チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり>
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- チョッパリの邑 (41・最終回) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/17 7:27)
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投稿日時 2007/6/17 7:27
編集者
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(あとがき)
子供の頃とはいえ、私のその後の生き方に大きな影響を及ぼすことになった、北朝鮮での三年間(昭和十八年―二十一年)の苛酷な生活の記録は、「まえがき」にも書いた通り、一般的な環境については、既に刊行された資料から読み取れても、父の会社の詳細など不明なところが多く、結局は私の記憶に頼らざるを得なかった。従って日時、場所、氏名などは思い違いもあるだろうし、必ずしも正確とは言い切れないが、それほど大きな間違いはない筈だ。ただ、あと十年早ければ父自身からでなくても、当時の会社関係者に直接お話を聞くチャンスもあって、もう少し正確な記述が出来たかもと思うと残念でならない。
会社(三井軽金属)については、親会社であった三井鉱山の資料を頼りにするしかなかったが、これとても平成二年に発行された「三井鉱山百年史」の中にも、終戦当時に関する記述は極めて少なく、特に朝鮮(三成鉱業・三井軽金属)の手がかりは残念ながら殆ど掴《つか》めない。おそらく混乱した時期の記録は記載内容の通り実際に収集しきれなかったと言うことだろう。
同史によれば、「終戦を境として海外の多くの事業が全く手の届かぬものとなった。樺太《からふと》や朝鮮の直轄《ちょっかつ》事業所との連絡も途絶え、社員達の安否が気違われた。本店人事部に海外在住者連絡係を置き、極力情報の入手に努めたが実態は霧に包まれていた。朝鮮については、『市販品購入資金不足のため所持品の売り食いなどしをるごとく、会社よりも資金密送の方途を講ぜり。――――朝鮮飛行機の工場施設はソ連に撤去《てっきょ=建物を取り去ること》せられたる模様』」、また「終戦とともに、多くの当社派遣員が海外に取り残された。昭和二十一年四月二十日の調査では、樺太・朝鮮・中国・南方の四地域において、終戦時の在籍者ー二三一名(確認された入営・応召者一八○名を含む)のうち、帰還・復員者《=召集をとかれた兵士が帰郷する》三五七名、死亡・行方不明者五四名、残留者八二〇名となっている。実際はこれをはるかに上回る応召者や死亡者を出していたのであるが、国内にあっては知るよしもなかった」と書かれているから、父達の三井軽金属関係者が残留者八二○名を少し下回る人数の中の約100名だった、ということだけが読み取れるのである。
とすれば、私の「子供の頃の記憶」に頼るこの記録が、或いは貴重なものとなるのかも知れないし、それだけにこの記録を読んで[それは達うよ]と言っていただければ有難いと思うのである。
なお、本文中、現地残留を余儀なくされた技術者の方々については、私達の帰還後暫くして無事に帰ってこられたことだけは後に父から聞き及び、心から安堵した事実も付記させていただく。
また、佐世保引揚援護局関係だけは、ここに書ききれなかったものも含めて正式な記録が残されていたのは誠に幸いであった。
私としては、この記録を書きながら、色々なことを考えさせられた。
「戦争」、「生と死」、「朝鮮半島と日本」、「歴史認識」、「国家や企業の危機管理《=不測の出来事に対する体制》」、などなどである。
昭和二十年八月十五日までの二年間は「外地・日本」での生活。戦争中で厳しくはあったが「内地・日本」に比べれば暮らしやすい日々、しかし二十一年十月までの一年あまりは「外国・朝鮮」での、地獄と隣り合わせともいえる苛酷《かこく》な生活に耐える毎日であった。
