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始めて経験した空襲

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/4/25 13:36
安房守  新米   投稿数: 5
国民小学校2年生でした。
何時ものように仲間達と遊んでいると、
物凄い《ものすごい》爆音が聞こえ,
屋根を掠《かす》めるような低空で飛行機が飛んできました。
子供達は「万歳」「万歳」と叫んで、一斉に手を振りました。
飛行機が我々の頭上を通り過ぎ、
《はる》か向こうの工場の屋根の方に消えた途端、
ポカッポカッと煙が上がり、
ドカン!ドカン!と爆発音が響いてきました。
私達には何が何だか訳が判りませんでしたが、
何か恐ろしいことが起こった、だけは感じました。
大人たちが顔色を変えて右往左往しだしました。
本能的にでしょうか、みんな、足が諤諤《がくがく》震えだし、
塀にへばりついていました。

後で知ったのですが、これが米軍の最初の本土空襲でした。
消え去る機影、立ち昇る白煙、凄《すさ》まじい爆発音、
右往左往する人々、
勝利勝利に酔っていた子供達にとって、
衝撃的な忘れられない光景でした、

あれは川崎での経験でしたから、
爆撃を受けた工場は日本鋼管?かも知れません。
江戸っ子で威勢のいい母親は極めて臆病《おくびょう》で、
早々に田舎に疎開《そかい》しました。

戦後、何年かして、
お医者さんごっこをしたお友達が懐かしくて、川崎を訪ねましたが、
私の住んでいた家も、通った学校も有りませんでした。
無くなった学校の近くの学校へ行って、
同級生の消息を尋ねましたが何も判りませんでした。
その時、親身になって話を聞いてくれた先生が、
「何か判ったら知らせてあげます」と仰ってくれました。
後に、お手紙を戴きましたが、
渡田国民学校二年八組の全員が消息不明とのことでした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/4/25 19:42
Pan  常連 居住地: 大阪府  投稿数: 59
安房守 さん、こんにちは。

>国民小学校2年生でした。

 そう言えば私は中学の2年生でしたが、艦載機の機銃掃射を受けたことがあります。 幸いなことに、直接受けた空襲はこれだけでした。

 もう終戦も間近だったと思いますが、学徒動員で田舎の山間部の竹藪を開いて大阪陸軍造兵廠の疎開工場を建設している時のこと。

 その現場はまだ竹を伐っている最中で空が見えなかったのですが、なにやら飛行機が低空で飛び回っているのを感じました。

 B29には馴れていましたが、全く違う音だったので日本の戦闘機だとばかり思い、手を振ろうと竹藪の縁へ何人かと覗きにゆきました。

 黒い小さな飛行機がこちらへ向かって機首を下げたのでこりゃまずいと逃げる間もなく、カリカリッと云うような音と共に数発の機関銃の弾が竹藪に打ち込まれました。

 山間部ですから飛行機は一瞬に頭上をかすめて上昇しどこかへ行きましたが、何人かはヘナヘナと腰が抜けたように座り込んでしまいました。

 もう60年余りも経つのに、クラス会で会うと必ず誰かがその話を持ち出します。
 中学校は既に工場になっていましたが、もう少し疎開工場建設が進展していたら、1トン爆弾の猛爆を集中的に食らっていたのは確実です。

>飛行機が我々の頭上を通り過ぎ、
>遥か向こうの工場の屋根の方に消えた途端、
>ポカッポカッと煙が上がり、
>ドカン!ドカン!と爆発音が響いてきました。

 高空から爆弾を投下された時は、飛行機が丁度頭上を通り過ぎた直後に着弾するので、時間的にはに少々余裕があると教えられました。  空を見上げて見当を付け、物陰に隠れるか腹這いか、それも出来ない時はしゃがみ込んで両手の親指で両耳を押さえ、残りの指で両目を押さえて爆風による被害を防ぐ訓練を何回もしました。 目玉の飛び出すのを防ぐためです。
 爆風による口の内外の圧力差をなくするため口は開けるように教えられました。

 爆弾の落下経路は図解も交えて習いました。 それ以来『放物線』の意味は決して忘れません。 

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