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「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/12/1 14:15
団子  半人前   投稿数: 22
 
昭和二十《1945》年八月六日、午前八時十五分十七秒…。

 一発の原子爆弾の投下で、広島の町は一瞬にして廃墟《はいきょ=荒れ果てた跡》と化しました。その時間、わたしは爆心地からわずか一キロという広島市役所の建物の西側にある植え込みの中にいました。

 「ピカッ、ドーン!」と、ものすごい光とものすごい音がしたかと思うと、まわりは一瞬のうちにまっ暗になってしまいました。これまで、おおぜいの人が広島について書いたり、語ったりしていますが、あの“きのこ雲”の下は、先が見えないほどまっ暗になってしまうということは、意外に知られていません。
そのまっ暗やみのなかを、わたしは何時間も逃げまどいました。逃げる途中で、死んだ人、大やけどをした人も数え切れないほど見ました。瓦礫《がれき=かわらや小石など》の下のうめき声も聞きました。いまでもその声が耳の奥によみがえることがあります。ごぞんじのように、ヒロシマの記録はたくさんあります。しかし、それですべてが語りつくされたかというと、そうはいえません。

 なおもわたしがお話ししておかなければならないと考えたのは、わたしのヒロシマを、わたし自身の「ことば」で語らなければならない。わたしの「こころ」で語らなければならないと思ったからです。これは、その八月六日のわたしの体験を中心としたお話です。

(一)

 わたしは昭和六《1931》年八月二十二日、広島市西部の草津町(現在は広島市西区)というところで生まれました。いまでは周辺の町村を合併して市域が広くなりましたが、広島市内といっても当時はいちばん西の端で、すぐとなりは郡部(佐伯郡)でした。草津町は背後の山と瀬戸内海が接近したところで、海岸にせまるようにして山陽本線が走っています。すぐ目の前は穏やかな広島湾で、家から走っていけば、そのままドボンと海へ飛びこむことができました。毎朝早くからボンボン船の音が聞こえます。天気のよい日には、わたしの家の二階からは日本三景のひとつ、安芸《あき》の宮島が遠望できました。

 草津町は半農半漁の町でしたが、昔から広島の中央魚市場がありました。広島湾や伊予灘《なだ》で獲《と》れた近海魚が中央魚市場に水揚げされてきます。目の前の広島湾は、広島カキの一大養殖地としても有名なところでした。遠浅の海でしたから冬は海苔《のり》の養殖ができました。アサリ、ハマグリという海産物にも恵まれています。かつては大小百三十軒ものカマボコ工場もありました。私の家は畑のなかの一軒家でした。ニワトリを飼っていましたから卵に日付を書いて大事に籾殻《もみがら=籾米の外皮》のなかに入れて、ヒヨコに孵《かえ》したりしていました。卵をお日さまにかざすと、なかがすけて見えます。「ああ、まだ血液ができていない。いつごろ孵るかな」などといいながら待っているのが子供のころの楽しみのひとつでした。家のまわりは田んばと畑ばかりですから、夏休み、昼寝をしていると、そこらじゆうでキリギリスが鳴いているのが聞こえます。昼寝から目覚ざめると、トンボ釣りにいったり、カエルを捕りにいったりします。ウサギもモルモットも犬も猫も、全部飼っていたような自然でした。伝書鳩《でんしょばと=ハトの帰巣性を利用して通信に用いた》も三十羽位いて、すぐ上の兄と熱中して「勉強しない」と母親からよく叱《しか》られました

 このように豊かな自然に恵まれて、じつにのんびりとした、平和なくらしのつづく町でした。ところが、わたしが生まれた昭和六年は、満州事変《1931年9月、日本軍の鉄道爆破事件により日中戦争のきっかけとなった》が勃発《ぼっぱつ=突然始まること》した年です。翌年には第一次上海事変が起き、満州国が建国《=日本が中国東北部に作り上げた仮の国家、終戦により消滅》されるなど、日本の大陸侵攻がはじまっていきます。

 昭和十二《1937》年、小学校に入学した年の夏には、日中戦争がはじまりました。その年、わたしの兄は中国へ出征して、海岸線から六百キロ以上も奥に入った長沙というところまで進軍していました。その兄に宛《あ》てて 手紙や慰問袋《いもんぶくろ=戦地の兵を慰めるために、日用品、娯楽品、手紙などを入れた袋》を送った覚えがあります。四年生の十二月八日には、ついに太平洋戦争がはじまりました。真珠湾攻撃の臨時ニュースを小学校の教室で聞いて、子供ながらも非常に興奮したことを覚えています。
 そして、昭和二十《1945》年の八月六日がやってきます。広島に原爆が投下されたとき、わたしは広島修道中学の二年生でした。
(二)

明治時代から重要な軍都だった広島

 八月六日の広島地方は、朝から抜けるような青空が広がっていました。その日、わたしたちのクラスは家屋の倒壊作業員として動員《=戦時中労働力不足を補うため中等学校以上の生徒・学生を強制的に就労させた》を受けていました。朝七時五十分に広島市役所に集合するために、わたしは弁当を持って家を出ました。当日のいでたちは白の半袖シャツに国防色《=カーキ色》のズボン、上着、それに脚にはゲートルをまいていました。靴だけは手に入らず、履き物はわら草履でした。その左足には白い包帯が巻かれていました。包帯は前の晩、あやまって釘《くぎ》を踏んでしまったからでした。風呂《ふろ》の炊きつけにするために、姉といっしょに大八車《だいはちぐるま=人が引く荷物運搬用の二輪車》を引き壊された家屋の廃材を拾いにいったのですが、うっかりしていて釘を踏みつけてしまったのです。たいしたけがではありませんでしたが、黴菌《ばいきん》が入ってはいけないと思い、朝、出がけに包帯を巻いたのです。旧制中学ですから五年制の学校です。

 家の最寄り駅から、己斐という駅までの電車通学は許されていましたが、己斐から先は一年生から五年生までがそろって、学校まで片道四十五分の道を集団で徒歩通学していました。戦争中でしたから、からだを鍛《きた》えるためにみんな歩いたのです。わたしたちの学年は五クラスありましたが、その日、ひとつのクラスは汽車で一時間ほど離れた山のなかで穴掘、もうひとつのクラスは学校で勉強することになっていました。残りの三クラス、百五十人が倒壊作業員として動員を受けたのです。 

 倒壊作業とはなにかというと、家屋疎開《かおくそかい》という作業をするのです。家屋疎開というのは、街の一定の区域にある家を幅八十メートルにわたって全部壊して木材を運び出し、空き地をつくるのです。家が密集しているところへ焼夷弾《しょういだん=油脂とさく薬を混ぜた爆弾》の攻撃を受ければ、火がつぎつぎに延焼してしまうおそれがあります。燃えるもののない防火帯を作っておけば、もし火災が発生しても、燃え広がる心配はありません。