世界史の中でも第二次世界大戦は、後世最も大きな変革の時期として記録されることであろうが、その大きな歴史のうねりの中で翻弄《ほんろう=てだまにとられる》された日本と日本人、突然の如く開かれ敗れた戦争の責任を問いただそうとは思わない。動いている歴史を正しく評価すること、その歴史の動機ともなる「正義」の真実や所在を正確に推知することは不可能に近く、導かれた結果のみを「正しかった、間違っていた」と単純に論ずるだけで全てが解決するとも思えないからだ。
ただ、東アジアの小さな島国であった日本が、明治維新によって西洋の文明に接し、文化的、経済的、軍事的にも大きく国力を増した事実と、ヨーロッパにおける政治的混乱や国際紛争が、末成熟なアジア大陸にその影響を及ぼし始めていた事実が、不幸な衝突を惹《ひき》起きさせた背景は見逃すことができない。しかも日本の過剰な自信が彼らの反発を増幅させる一方で、日本はヨーロッパ諸国の勢力図を正格に把握せず、或いは敢えて把握しようとしていなかった非は認めなければなるまい。
物事が急速に進むときはに陥《おちい》りやすい罠《わな》は、過信と油断ではなかろうか。そういうときこそ、事態を冷静に判断することが出来るか、判断する能力を身に付けているかどうかが問われる。
政策の立案・実行という観点からすると、取り巻く環境と己の実力を見極めることが先ず必要であって、更には先々の状況を考える・長期的展望が欠かせない。これは国家にも企業にも当てはまる要諦《=肝心のところ》であろう。その意味からすれば当時の日本の政策は、列強の「囲い込み」という止むにやまれぬ状況はあったにせよ、私に言わせればこの要諦が欠落した暴挙としか思われない。
「何とかあの時の暴走を止められなかったものか」、「外交的な手段は本当に尽きていたのか」、今になるとそう思うが、あの時は日本国全体が冷静さを欠いていたのだろう、としか言いようがない。しかし、その暴挙によって私達は内外で大変な苦労を強いられた。
千変万化の歴史を読み解くことは極めて難しいことだ。ましてや気候や風土によって生い立ちが違い、宗教が異なる民族が作っている[世界]の数千年に及ぶ歴史は、友好的であった時間は少なく、常に争いの歴史でもあったとも言える。悲しいことだが事実だ。
また歴史は過去のものではなく、今まさに自分達が、そして人類が作り続けているという厳然たる事実を、決して忘れてはならない、と思うのである。
これまで書き綴《つづ》ったものは、私の人生のごく一部に過ぎないが、過去を振り返りながら一つだけ言えることは、「二度とあのようなおぞましい歴史を繰り返してはならない」、と言うことである。愚かな人間達にそれができるかのか大変に疑問だが、科学技術が進めば進むほど悲劇は大きくなることをよく認識し、「繰り返さない」という強い意思と忍耐強い努力を重ねるより他はないのではなかろうか。
昭和五十年代からこのかた、韓国には仕事で度々訪れ、現地の友人も数多くいる。みな親切だし日本人以上に礼儀正しく尊敬できる人達ばかりだ。しかし辛い思いをした私には、その後接触の機会もなく情報でしか知り得ない「北朝鮮」という国はどうも好きになれないし、韓国の人達と姿・言葉は同じでも同一の民族とは思えず、今の時点で好意を持つことはできない。特にこのところ大きな外交問題となっている「核」や「拉致《らち》」を考えると「好意を持てない」どころか絶望的な怒りしか出てこない。
特に拉致《らち=むりやりに連れて行かれる》については、強制的に連れ去られ、二十数年間もあの忌《い》まわしい土地で、私達以上に苛酷な生活を強いられている事実を思うと背筋が寒くなってくる。ご家族の気持ちも私には痛いほど解るし、拉致された人達が一日も早く無事に解放され、ご家族に本当に平和な日々が戻ってくることを心から祈って止まない。
この記録の舞台となった朝鮮半島。私にとっては特別な思い入れのある地域ではあるが、ここ十年来、統一の機運も芽生えていた筈ながら、核開発を契機《=きっかけ》にして一気に世界の耳目を集める危険な地域になってきた。関係諸国を交えた話し合いは一向に捗《はかど》る気配もなく、統一どころか周辺地域の平和さえ脅《おびや》かされる状況にある。
