空襲下の東京で
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- 空襲下の東京で (マーチャン, 2006/4/15 9:14)
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投稿日時 2006/4/15 9:14
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
昭和20年の3月下旬、学童疎開《がくどうそかい=戦禍を避けるため都市の学童を農村地帯に移動させた》先へ突然、父が来ました。「勤務先の会社自体が丸の内の本社機構を地方へ疎開させることになったので、父や家族も一緒についていく。お前も、もはや学童疎開をしている必要がなくなったので迎えに来た。ただし、列車の運行状況、汽車の切符入手の関係もあり、いつ出発できるか分からないので、とにかく一旦、東京の家に連れて行く」とのことでした。
当時のことですから、おいそれと家族が引越しすることはできませんでしたので、結局、一ヶ月近く、空襲の激しい東京(杉並区)で過ごすことになりました。そのときの模様をお話したいと思います。
まず、寝るときも着替えをすることはありませんでした。昼間と同じ服装で寝るのです。
ありあわせの上着と「もんぺ」の下には、防寒のため、いろいろなものを着込んでいました。
着るものがなくなると5歳年上の兄のお古のコンビ(男児用の下着。メリヤスのシャツとパンツのつなぎ)の下を切り取ったものまで着せられていました。
そして、防空頭巾《ぼうくうずきん=落下物や火の粉を避けるため厚く綿を入れたかぶりもの》を枕《まくら》にしてタタミのうえに直に寝ました。
当時の人たちは、どんな場所でも、どんな格好でも寝ることが出来ました。
寝付いた頃には、警戒警報のサイレンが鳴ります。
起き上がって家の庭に掘ってあった防空壕《ぼうくうごう》に入ります。
防空壕のなかは、暗く、湿気がひどく、当然ながら楽しい場所ではありませんでした。
全員が入りきれないうちに空襲警報が鳴ります。
その時点では、すでに敵機(B29)《アメリカの大型長距離爆撃機》が上空に来ていました。
まず「照明弾」というものを落とすのです。
それでなくても乏しい家庭用の電灯が灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標にならぬよう電灯に覆いをかけて暗くした》のため一層暗いのですが、照明弾を投下するとあたりが昼間のように明るくなります。はっきりしはしないのですが、何か「風船」か「人魂《ひとだま》」のようなものが空に浮いていたように記憶しています。
攻撃目標を見つけやすくするのでしょうね。
恐いもの見たさに、そっと防空壕をでて空を見上げて「ああ、きれい」とつぶやきました。
あわてた家族に、また防空壕に引っ張り込まれました。
そのあと、防空壕のなかに、炸裂《さくれつ》音、悲鳴などが聞こえ、また静かになりました。
敵機が仕事?を済ませて帰ったようです。
ある晩、懇意にしているお宅の奥さんが子供さんの手を引いて我が家へ見えました。「ウチ、未だ焼けていないんだけど、不発弾だか時限爆弾が落ちているから立ち退くようにって言われたの」とのことでした。母がコンロに蒸し器を乗せて貴重な「オイモ」を蒸かし始めました。そうこうしているうちに夜があけました。
大体、毎晩、同じようなことが続いていました。
幸い、我が家とその近辺は焼け残りました。
近くに「陸軍気象部」があったので、そこがお目当てで毎晩のように敵機が来たのではーーーという話を聞いたことがありますが、真偽の程はわかりません。
杉並でも、焼夷弾《しょういだん=油脂と炸薬を入れた爆弾》による被害はかなりありましたが、3月10日の東京大空襲のような大規模な空襲はなく、散発的なものの繰り返しでした。
当時のことですから、おいそれと家族が引越しすることはできませんでしたので、結局、一ヶ月近く、空襲の激しい東京(杉並区)で過ごすことになりました。そのときの模様をお話したいと思います。
まず、寝るときも着替えをすることはありませんでした。昼間と同じ服装で寝るのです。
ありあわせの上着と「もんぺ」の下には、防寒のため、いろいろなものを着込んでいました。
着るものがなくなると5歳年上の兄のお古のコンビ(男児用の下着。メリヤスのシャツとパンツのつなぎ)の下を切り取ったものまで着せられていました。
そして、防空頭巾《ぼうくうずきん=落下物や火の粉を避けるため厚く綿を入れたかぶりもの》を枕《まくら》にしてタタミのうえに直に寝ました。
当時の人たちは、どんな場所でも、どんな格好でも寝ることが出来ました。
寝付いた頃には、警戒警報のサイレンが鳴ります。
起き上がって家の庭に掘ってあった防空壕《ぼうくうごう》に入ります。
防空壕のなかは、暗く、湿気がひどく、当然ながら楽しい場所ではありませんでした。
全員が入りきれないうちに空襲警報が鳴ります。
その時点では、すでに敵機(B29)《アメリカの大型長距離爆撃機》が上空に来ていました。
まず「照明弾」というものを落とすのです。
それでなくても乏しい家庭用の電灯が灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標にならぬよう電灯に覆いをかけて暗くした》のため一層暗いのですが、照明弾を投下するとあたりが昼間のように明るくなります。はっきりしはしないのですが、何か「風船」か「人魂《ひとだま》」のようなものが空に浮いていたように記憶しています。
攻撃目標を見つけやすくするのでしょうね。
恐いもの見たさに、そっと防空壕をでて空を見上げて「ああ、きれい」とつぶやきました。
あわてた家族に、また防空壕に引っ張り込まれました。
そのあと、防空壕のなかに、炸裂《さくれつ》音、悲鳴などが聞こえ、また静かになりました。
敵機が仕事?を済ませて帰ったようです。
ある晩、懇意にしているお宅の奥さんが子供さんの手を引いて我が家へ見えました。「ウチ、未だ焼けていないんだけど、不発弾だか時限爆弾が落ちているから立ち退くようにって言われたの」とのことでした。母がコンロに蒸し器を乗せて貴重な「オイモ」を蒸かし始めました。そうこうしているうちに夜があけました。
大体、毎晩、同じようなことが続いていました。
幸い、我が家とその近辺は焼け残りました。
近くに「陸軍気象部」があったので、そこがお目当てで毎晩のように敵機が来たのではーーーという話を聞いたことがありますが、真偽の程はわかりません。
杉並でも、焼夷弾《しょういだん=油脂と炸薬を入れた爆弾》による被害はかなりありましたが、3月10日の東京大空襲のような大規模な空襲はなく、散発的なものの繰り返しでした。