 こうして街の東西南北には、いくつかの防火区画がつくられました。動員されたのはわたしたちだけではありませんでした。他の中学校や女学校の生徒たち、年をとった男の人、お腹に子供がいるおかあさん、おばあさんたちなど、激しい労働はできなくても、軽作業ならできるという人たちが全部かり出されていました。
 なかには一時間以上もかかるところからきている人もいて、市内はいつも以上に人で埋めつくされているような状態でした。それ以外にも、ふだんどおり勤めめに出てきた人、朝食を終えて家でくっろいでいた人など、八時十五分の時点で、広島市内には二十七万から二十八万人の人がいただろうと推測されています。

(三)

 春ごろから、広島上空に飛来する飛行機の数がだんだんふえるようになっていました。夜が明けると、ラジオから「西部軍管区司令部発表・・・・・・。ただいま、土佐湾のはるか洋上敵空母現る」という放送が流れます。

 敵機がそのまま土佐湾上空に近づいてくると、「敵機はただ今、土佐湾上空を四国本土に向かって飛来中」と放送され、警戒警報が出されます。敵機は四国を越えて、愛媛県と広島県、山口県のあいだにある瀬戸内海の伊予灘を、なおも北上してきます。すると、広島に空襲警報が出ます。市内の全部の小学校のサイレンが町じゅうに鳴り響きます。さらにラジオが「敵機は広島湾上空に侵入」と告げるころには、艦載機の何十という編隊が、はるかむこうの島陰からまっ黒になって飛んでくるのが見えます。編隊はだいたい十機から十二、三機で構成されていましたが、その編隊がいくつもいくつもやってきて、目の前に見える似の島の向こう側にある江田島や呉軍港に向かって急降下しながら爆弾や爆雷を落として帰っていくのです。
 
 広島は戦争中、西部軍管区司令部が置かれていたように、軍都でしたから、要塞《ようさい》基地でもありました。湾内の島々には敵機を迎え撃つために、何門もの高射砲や機関砲が配備されていました。あるいは、広島のすぐ近くにある呉は日本最大の軍港でしたから、日本海軍の主要な軍艦がほとんど入港していました。

 編隊がやってくると、地上からも軍艦からも、いっせいに砲弾が浴びせられます。しかし、猛スピードで飛ぶ飛行機にはなかなか命中するものではありません。けれども、ときには火ダルマになって墜落していく飛行機を見ることもありました。こうして毎日のように空襲を受けるのはあたり前のようになっていましたが、わたしが不思議に感じていたのは、広島にはよその都市が受けたような、大規模な空襲がないということでした。昭和十九《1944》年から米軍による本土空襲がはじまりました。

 二十年になると、三月にはB29《アメリカボーイング社製の大型爆撃機》三三四機という大編隊による東京大空襲があったのをはじめ、名古屋、大阪という大都市が軒並み空襲にさらされるようになりました。広島の近くでも、呉、岩国、徳山などが大規模な空襲を受けていました。広島は太平洋戦争中だけではなく、すでに日清《日本と清国1984年》・日露《日本とロシア1904年》戦争があった明治時代に大本営《最高の統率機関》が置かれたという歴史を持つ、たいへんに重要な軍都でもあり、軍人の数も多い街でした。当時は馬も重要な兵器のひとつでした。

 広島は軍人と馬と兵器と食料を運び出す一大軍事基地でもありました。現在の南区には宇品という港があり、毎日夕方になると、この港から軍用船が煙をはきながら、広島から山口ヘ、豊後水道《ぶんご=愛媛県西岸と大分県海岸との間の海岸》を越えて中国や南方へ、また関門海峡《=下関,門司間》を越えて朝鮮半島や旧満州に向かって航行していました。わたしの家からも広島湾をゆきかう軍用船を見ることができました。眼前に開けた広島湾のむこうは、有名な海軍兵学校のあった江田島です。その向かい側が呉《くれ》です。呉にはいまも海上自衛隊の基地があります。

 そんなところですから、どこよりも先に爆撃にさらされる都市ではないかと感じていたのです。大規模な空襲がないということがふしぎでした。
 なぜ大規模な空襲を受けなかったかは、戦後になって明らかにされました。アメリカの統合参謀本部は原爆の効果をはっきりさせるために、当初、原爆投下目標としていた広島、京都、小倉、新潟の四つの都市は通常爆弾や焼夷弾で爆撃することを禁止していたのでした。これもあとになって「そういうことだったのか」と思ったことがあります。それは原爆投下前に米軍がまいた宣伝ビラを拾ったことです。家の近くの海ヘアサリを獲《と》りにいったときにそのビラを拾ったのですが、そこには日本地図が掛かれ、ちょうど広島のあたりに「?」のマークがついていました。なんとなくへんな気がして、いつまでも気にかかっていましたが、まさか「?」が原爆であったとは想像もしてみませんでした。

(四)

ピカッ、ドーン! ものすごい光と音

 点呼が終わると、私たち150人の生徒全員は4列縦隊になって家屋疎開の場所へ歩きはじめました。私は比較的背の高いほうでしたから、前から2列目を歩いていました。200メートルか300メートル歩いたところで、担任の岩崎先生が私を呼び止めました。そして、「竹本、君はここから弁当の番に帰ってくれ」と言われたのです。「弁当の番とはおもしろくないな。みんなと一緒に行って作業する方がおもしろいのにな」と思いましたが、命令ですから帰らなければなりません。みんなはそのまま作業現場へ向かっていきましたが、私は隊列を離れて、ひとりトボトボと市役所に戻りました。

 なぜ先生が私に「帰れ」といわれたのか、わかりませんでした。もしかすると私の足に巻かれた包帯をみて、作業は出来ないと思われたのかもしれません。たいした怪我ではなかったのに、大袈裟《おおげさ》に包帯を巻いて来た事を「しまった」と思いました。もう一つは後で解《わ》かった事ですが、他のクラスはふたりづつ弁当の番を残していたのに、私のクラスは一人残しただけでした。先生が途中でそのことに気付かれたのかもしれません。

 集合したころから、すでに夏の太陽がジリジリと照りつけていました。日陰になった市役所の建物の西側の植え込みの中に、弁当とみんなが脱いでいった上着が置いてありました。戻ると、わたしのクラスの斉藤陽二くんがひとり弁当の番をしていました。「なんだ、竹本。帰ってきたのか」「おう、斉藤。帰ってきた。ふたりで弁当の番をやろう」というわけで。彼の横に腰をおろしましたが。弁当の番をするといっても、見ているだけですから、とくにやることはありません。なにか暇つぶしをやらなければ、みんなが弁当を食べに戻ってくるお昼まで、時間をもてあますだけです。そこで、軍人勅諭《ちょくゆ》からはじまる教練の教科書を、おたがいがどれだけ暗唱できるか、確かめあおうということになりました。教練の教科書は中学の一年から二年のあいだに、どうしてもマスターしておかねばならないことでした。どうせ将来は軍人になると考えていましたから、そのために覚えておかなければならないこともたくさんありました。「さぁ、はじめようか」と、かけ声をかけたところで、突然「ピカッ、ドーン!」という、ものすごい光と音がしました。それはいままで見たこともないような、