穏やかに、しかも早急に解決されることは望ましいが、現在の環境を考えると、そう簡単に解決するとも思われない。六〇年間、「同一の民族」でありながら二つの「国」として分断・存在して来た特殊な歴史には計り知れない重さがあるだろうし、また数千年にわたる中国大陸との長い関わりの歴史、殊に北と南の大陸への関わり合いの違いを考えると、民族の悲願とはいえ、「統一」は極めて困難な大事業とも思えるのである。
しかし、辛い過去の経験を持つ私にとって未だに多少の蟠《わだかまり》りがあるのも事実だが、長い交流の歴史を持つ隣国に平和な時が訪れ、地域的な安寧《あんねい=穏やかで平和》のみならず、広く世界の平和に繋《つな》がる日が来て欲しいものである。そして、その日こそが私の蟠《わだかま》りの消える日になってくれることと信じたい。
参考資料
(1) 東洋軽金属・三井軽金属関係
「三井事業史」本編第三巻・下 三井文庫・二〇〇一年年三月発行
(男たちの世紀(三井鉱山の百年)」 三井鉱山(株)・一九九〇年発行
(2) 朝鮮関係
「朝鮮史」武田幸男編 山川出版社・二〇〇〇年八月発行
「日本から観た朝鮮の歴史」熊谷正秀著 展転社・二〇〇四年十一月
「小村寿太郎」岡田幹彦著 展転社・二〇〇五年二月
「伊藤博文と韓国併合」海野福寿著 青木書店・二〇〇四年六月
「北鎮の歴史」酒井敏雄著 草思社・二〇〇三年九月
「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」坪井幸生著 草思社・二〇〇四年十二月
「朝鮮半島を見る眼」朴一者 藤原書店・二〇〇五年十一月
「北朝鮮に消えた友と私の物語」萩原遼著 文芸春秋社・一九九九牛十一月
「北朝鮮を知りすぎた医者」ノルベルト・フオラツェン著 草思社 二〇〇一年
「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 ワック社・二〇〇五年五月
「親日派のための弁明」金完變著 扶桑社・二〇〇四年十一月
「スカートの風」、「新スカートの風」呉善花著 角川書店・二〇〇〇年一月
「週間ダイヤモンド」二〇〇四年九月号記事
(3) 太平洋戦争関係
「目からウロコの太平洋戦争」河合敦著 PHP研究所・二〇〇二半八月
「”昭和”とは何だったのか」保坂正康著 五月書房・二〇〇五年十二月
(4) 引揚援護庁関係
「佐世保引揚援護局史」 佐世保引揚援護局・一九五一年三月
(5) その他
「満州、少国民の戦記」藤原作弥著 社会思想社・一九九五年十二月
子供の頃とはいえ、私のその後の生き方に大きな影響を及ぼすことになった、北朝鮮での三年間(昭和十八年―二十一年)の苛酷な生活の記録は、「まえがき」にも書いた通り、一般的な環境については、既に刊行された資料から読み取れても、父の会社の詳細など不明なところが多く、結局は私の記憶に頼らざるを得なかった。従って日時、場所、氏名などは思い違いもあるだろうし、必ずしも正確とは言い切れないが、それほど大きな間違いはない筈だ。ただ、あと十年早ければ父自身からでなくても、当時の会社関係者に直接お話を聞くチャンスもあって、もう少し正確な記述が出来たかもと思うと残念でならない。
会社(三井軽金属)については、親会社であった三井鉱山の資料を頼りにするしかなかったが、これとても平成二年に発行された「三井鉱山百年史」の中にも、終戦当時に関する記述は極めて少なく、特に朝鮮(三成鉱業・三井軽金属)の手がかりは残念ながら殆ど掴《つか》めない。おそらく混乱した時期の記録は記載内容の通り実際に収集しきれなかったと言うことだろう。
同史によれば、「終戦を境として海外の多くの事業が全く手の届かぬものとなった。樺太《からふと》や朝鮮の直轄《ちょっかつ》事業所との連絡も途絶え、社員達の安否が気違われた。本店人事部に海外在住者連絡係を置き、極力情報の入手に努めたが実態は霧に包まれていた。朝鮮については、『市販品購入資金不足のため所持品の売り食いなどしをるごとく、会社よりも資金密送の方途を講ぜり。――――朝鮮飛行機の工場施設はソ連に撤去《てっきょ=建物を取り去ること》せられたる模様』」、また「終戦とともに、多くの当社派遣員が海外に取り残された。昭和二十一年四月二十日の調査では、樺太・朝鮮・中国・南方の四地域において、終戦時の在籍者ー二三一名(確認された入営・応召者一八○名を含む)のうち、帰還・復員者《=召集をとかれた兵士が帰郷する》三五七名、死亡・行方不明者五四名、残留者八二〇名となっている。実際はこれをはるかに上回る応召者や死亡者を出していたのであるが、国内にあっては知るよしもなかった」と書かれているから、父達の三井軽金属関係者が残留者八二○名を少し下回る人数の中の約100名だった、ということだけが読み取れるのである。
