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戦後の興南での出来事 横山重男氏の記録(北朝鮮)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/9/2 17:00
団子  半人前   投稿数: 22
  
戦後五十年たちました。輿南時代の記憶も、忘れたこともありますが色々と思いだし乍《ながら》書いて見たいと思います。二十年《1945年》八月十五日終戦となり学校は閉鎖され九月二十日には社宅を輿徳里の朝鮮人住宅に移動させられてから苦稚の日々が始まりました。引越に際しては家具類は殆ど《ほとんど》持ち出されずに、主に衣類だけを持ち出したと記憶しています。輿徳里に移ってからソ連《ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦》兵による暴行掠奪《りゃくだつ》が毎晩の様に行われていました。

ひどい時は昼間でも襲って来た時もありました。このソ連兵の暴行掠奪から守る為、輿徳里では夕方から各棟一名づつ一時間交替で見張りに出て警戒に当たりました。ソ連兵が来たら○○の方から来たぞ!と大声で叫び次から次へと伝えソ連兵の行く方を知らせたものです。

最初の時はソ連兵を遠巻きにしてバケツや一斗《いっと=約18リットル》缶等を叩《たた》き大声でワアーと叫び声を上げるとソ連兵が驚いて逃げてましたが、これもすぐに馴《な》れられて「ダマレ、ダマレ」とソ連兵が叫んで自動小銃を発砲する様になり余り効果が上がらなくなり、却《かえ》って危険性が増した様でした。此の様に毎晩の様にソ連兵の暴行掠奪が繰り返される中でソ連兵による日本人射殺事件が各地区で起こりました。

興徳里でも二十年十一月七日に富高さんがソ連兵に撃たれて死亡する事件がありました。十一月六日の夕方私の父と富高さんとが道端で立話しで「十一月七日から三日間ソ聯《=ソ連と同じ》の革命記念日に当たりソ聯兵の自由行動で又何かと危ない事が起こりそうなのでお互い気を付けましょう」と話し合って別れたばかりでした。続いて八日の夜には私の父が夜警交替の為に家を出た所で外の白本人を追っかけて来たソ連兵と出合い父が自動小銃の台座の所で、どつかれ頭部は防寒帽に防空頭巾を被っていたにも拘わらず銃の台座の痕《あと》が三、四ケ所程つく傷で出血で顔面と胸部にかけて血だらけになり、同時に胸を強打されこの後遺症が災いとなり、この後肺に炎症を起こしお医者さんに診てもらったが日本人医者は薬品類は一切なし、何もなしで何の治療投薬も出来ずに見殺し同様にし
て二十一年一月六日死亡しました。享年四十七才でした。

二十年八月の終戦から帰国する二十一年五月迄の八ケ月間色々な出来事がありましたが、何と云《い》っても父の死は一番のショックでした。この戦后《=戦後》の八ケ月間で色々な体験をしました。肥料工場や本宮工場等へ人夫として就労した事。又帰国の際は八日間も歩いて三十八度線
《北朝鮮と韓国の境界線》突破した事。等が思い出されます。戦争に敗けたらこんなに非道《ひど》い、惨めな、そして情けない目に合うと云う事を実感した八ケ月間でした。

  1996年同窓誌の投稿から、発行者の許しを得て。
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