    ものすごい光でした。そして、
    ものすごい音でした。
それに、ものすごい熱さです。

 昔は写真店で写真を写してもらうとき、ストロボのかわりにマグネシウムというものを焚《た》きました。撮影技師の合図で、「さぁ、光るぞ」とわかっていてもびっくりしてしまったものですが、その何千倍、何万倍、いや何億倍という強い光が、私達の目の前でパーッとはぜたのです。同時にものすごい音がしました。体がぐらぐらと揺れたかとおもうと、ものすごい熱い空気に包まれていました。
 空襲を受けた時は、鼓膜がやられないように手の親指を耳の中突っこみ、目の玉がとびでないように残りの指で目をおさえて伏せる、という訓練を身に着けていましたから、とっさに耳と目をおおって、植え込みの陰にからだを伏せました。空襲をうけたかどうか、このときはまだ、知りませんでしたが、ものすごい光と音に、からだがとっさに反応したのです。
 
 午前8時15分17秒。一瞬のうちの出来事でした。、、、つづく、、、

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団子  半人前   投稿数: 22
(五)

一瞬のうちにまっ暗

どれぐらい時間がたったのでしょう。わたしは植え込みのなかに倒れたまま、しばらく意識をうしなっていたようです。気がつくと、あたりはまっ暗でした。それまでは雲ひとつない、抜けるようにまっ青な青空だったのです。それが一瞬のうちにまっ暗になってしまっていたのです。最初は夢を見ているのではないかと思いました。暗やみのなかで、あわてて自分のからだを見まわしました。となりにいたはずの斎藤くんの姿が見えません。どうやら夢ではないようです。わたしは植え込みを出て、地面に飛び降りました。なにがどうなっているのか、どうしたらいいのか、見当もつきませんでしたが、ともかくクラスのみんなのところへいこうと、家屋疎開《かおくそかい》の方向を目指して歩きはじめました。すると、さっきまでわたしのすぐ横にいた斎藤くんがむこうからやってくるではありませんか。
「おい、さいとうッ!」
すぐそばまで近づいていって、声をかけたのですが、のどに張りついたようになってしまって、声が出ません。しきりに声を出そうとするのですが、まったく声にならないのです。まっ暗ですから、斎藤くんはわたしがいることに気がつきません。暗いなかですれ違ったまま、かれが暗やみに飲みこまれていくのを見送るだけでした。

どこをどう歩いたか覚えがありません。しばらくすると、わたしはまた市役所の玄関前まで戻っていました。あたりはまだ暗やみです。市役所の前は車寄せがあって広くなっており、その前は市電通りでした。しかし、市電の架線や電柱がすベて倒れて道をぶさぎ、思うように歩けない状態でした。もちろん市電は止まったままです。玄関のポーチまでいくと、
「ウォーツ、ウォーツ」
と悲鳴にならない悲鳴をあげながら、おおぜいの人が市役所のなかから走り出てくるのに出会いました。まわりを見ると、そこらじゅうからたくさんの人たちが市役所を目指して集まってきます。
「やられたァー・やられたァー」
と叫ぶ声も聞こえました。そのときになって、わたしには初めて空襲でやられたのだということがわかりました。しかし、いつもなら全市じゅうに鳴りわたるはずの空襲警報のサイレンが、この日に限って鳴らなかったのです。いきなり爆撃を受けたのですから、わけがわからなかったのも当然でした。ふたりの若い女の人がやってきて、呆然《ぼうぜん》としていたわたしのからだを揺《ゆ》さぶってたずねました。
「わたしたちは、けがをしていますか」
見ると、顔もからだも、いたるところにガラスの破片が突き刺さって、そこからタラタラと血が流れています。しかし暗いものですから、赤い血が赤くは見えません。
「大変なけがをしている」とわたしが答えると、
「わたしたちはもうだめよ」
といいながら、人混みのなかに消えていってしまいました。
ふたりの女の人だけでなく、まわりにいた人たちは、みんなからだじゅうにガラスの破片が刺さっていました。小さな子供を連れたひとりのおばあさんがいました。男の子供の手をしっかりと握っていましたが、やがて、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》
と拝みはじめました。
わたしも思わず手をあわせて、
「神様ァ、助けてください。神様ァ、助けてください」
と祈っていました。あたりのやみは依然《いぜん》として晴れません。急におそろしさがこみあげてきて、わたしはとっさに「このままではいけない、なんとか逃げなければいけない」と思いました。


(六)

瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人が

わたしは市役所前の市電通りを東北に向かって歩きだしました。まっすぐいけば、その先には広島第二部隊の西練兵場《れんぺいじょう=兵営の演習場》がありました。現在の広島城公園や広島県庁があるあたりです。なぜ練兵場を目指したかというと、そこはだだっ広い原っぱでしたから、火に囲まれて焼き殺されてしまう心配がないと思ったからです。もうひとつ、その途中の袋町というところには、わたしのすぐ上の姉の冷子が勤めていた、日本銀行の広島支店があったからでもありました。この時間、姉は銀行にいるはずでした。まっ暗ななかで、きっと逃げまどつているに違いない。なんとか姉を探し出して、いっしょに逃げようと思ったのです。しかし、いけどもいけどもまっ暗なやみは晴れません。爆撃を受けたということはわかりましたが、周囲がいつまでもまっ暗だということが、よくわかりませんでした。歩いても歩いてもまっ暗なのです。その暗やみのなかでじっと目をこらすと、市電の石畳《いしだたみ=石敷き》の上には架線が中ずりになっており、横倒しになった市電が見えました。あたりの家屋は全部ペしゃんこにつぶれているのもわかりました。