とすれば、私の「子供の頃の記憶」に頼るこの記録が、或いは貴重なものとなるのかも知れないし、それだけにこの記録を読んで[それは達うよ]と言っていただければ有難いと思うのである。
なお、本文中、現地残留を余儀なくされた技術者の方々については、私達の帰還後暫くして無事に帰ってこられたことだけは後に父から聞き及び、心から安堵した事実も付記させていただく。
また、佐世保引揚援護局関係だけは、ここに書ききれなかったものも含めて正式な記録が残されていたのは誠に幸いであった。
私としては、この記録を書きながら、色々なことを考えさせられた。
「戦争」、「生と死」、「朝鮮半島と日本」、「歴史認識」、「国家や企業の危機管理《=不測の出来事に対する体制》」、などなどである。
昭和二十年八月十五日までの二年間は「外地・日本」での生活。戦争中で厳しくはあったが「内地・日本」に比べれば暮らしやすい日々、しかし二十一年十月までの一年あまりは「外国・朝鮮」での、地獄と隣り合わせともいえる苛酷《かこく》な生活に耐える毎日であった。
世界史の中でも第二次世界大戦は、後世最も大きな変革の時期として記録されることであろうが、その大きな歴史のうねりの中で翻弄《ほんろう=てだまにとられる》された日本と日本人、突然の如く開かれ敗れた戦争の責任を問いただそうとは思わない。動いている歴史を正しく評価すること、その歴史の動機ともなる「正義」の真実や所在を正確に推知することは不可能に近く、導かれた結果のみを「正しかった、間違っていた」と単純に論ずるだけで全てが解決するとも思えないからだ。
ただ、東アジアの小さな島国であった日本が、明治維新によって西洋の文明に接し、文化的、経済的、軍事的にも大きく国力を増した事実と、ヨーロッパにおける政治的混乱や国際紛争が、末成熟なアジア大陸にその影響を及ぼし始めていた事実が、不幸な衝突を惹《ひき》起きさせた背景は見逃すことができない。しかも日本の過剰な自信が彼らの反発を増幅させる一方で、日本はヨーロッパ諸国の勢力図を正格に把握せず、或いは敢えて把握しようとしていなかった非は認めなければなるまい。
物事が急速に進むときはに陥《おちい》りやすい罠《わな》は、過信と油断ではなかろうか。そういうときこそ、事態を冷静に判断することが出来るか、判断する能力を身に付けているかどうかが問われる。
政策の立案・実行という観点からすると、取り巻く環境と己の実力を見極めることが先ず必要であって、更には先々の状況を考える・長期的展望が欠かせない。これは国家にも企業にも当てはまる要諦《=肝心のところ》であろう。その意味からすれば当時の日本の政策は、列強の「囲い込み」という止むにやまれぬ状況はあったにせよ、私に言わせればこの要諦が欠落した暴挙としか思われない。
「何とかあの時の暴走を止められなかったものか」、「外交的な手段は本当に尽きていたのか」、今になるとそう思うが、あの時は日本国全体が冷静さを欠いていたのだろう、としか言いようがない。しかし、その暴挙によって私達は内外で大変な苦労を強いられた。
千変万化の歴史を読み解くことは極めて難しいことだ。ましてや気候や風土によって生い立ちが違い、宗教が異なる民族が作っている[世界]の数千年に及ぶ歴史は、友好的であった時間は少なく、常に争いの歴史でもあったとも言える。悲しいことだが事実だ。
また歴史は過去のものではなく、今まさに自分達が、そして人類が作り続けているという厳然たる事実を、決して忘れてはならない、と思うのである。
これまで書き綴《つづ》ったものは、私の人生のごく一部に過ぎないが、過去を振り返りながら一つだけ言えることは、「二度とあのようなおぞましい歴史を繰り返してはならない」、と言うことである。愚かな人間達にそれができるかのか大変に疑問だが、科学技術が進めば進むほど悲劇は大きくなることをよく認識し、「繰り返さない」という強い意思と忍耐強い努力を重ねるより他はないのではなかろうか。
