが、戦局の悪化と共に時間が短くなり、栄養失調《えいようしっちょう=栄養が不足して体調を崩す》と疲労で居眠りが続出して勉強はお座なりになりました。大阪も神戸も空襲で燃え上がるのを遠くに見ました。真っ赤に染まった空をみんな震《ふる》えながら抱き合って何時までも見ておりました。
不謹慎《ふきんしん=つつしみのない事》ながら、青空に編隊を組む「B29」の群れ、息を呑む程綺麗《きれい》でした。一度、警報発令で避難の途中、低空飛行の機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から銃で連射する》を間近に見ました。怖くてそれからは敵機を見るために壕を出る勇気は無くなりました。
戦争は絶対してはいけません。苛め《いじめ》られてもキレてはいけないのです。切ないですねぇ。
紫竹の
居住地: 神戸
投稿数: 92
桂女さん
桂女さんは伊丹でしたか。バリコンとか変圧器だと通信機でしょうね。レーダーはもっと難しいものでしたから。
確かに、青空に編隊を組んだB29は綺麗でしたね。良く、西南から東北に向けての飛行が多かったですが、名古屋に行くのだろうかと思っていました。いつかは京都もやられるのかと思っていましたが、1度爆弾の落ちる音を聞いただけでした。でも、空襲警報の時は、畑に飛び出して、おなかがすいていますから、草の髄《ずい=茎の中心部》などを食べたりしていました。
一度、南の空で、ちょっと遅れて煙が出ていたB29が、バラバラになって落ちるのを見て、ざまあ見ろなどと言って喜んだものでした。
戦争はしたらいけませんが、仕掛けられたらどうするのか。やられっぱなしにしていれば戦争は無くなると言う人たちもいますが、そのようなものでしょうか。
桂女さんは伊丹でしたか。バリコンとか変圧器だと通信機でしょうね。レーダーはもっと難しいものでしたから。
確かに、青空に編隊を組んだB29は綺麗でしたね。良く、西南から東北に向けての飛行が多かったですが、名古屋に行くのだろうかと思っていました。いつかは京都もやられるのかと思っていましたが、1度爆弾の落ちる音を聞いただけでした。でも、空襲警報の時は、畑に飛び出して、おなかがすいていますから、草の髄《ずい=茎の中心部》などを食べたりしていました。
一度、南の空で、ちょっと遅れて煙が出ていたB29が、バラバラになって落ちるのを見て、ざまあ見ろなどと言って喜んだものでした。
戦争はしたらいけませんが、仕掛けられたらどうするのか。やられっぱなしにしていれば戦争は無くなると言う人たちもいますが、そのようなものでしょうか。