 市電の駅をふたつほど進んだとき、ゆく手にパパーツと火の手があがるのが見えました。これではだめだ、と姉のところに行くことを断念して市の南の方角へ逃げることにしました。ところが、その方向からも火の手が上がりました。人びとはいっせいにわたしのほうに向かって逃げてきます。一瞬、みんなといっしょになってあと戻りしようか、という気持ちに襲われましたが、一度あの火をくぐり抜けなければ、焼き殺されてしまうと思いなおして、気持ちをふるい立たせながら火の手のあがったほうへ歩いていきました。どうしてわざわざ火の出たほうに向かっていこうとしたかというと、呉から通学していた友人の話を聞いていたからです。広島に原爆が投下される二週間ほど前、呉が空襲でやられていました。友人は海軍中将の息子で、父親から聞いた米軍の空襲のやりかたを、ことこまかにわたしに教えてくれていたのです。それによると、まずB29は街の周辺をとり囲むように、円形に焼夷弾《しょういだん》を落とすのだそうです。まわりをぐるっと囲むのは、市内にいる人びとが外へ逃げられないようにするためです。そうして袋のネズミの状態にしておいて、こんどは縦横十文字に街を焼いていくのだということでした。ですから、このまま街の中心部にいたのでは焼き殺されてしまいます。どんな危険を冒《おか》してもまわりをとり囲んでいる火を一度くぐって、間隙《かんげき》をぬって逃げなければならないと思ったのです。ところが、進もうと思っても道がありません。建物という建物が全部崩れて、道路を隠してしまっているのです。わたしは仕方なく、市電通りから南の方向に向かってつぶされた屋根の上にあがっていきました。瓦をガタガタと鳴らしながら、這うようにして踏み越えていくのですが、その瓦の下から、
「助けてくれェ!助けてくれェ!」
という叫び声が聞こえました。 
瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人がいたのです。押しつぶされた家の下敷きになって、逃げられないのです。しかし、わたしにはどうすることもできません。
「うしろ髪を引かれる」というのは、こういうことなのでしょう。このときの叫び声はいまでもわたしの耳の奥にはっきりと残っています。どうすることもできないという無力感と、一刻でもはやく安全なところに逃れたい、という気持ちに追われるようにして、いつの間にか、わたしは最初に目指した方向とは逆の南に向かっていました。どう考えても、中学生のわたしひとりで瓦礫をとり除くことは不可能だったと思います。それに、そこにとどまっていたら、やがて焼き殺されてしまったでしょう。

「けれども、けれども・・・・・、おまえ」とわたしは幾度も幾度も自分に語りかけていました。そして、そのたびに「しょうがなかったんだ」と、その思いを振り切りながら逃げました。しかしあのとき、ほんとうにわたしにはたすけることはできなかったのだろうか。そういう思いはは、いまでもわたしの頭のなかから離れません。

(七)

異様に巨大な雲の柱

どれほど時間が経ち、どこをどう進んだのかわかりません。まだ暗くてよくわかりませんでしたが、どうやらクラスのみんなが防火帯をつくりに出かけた場所に来たようでした。みんなはどうしたのだろうと思っていると、いきなり二人の中学生がわたしにしがみついてきました。「僕たちを連れて逃げてください、連れて逃げてください」みると二人とも全裸《ぜんら》でした。腰にベルトだけがのこっています。皮膚は焼け爛《ただ》れて、ボロ雑巾《ぞうきん》がぶらさがったように垂れ下がっていました。もちろん足は裸足《はだし》で、わたしは幽霊を見たかと思ったほどでした。「君等はどこの学校や」「僕等は広島山陽中学の一年生です」わたしより一年下でした。
わたしは自分より後輩のふたりを、なんとしても安全な場所に連れて行ってやらなければならないと思いました。「よし、わかった。逃げよう。いっしょに逃げよう」大きな池のあるところに出ました。暗闇《くらやみ》を突き進んでいますから、方角を見失ってしまいそうです。けれども、南に進んでいるんだと信じてあるきました。
やがてわたしたちが逃げようとしている方向から、何十人と言う女学生の一群がやってきました。みんなモンペを履いていたはずだと思いますが、そのとき私が連れて逃げている中学生と同じように、ほとんど全裸の状態でした。髪は焼きちぎれ、皮膚はボロ雑巾《ぞうきん》のように垂れさがっています。私が安全だと思っている方向から逃げてきますから、「なんでこっちへ逃げてくるんですか」とたずねると、「むこうが燃えだしたんです」という答えです。一瞬、女学生たちといっしょになって引き返そうかと迷いました。そこらじゅうで火の手があがったのを見てきましたから、呉《くれ》の友人から聞いていた空襲とは違うのかもしれないという疑いも起きてきました。しかし、結局は火をくぐり抜けて市外にでなければ助からないと決心して、女学生とは別れて、なおも南の方向を目指しました。しだいに火の手が近づいてきました。ものすごい熱さ、、、。なんともいえない熱さです。いっしょに逃げている二人の中学生も、「あつーい、あつーい」と叫びます。二人は全身にやけどをしていますから、あまりの熱さに、「いたーい、いたいよォ」と泣き始めてしまいました。可哀想でしたが火を抜けなければ死んでしまいます。私は火の中へ突っこんで行くのを嫌がる二人を励ましながら、必死の思いで火を超えていきました。その火の中から女の人が出てきて、私にすがりつきました。
振りほどこうとしても、私の衣服をしっかりつかんで、放そうとしません。「私の子が火の中にいるんです。お願いです。助けてェ!」子供、と聞いて私はクラクラするような思いでした。しかし、大変に申し訳ないことです。申し訳ないけれども、そこにとどまっていたのでは、私たちも焼け死んでしまうのです。私たちは、そのお母さんの手も振り切って逃げなければなりませんでした。このときのお母さんの悲痛な叫びも忘れることができません。

やがて、少し明るくなって、10メートルほどだけ前方が見えるようになりました。見わたすと、まるでダルマ抜きをしたみたいに、家々の柱や壁は全部吹っ飛び、その瓦礫の上に屋根が覆《おお》いかぶさっています。ほうぼうで火の手が上がっていましたが、私の周辺には新たな火の手はないようでした。なんとか助かったかもしれない。そう思って振りかって見ましたが、一緒だった中学生とはいつの間にかはぐれてしまっていました。結果的に、火に向かって逃げた事が幸いしました。中心部に向かって逃げていった女学生たちは、おそらく焼け死んでしまっただろうと思います。しばらく進むと、道の左側に井戸水をくみあげる手押しポンプがありました。その前に居た中年の男の人が私を見つけて、「すまんけど、このポンプで水を汲《く》んでくれんか」というのです。見ると、その男の人の頭はパックリとふたつに割れて、体は前を向いているのに、頭の片方が横にいる私のほうを向いているのです。「わしはもう目がみえん」その人はポツリといいました。割れたあたまからはドクドクと血が流れて、全身血の海です。その血がめにはいって、歩く事も出来ないのでしょう。なんとか血を洗いたいので、水を汲んでほしいということだったのです。私は水を汲んであげてから、更に南を目指して進みました。やがて川のあるところに出ました。広島市内には7つの大きな川が流れていますが、その一つの比治山川(京橋川)でした。そこまでたどり着いて、私は初めて自分が逃げてきた道を振り返りました。いったい何時なのかマッタクわかりませんでしたが、実際はまだお昼まえでした。それなのに、夕暮れ前と同じ程度の明るさしかありません。地面から雲がニョキニョキとわき出ているような、なんとも気持ちの悪い景色でした。

赤い色、黒い色、、、、。紫色したところもあります。雲を追いながら目をあげていくと、上空にのぼるにつれて、異様に巨大な雲の柱になっていました。「そうか、あの雲の下にいたから真っ暗やみだったんだ」と言うことがやっとわかりました。、、、、つづく
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団子  半人前   投稿数: 22
(八)