昭和五十年代からこのかた、韓国には仕事で度々訪れ、現地の友人も数多くいる。みな親切だし日本人以上に礼儀正しく尊敬できる人達ばかりだ。しかし辛い思いをした私には、その後接触の機会もなく情報でしか知り得ない「北朝鮮」という国はどうも好きになれないし、韓国の人達と姿・言葉は同じでも同一の民族とは思えず、今の時点で好意を持つことはできない。特にこのところ大きな外交問題となっている「核」や「拉致《らち》」を考えると「好意を持てない」どころか絶望的な怒りしか出てこない。
特に拉致《らち=むりやりに連れて行かれる》については、強制的に連れ去られ、二十数年間もあの忌《い》まわしい土地で、私達以上に苛酷な生活を強いられている事実を思うと背筋が寒くなってくる。ご家族の気持ちも私には痛いほど解るし、拉致された人達が一日も早く無事に解放され、ご家族に本当に平和な日々が戻ってくることを心から祈って止まない。
この記録の舞台となった朝鮮半島。私にとっては特別な思い入れのある地域ではあるが、ここ十年来、統一の機運も芽生えていた筈ながら、核開発を契機《=きっかけ》にして一気に世界の耳目を集める危険な地域になってきた。関係諸国を交えた話し合いは一向に捗《はかど》る気配もなく、統一どころか周辺地域の平和さえ脅《おびや》かされる状況にある。
穏やかに、しかも早急に解決されることは望ましいが、現在の環境を考えると、そう簡単に解決するとも思われない。六〇年間、「同一の民族」でありながら二つの「国」として分断・存在して来た特殊な歴史には計り知れない重さがあるだろうし、また数千年にわたる中国大陸との長い関わりの歴史、殊に北と南の大陸への関わり合いの違いを考えると、民族の悲願とはいえ、「統一」は極めて困難な大事業とも思えるのである。
しかし、辛い過去の経験を持つ私にとって未だに多少の蟠《わだかまり》りがあるのも事実だが、長い交流の歴史を持つ隣国に平和な時が訪れ、地域的な安寧《あんねい=穏やかで平和》のみならず、広く世界の平和に繋《つな》がる日が来て欲しいものである。そして、その日こそが私の蟠《わだかま》りの消える日になってくれることと信じたい。
参考資料
(1) 東洋軽金属・三井軽金属関係
「三井事業史」本編第三巻・下 三井文庫・二〇〇一年年三月発行
(男たちの世紀(三井鉱山の百年)」 三井鉱山(株)・一九九〇年発行
(2) 朝鮮関係
「朝鮮史」武田幸男編 山川出版社・二〇〇〇年八月発行
「日本から観た朝鮮の歴史」熊谷正秀著 展転社・二〇〇四年十一月
「小村寿太郎」岡田幹彦著 展転社・二〇〇五年二月
「伊藤博文と韓国併合」海野福寿著 青木書店・二〇〇四年六月
「北鎮の歴史」酒井敏雄著 草思社・二〇〇三年九月
「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」坪井幸生著 草思社・二〇〇四年十二月
「朝鮮半島を見る眼」朴一者 藤原書店・二〇〇五年十一月
「北朝鮮に消えた友と私の物語」萩原遼著 文芸春秋社・一九九九牛十一月
「北朝鮮を知りすぎた医者」ノルベルト・フオラツェン著 草思社 二〇〇一年
「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 ワック社・二〇〇五年五月
「親日派のための弁明」金完變著 扶桑社・二〇〇四年十一月
「スカートの風」、「新スカートの風」呉善花著 角川書店・二〇〇〇年一月
「週間ダイヤモンド」二〇〇四年九月号記事
(3) 太平洋戦争関係
「目からウロコの太平洋戦争」河合敦著 PHP研究所・二〇〇二半八月
「”昭和”とは何だったのか」保坂正康著 五月書房・二〇〇五年十二月
(4) 引揚援護庁関係
「佐世保引揚援護局史」 佐世保引揚援護局・一九五一年三月
(5) その他
「満州、少国民の戦記」藤原作弥著 社会思想社・一九九五年十二月
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