見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景

比治山川にかかる橋をわたりながら、川を見おろすと、裸の人たちが土手をくだってどんどん川のなかに入っていくのが見えました。川は熱さから逃れようとする人であふれていました。しかし、水にふれたとたんに死んでいくのです。それでも人びとはかまわず水のなかに入っていきます。まるで川が人間を吸いこんでいるように見えました。
戦後、原爆研究所ができた比治山公園という小さな山の麓《ふもと》を迂回《うかい=回り道》しながら、わたしはなおも南へ向かって逃げました。途中で出会う人のなかで、まともなかっこうをした人はひとりもいませんでした。ほとんどの人が全裸か、それに近い状態でした。女の人は焼け残ったムシロを拾ったり、ポロ布を拾って前を隠しながら歩いていました。乳飲み子を抱えたおかあさんにも出会いました。

 比治山の裏までたどり着いたとき、被害を受けていない民家を見つけました。「おばあさん、お水をちょうだい」その家のおばあさんに頼んで水をもらいました。水を飲んだら、ようやく落ち着きをとり戻すことができました。そこでわたしは初めて自分のからだを見まわしてみたのです。火をくぐったのに、からだにはやけどのあとひとつない無傷でした。それに、いつの間にか裸足《はだし》になっていたことにも気づかず、無我夢中で逃げてきたのですが、足に釘《くぎ》ひとつ踏んでいませんでした。

 幸運だったとしかいいようがありません。しかし、まだ安心するわけにはいきません。なんとか火の手はくぐり抜けましたが、わたしは自分の家がある方向とは反対の方向に逃げていたのです。
空襲警報のサイレンも鳴りやみません。まだ敵の艦載機《かんさいき=航空母艦などから発進する飛行機》が飛んできて、機銃掃射《きじゅうそうしゃ=低空飛行して機関銃で狙い撃ちする》をくりかえしていました。艦載機はパイロットの顔が見えるぐらいの低空飛行をしてきて、バリバリと機銃を撃つと、弾が風を切って飛ぶヒュンヒュンという音が、耳のすぐ横をかすめるのです。こわくてこわくて、少し走っては防空壕《ぼうくうごう》に逃げこみ、少し休んではまた進むというように、少しでもはやく自分の家に帰りたいという気持ちとは裏腹に、なかなか前へは進めません。

 どの防空壕も、身動きのできない人、負傷者でごったがえしていました。街は方々で燃えあがり、火がないところはペしゃんこに押しっぶされてしまったところです。いけどもいけども見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景がつづくばかりでした。やがて見覚えのある御幸橋が近づいてきました。修道中学校の近くにある橋です。学校は爆心地から約二千五百メートルのところにありました。学校がどうなっているか、寄って確かめてみようと思い、校庭までいってみましたが、だれもいませんでした。わずかに鉄筋の校舎が一棟だけ残っていましたが、木造の校舎は全部つぶされていました。

 いつもならうるさいぐらいに鳴いているセミの声もなく、校庭はしーんと静まりかえって、物音ひとつしません。無気味な静けさでした。わたしにはあっという間のできごとのように思えましたが、すでに三時になっていました。止まっているかと見えた鉄筋の校舎の時計だけが、静かに時をきざんでいました。

 長い時間、暗やみがつづいたあと、やっと明るくなったかと思うと、真夏の陽射しが戻ってきていました。運動場の砂が強い陽射しに照りかえって、わたしにはまぶしいほどの白さに見えました。いつも見慣れているはずの校庭なのに、全然見知らぬ別の場所に立っているようでした。自分の教室があったあたりへいってみました。大きな梁《はり》が落ち、その下の机のあいだに押しっぶされたかっこうで、ひとりの生徒が横たわっているのが見えました。わたしはびっくりして、もときた道を引きかえしました。梁の下敷きになった生徒はすでに息絶えている様子でしたが、おそろしくて近づくことができませんでした。

 あとで、死んだ生徒は一クラスだけ学校へ勉強にきていたクラスの細川くんという生徒だったということがわかりました。ほかの生徒たちは、ドーンときた瞬間に机の下にもぐりこんで、全員助かったのです。元安川にかかる橋をわたり、つぎの川は本川と呼ばれる太田川でしたが、そこにかかっていた橋は木造だったので、焼け落ちてしまっていました。川に入って、歩いてわたろうとしましたが、その川のなかにも動けなくなった人たちがたくさんおりました。

(九)

裸の体に墨で名前を書く

土手を下っていくと、すぐ近くで、「たけもと!」「たけと!」と叫ぶ声がします。誰だろうと思ってキョロキョロと見まわしましたが、まわりは大変な人で、声の主が何処にいるかわかりません。やっと見つけたと思ったら、私の見たこともない顔でした。「おまえはだれや」ときくと、「おれや、おれや、川端や」と答えます。「えっ」と思いました。川端くんといえば、今朝までいっしょだった同じクラスの親友です。ところが、まじまじと見てもわからないほど顔がかわってしまっていました。「たけもとォ!川端や!川端や!」声の主はなおも叫びます。教室では机がわたしのすぐうしろで、毎日顔をつきあわせていたのに、その人だとまるでわからない。顔が2倍くらいの大きさにふくれあがってしまって、とてもおなじ人とは、思えないのです。ふと靴をみたら、「川端」と書いてあったので、やっとわかりました。川をわたり切れば、江波という町のはずでした。そこにはやはりおなじクラスで、私と川端くんとは大の仲良しだった桝本伸之くんの家がありました。「わかった。川端。この川を渡れば、桝本の家がある。そこへ行こう。そこまでがんばれよっ!」そういって励ましながら、私は川端くんを背負うようなかっこうで川をわたりはじめました。

 向こう岸にわたって、土手の上にあがり、桝本くんの家をたずねると、幸いなことに桝本くんの家はすぐ近くでした。家にはおかあさんとおねえさんがおられました。桝本くんが無事かどうかをたずねると、「伸之は昼前に帰ってきましたけど、全身大やけどで、そこの陸軍病院に連れて行きました。」という返事でした。川端くんもすぐに病院へつれていかねばなりませんから、桝本くんの家でリヤカーを借り、桝本くんのおねえさんに手伝ってもらって、陸軍病院へつれていきました。

 病院の前の道は、倒れた人、人、人でふさがっていました。ムシロや戸板《といた=雨戸の板、人を運ぶ時使った》の上に寝かされている人は、まだ恵まれたほうです。地べたにそのまま寝かされている人もいます。体が真っ赤にはれあがり、す息絶えている人もいました。目を開けたまま、すでにものも言えなくなっているけれども、まだ生きている人もいます。
そして、「水をくれェ、みずをくれぇ」と叫びつづけているだけのひと、、。横たわった脇に置かれた瓦《かわら》や木片には「山中」とか「大町」と書かれています。その人の名前です。裸の体に墨で名前を書きつけられているいる人もいました。救護にあたる人の数がたりず、とても全部の人には手当てがいきわたりません。口がきけるあいだに、名前だけでも聞いて、体に書いておくのが精いっぱいだったのです。それすら手がまわらず、名前もわからないままに死んでいった人もたくさんいました。

白い膏薬《こうやく》や食用油《油は火傷の薬》を塗ってもらっている人はまだ幸いでした。ほとんどどの人はなんの手当ても受けられないまま、病院まえの道と言う道を埋め尽くして、とても病院までたどり着けるような状態ではありません。やっと病院の中庭まで入りましたが前後の見境が着くような状態ではありませんから、私は病院の入り口で川端くんをだれかの手に委ねました。しかし、委ねた人が看護婦さんだったのか、軍人の人だったのか、思い出そうとしてもこの部分だけ、はっきり記憶がないのです。そのあとも必死に記憶の糸をたぐろうとしましたが、どうしても思い出せません。川端くんには非常に申しわけなく思いますが、かれとはそこで別れ、結局、それが川端くんと会った最後になってしまいました。

 いっしょに弁当の番をしていた斉藤くんの場合は、死んだものとおもっていました。ところが、それから約40年後、東京の新宿で開かれた同窓会に、その斉藤くんが元気な姿を見せてくれたのです。むこうでも私が死んだものと思っていましたから、奇跡的な再会となりした。、、、、、つづく
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団子  半人前   投稿数: 22
(10)

おまえ、生きとったかぁ

 わたしは陸軍病院からもう一度桝本くんの家に戻って、おにぎりをふたついただいて食べました。それから天満川、太田川の放水路とわたって、やっとのことで広島から下関に通じる国道二号線に出ました。ここまでくれば、わたしの家まではあと四キロはどでした。すでに原爆投下の瞬間から十時間が過ぎて、夕方の六時をまわっていました。国道二号線も、市中に助けに向かおうとする人、ふとんや家財道具を持って市中から逃げる人、道端に倒れてしまった人たちが入り乱れて、大変な雑踏でした。その雑踏をかきわけるようにして歩いていくと、前方で、「しげのりツ!」と自転車に乗った男の人が叫んでいます。わたしの父でした。

「あっ! おとうさん」「おまえ、生きとったかぁ。死んどると思っとったぁ」父はわたしの姿を見つけて、びっくりした様子でした。どうしてかというと、すでに父のもとには、広島修道中学二年生の三クラスがいた広島市役所は全滅だ、という情報が入っていたので、もう生きていはいまいと、わたしのことはあきらめていたからです。せめて日銀に勤めていた娘の安否だけでも確かめようと、自転車を走らせてきたのでした。

 父はわたしにあとのことをいいふくめると、まだボウボウと燃えさかつている廃墟《はいきょ》の街へ自転車を漕《こ》ぎだしていきました。わたしは急いで家に戻り、リヤカー《=荷物運搬用の二輪車》をひっぱり出しました。そのリヤカーにふとんを敷いて、近所に嫁いでいたもうひとりの姉といっしょに、あらかじめ父と打ちあわせておいた、家から三キロほど広島寄りの場所へ急いで引きかえしました。夜九時ごろになって、自転車のうしろに姉を乗せて父が戻ってきました。姉は日銀の地下にいたということでした。すぐに姉のからだをリヤカーのふとんの上に横たえ、家まで三キロの道のりを必死の思いで走りました。何度も息が切れそうになりましたが、姉を少しでもはやく畳《たたみ》の上に寝かしてやりたいという思いで、無我夢中でした。暗やみのなかでも、姉の症状が相当にひどいことがわかったのです。日本銀行のある場所は、爆心地から五百メートルも離れていないところでした。座敷に寝かせた姉のからだをあらためて見ると、全身に大やけどを負っていて、見る影もありませんでした。

 姉を寝かせると、父はまた外へ出ていきました。町内会の会長をしておりましたので、地元の小学校で救護班の責任者をつとめなければなりませんでした。小学校は、広島から逃げてきた人たち収容所になっていました。いのちからがら逃げてきても、どんどん死んでいきます。死んでしまった人は、つぎつぎに教室から運動場へ運び出さなければなりません。そうでないと、まだ生きている人の手当てができないという状態でした。いまに死んでいこうとする娘がいても、父は出かけていかなければならなかったのです。かわりに、わたしがずっと姉のそばについていました。姉の意識はしっかりしていて、しばらくすると、「便所にいきたい」といいだしました。

 まだ自分で立とうとする気力は残っているようでしたが、ふとんの脇にはオマル《便器》を用意してありましたから、「いかんでもいい。ここですればいいじゃないか」と勧《すす》めたのですが、どうしても自分でいきたいといって聞きません。仕方がないので、わたしは姉がいうとおり、手を貸して便所につれていきました。そして、うしろから抱えながらおしっこをさせました。廊下をはさんで、便所のむかいに風呂場がありました。風呂場の脱衣所に姿見がありました。四年前、わたしが小学校五年生のときに亡くなっていた、母親の形見の鏡台です。「あっ」鏡台があったことに気がついたわたしは、思わず息を飲んでしまいました。そして、うかつだった自分を激しく責めました。しかしすでに時遅しでした。姉は自分の目で、鏡に映る自分の姿を見てしまったのです。全身にやけどを負っているだけではなく、頭に三つぐらい穴のあいた姉の姿は、とても二十歳の娘、とても人間の形相《ぎょうそう》とは思えませんでした。なんということか。

 どんなことがあっても元気づけなければならない瀕死《ひんし》の姉にわたしは醜《みにく》い姿を見せてしまったのです……自分の姿を見てしまった姉は、「これは人間じゃない。人間の顔じゃない」といって泣き出しました。「これは人間じゃない。こんな姿では生きておってもつまらん」それまでは自分で立ちあがろうとする気力もあったのに、鏡を見たとたん、すっかり弱気になってしまいました。

 あの鏡さえなかったら……いや、わたしが便所につれていきさえしなければ……。姉は自分の醜い姿を見なくてもすんだ……。そう思うと、どんなに悔やんでも悔やみ切れない。どんなに残念がっても追いつかない。やりきれない。やりきれない。わたしの一生の不覚でした。夜中、父は一度帰ってきましたが、又すぐに出かけていきました。残った私と上の姉と祖父と、それに生まれたばかりの赤ん坊を連れた長兄の嫁でひと晩じゅう寝ずに姉の介抱《かいほう》をしました。

(11)

最後のトマト

翌朝、5時過ぎになってやっと父が帰ってきました。徹夜の作業で疲れたのか、台所の板の間にあぐらをかいて座り、しばらくしていましたが、いきなり正座をしなおしたかと思うと、私を呼びつけました。そして、「成徳、裏の畑へいって、トマトをもいでこい」といいつけたのです。「あっ」とわたしは思いました。父は正座したまま、目は1点だけをじっと見すえていました。わたしはまだ中学二年生にすぎませんでしたが、子供心にも父が覚悟を決めたことがわかりました。わたしがトマトをもいで戻ると、父は急須にトマトを絞ってジュースをつくりはじめました。トマトは姉の大好物でした。「冷子はものすごくトマトが好きな子やから……。」父はそうつぶやきながら、ジュースを絞り終えると、枕《まくら》元にいって、吸い口を姉の口にあてました。姉はコクコクとのどを鳴らしながら、「おいしい、おいしい」といって飲みました。

 やけどや大けがをすると、人間はのどが乾きます。原爆で死んでいく人たちも、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい」といいながら死んでいきました。ところが、水を飲ませると死んでしまいますから、「水を飲んだら死ぬから、水は飲んだらいかんよ」といって、だれも与えないのです。だから、仏様をおがむようにして、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい。死んでもいいから水をください」と手を合わせて頼むのです。わたしの姉も水をほしがりましたが、飲ませたら死ぬということがわかっていましたから、絶対に与えませんでした。柔らかい布に水を含ませて、、くちびるを少し湿らせやる程度です。姉が小康《しょうこう=病期がいくらか治まっている》状態を取り戻したのを見ると、父はまた救護班の活動で小学校へ出かけていきました。九時ごろ、とうとう姉の息づかいがあやしくなってきました。

父はまだ戻ってきません。枕元にはわたしと祖父、もうひとりの姉と生まれたばかりの赤ん彷を抱いたわたしの兄の嫁がいるだけでした。「おとうさん、おとうさん」父がいないのに、姉は父を呼びました。わたしたちがかわるがわる覗《のぞ》きこんで励ますのですが、気がつかない様子でした。もう目が見えなくなっていたのでしょう。「もう少ししたら、おかあさんが迎えにきてくれるよぉ」ともいいました。姉は自分が死ぬことを覚悟したんだな、とわたしは思いました。しばらくすると、また口を開いて、「おとうさん、先立つ不幸をお許しください」
といいました。「なにをいうとるんじゃ。しつかりせい。もしかわってやれるものなら、わしがこの子のかわりに死んでやるのに……。」祖父が励ましましたが、途中から涙声になってよく聞きとれませんでした。「しっかりせい、ねえちゃん。おれは海軍の飛行機乗りになって、ねえちゃんのかたきは絶対にとってやる。だから頑張れ、ねえちゃん。」しかし、励ましのことばもむなしく、姉は息を引きとりました。
八月七日午後九時四十分……。静かな最期《さいご》でした。、、、、、、つづく

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団子  半人前   投稿数: 22
(12)
もっとも残酷なこと

 人が死んでも、もちろん棺桶《かんおけ》などありません。ありあわせの木を棺桶のように仕立てて姉のからだを納め、白い布でおおってやるぐらいのことしかできません。それを家族みんなで山まで担いでいきます。山に穴を掘って、薪を敷きつめ、その上に棺を置いて荼毘《だび=火葬》にふすのです。町じゅう、どこを見ても犠牲者のいない家ははとんどありませんでした。どこの家でもおなじようなことがあったと思いますが、わが子を自分の手で焼かなければならなかった父の思いは、どれほど無念であったであろうと思います。

 自分も子供を産み、育てる年齢になって、このときの父の気持ちを想像してみると、胸のつまる思いがします。原爆では、戦争では、残酷なことが、それはそれは数え切れないほどいっぱいありました。しかし、もっとも残酷なことではなかったかと、わたしに思えるのは、わが子を自分の手で焼かなければならない、父のような人たちがいたことだったのではないでしょうか。それでも考えてみれば、家までつれ帰ってもらい、手当てを受け、肉親に見守られて亡くなっていった姉は、まだ幸せなほうだったかもしれません。

 何万人という人が、身内のだれにも会えずに死んでいかなければならなかったからです。原爆投下から満五十年の平成六年の夏、わたしは母校・広島修道中学の慰霊祭に出席しました。「慰霊」ときざまれた大きなか自然石の裏には、原爆で亡くなった、百三十六名の先生と生徒の名前がきざまれています。ひとりひとりの名前を指でたどりながら読んでいくと、まぶたの裏には五十年前の先生の顔、友達の顔がまざまざと浮かんできました。しかし、このなかの多くの人は、いまだに遺骨が見つかっていません。おそらく今後も見つかることはないと思います。どこで死んだのか、永遠にわからないのです。ヒロシマの街は二週間ほど燃えつづけました。わたしの家から見る市内の上空は、夜になるとまっ赤な空にかわりました。原爆のあと、わたしは幾度か広島市内に入りました。町のいたるところに死体が転がっていました。防火水槽のなかで、風呂に入るように座ったまま息絶えている人もあれば、半分入りかけたまま死んでいる人、さかさまにひっくりかえっている人もいました。川があれば川を求め、近くに川のない人たちはこぞって水を求めたのです。

 人だけではなく、馬が倒れ、牛もひっくりかえっていました。 馬のお腹はものすごくふくれあがっていました。自動車も市電もひっくりかえったままでした。真夏ですから死体の腐乱も進みます。腐りはじめると、ものすごい臭いがします。それにもかまわず、みんなが自分の家族や知人を求めて探しまわったのです。                           
 街では、くる日もくる日もわが子を求めて探しまわる母親の姿を見かけました。みんな半狂乱《はんきょうらん》です。防火水槽のなかに浮いている死体を見つけると、わが子ではないかとひっくりかえして見ます。どの川も、うつ伏せになって浮いている死体と、焼け焦げた木片でいっぱいでした。潮が満ちるとそのまま上流へ流れていき、引くとまたもとのところへ戻ってくるというようにたゆたって、二週間も三週間もそのままになっていました。人びとは橋の上からその死体を見ると、ザブザブと川に入っていって、うつ伏せになった死体をひっくりかえして見るのです。死んでから何日もたって、もう顔のかたちも削れてしまっていますから、見ただけでは自分の肉親かどうかさえわかりません。それでもひっくりかえして、確かめずにはいられないのです。こんなことは親でなくて誰ができるのでしょうか。

 きのうもきょうも、夜が明ければ収容所をたずね歩き、五日も六日も、「きょうもだめだった、きょうもだめだった」という日がつづいて、収容所という収容所は全部見たといっても、それでもたずねて歩くのです。「戦場心理」ということばがあります。いまのわたしたちは、交通事故でひとりの人が倒れるのを見ただけでおそろしいと思うはずです。けれども、原爆のあとの広島は戦場とおなじで、死体が累々《るいるい》としたなかを何日も何日も歩きつづけていると、やがて死体を見てもなんとも感じなくなってくるのです。おそろしいことですが、人間はそういうふしぎな面を持っているのです。こうして多くの人が肉親には会えずに亡くなっていきました。その死体は山のように積みあげ、ガソリンをかけて焼く以外に方法がありませんでした。焼いても遺骨を埋める場所がありませんでしたから、防空壕のなかに納めました。

しかし、防空壕はじきに骨でいっぱいになってしまいました。もちろん、どこのだれともわからない遺骨がいっぱいありました。こんな悲劇があっていいものか、こんな地獄があっていいものか、とわたしは何度も何度も思いました。また、そういうことを考えると、わたしの姉はまだ幸せなほうだったと思いました。

過ちは繰り返しませぬ

戦後、ずっとたってから、広島の原爆記念病院をたずねました。病院には広島市内の地図が貼《は》ってありました。この地図が普通の地図と違う点は、いたるところに赤と黄色のマチ針が刺さっていることです。無数のマチ針が刺さっていました。赤は亡くなった人、黄色は重症の人です。当然、爆心地に近づけば近づくはど針の数は多くなっていきます。わたしが被爆した半径一キロ以内の円のなかは、はとんど赤い針ばかりです。しかしそのなかで、わたしは無傷で助かったのです。病院の先生からは、百人にひとり、という非常に稀《まれ》なケースだと教えられました。資料を見ると、半径五百メートル以内では九六・五%の人が死に、一キロ以
内では八三%の人が死んでいます。ヒロシマでは原爆投下の瞬間に、十数万という人の「いのち」が奪われました。そのうちの六五%が子供、お年寄り、女の人でした。そのあとも原爆症にかかった人たちがつぎつぎに亡くなっていきました。それなのに、爆心地からわずか一キロのところにいたわたしが、助かったのはなぜでしょうか。それも、やけどひとつせず、その後も多くの人たちが苦しんだ原爆症にもかからなかったのです。運がよかったことのひとつは、わたしが途中から方向をかえて、市の南に向かって逃げたことだと思います。南が安全だと思ったわけではありません。 山のようになった瓦礫に邪魔《じゃま》をされて、それ以上進めなくなって方向をかえたのでした。原爆投下のあと、市の北側半分を中心として、はぼ三分の二の市域に、井伏鱒二さんの 『黒い雨』という小説に書かれて有名になった雨が降りました。黒い雨は非常に高濃度の放射能を含み、この雨に打たれた人たちはたいてい死んでしまっています。わたしが逃げた南半分には、運よく黒い雨が降らなかったのです。

 もうひとつは、投下の瞬間、市役所の建物の壁面に張りついたようにしていたことでした。原爆は上空五百七十メートルのところで炸裂《さくれつ》していますから、建物の陰にいなかったら、熱線の直射を受けて全身にやけどを負い、吹き飛ばされて、どこかにたたきつけられていたことでしょう。それも朝から太陽がカンカンと照っていましたから、陽射しを避けて西側にいたことが幸いしました。もし昼過ぎだったら、熱線の直射を受けた場所に移っていたはずです。

エピローグ

わたしが理事長をしているコープこうべでは、組合員のおかあさんがたや職員に百円ずつカンパをしてもらって、そのお金で医療機器を買い、ずっと広島と長崎の原爆病院に寄付をさせていただいてきました。原爆記念病院では、お金が十分ではないために、なかなか新しい医療機器を備えることができない、と困っておられました。ひとりひとりが出す金額は決して大きなものではなくても、多くの人が力を寄せあえば、一定の資金が集まります。その資金で、毎年ひとつぐらいずつ医療機器を導入していただき、少しでも医療の向上に役立てていただきたい、という思いでカンパ活動をやってきました。平成三年、わたしが組合長に就任したときに、院長先生から「一度病院を見にきてください」とお誘いを受けて、拝見させていただくことにしました。当日は院長先生はじめ、スタッフのみなさんがたの温かい歓迎を受けて、病院のなかをくまなく見せていただきました。原爆記念病院の建物は昭和十二年にできた広島日赤病院で、わたしが被爆した広島市役所とわたしの母校のほぼ中間、爆心地からは千五百メートルの距離にありましたが、倒壊をまぬがれて残りました。玄関のタイルは被爆当時のままのものですが、一枚も剥離《はくり》することなく、いまも残っています。わたしたちが寄贈させていただいた医療機器もありました。そこには年月日と「寄贈・灘《なだ》神戸生協」と書いたプレートが貼ってありました。

 前はコープこうべではなく、灘神戸生協という名前でした。医療機器は大量生産ができません。小さな機器でも五百万も一千万もします。しかし、どんなに小さなものでも、それが組合員や職員のカンパによって贈られたということで、病院のかたがたはたいへんに喜んでおられました。いろんなところを見せていただいたあと、最後に屋上にあがって見たのが、二千八百五十杯という透明なプラスチックのバケツでした。昭和二十年からその年までのあいだに、この病院に入院して亡くなった被爆患者が二千八百五十人おられました。そのかたがたの内臓が、ホルマリン漬けで保存されているのです。ひとつひとつに死亡年月日、年齢、お名前の書かれたプレートが貼ってあります。ひきだしのなかには、病歴と解剖所見がファイルされています。保存するためには、毎年一回ホルマリンをとりかえなければならないそうですが、その作業は医学生など何百人という人のボランティアによつて支ええられています。それでも、年間八千万円もの維持費がかかるのに、国や県からは一円の補助も出ないのです。病院を運営する費用のなかから捻出《ねんしゅつ》しなければならないのです。貴重なのを残しつづけるのはたいへんなことです。戦後、ずっと原爆症の治療にあたってこられたひとりの先生が、「わたしたちがこの内臓を研究の材料として使うときは、ほんとうにおがんで、こんなわずかな一片でも、非常にだいじに使うんです。これは人類にとって、未来永劫《みらいえいごう》貴重な資産です。もう二度とつくることができないし、二度とつくってはなりません」といわれました。
そのとおりです。わたしも「これを人類がもう一度つくるようなことがあっては、ほんとうにたいへんなことだ」と、あらためて感じました。ヒロシマとナガサキという厳粛《げんしゅく》な問題を後世に伝えるために、これらは永久に保存されるべきものです。現在のためにも、つぎの世代のためにも、これらがたいせつに保存されていることには感謝しなければならないと思います。

広島の平和記念公演に建つ石碑には、

 安らかに眠って下さい
 過ちは
 繰り返しませぬから

と書かれてあります。ヒロシマは、今年五十三年目の夏を迎えます。被爆した日、十四歳の誕生日が目前だったわたしも、もう六十歳をはるかに越えてしまいました。あの日のヒロシマを知っている人もだんだん少なくなっていきます。ひとりひとりが、この 「ことば」を深く考える必要があります。この 「ことば」は、だれがだれに向かっていったことばか、と問いかける文章を読んだことがあります。

しかし、わたしは素直に読んだほうがいいと思うのです。
たとえば、姉をうしなったわたし自身の「ことば」であってもいいと思います。いや、わたし自身の「ことば」でなければならないと思います。同時に、自分の「こころ」としたほうがいいと思うのです。自分の「ことば」として、自分の「こころ」として、語りつづけなければいけないと思います。

冷子ねえさん、安らかに眠ってください。
戦争というおろかなことは、わたしを含めて、人類はふたたびこういうことをくりかえしませんから、許してください。
 
安らかに眠ってください。

この「ことば」は人類共通の願いであり、叫びであり、わたしの心からの 「ことば」 でもあります。

                完
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