レイテ島戦不参の記 森田勝己 <英訳あり>
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- レイテ島戦不参の記 森田勝己 <英訳あり> (編集者, 2007/6/18 7:36)
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投稿日時 2007/6/18 7:36
編集者
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(はじめに)
★泉兵団独立歩兵第十三連隊★ レイテ島戦不参の記 森田勝巳
は下記、発行者の方のご了解を得て転載させていただくものです。
-------------------------
発 行 曙 光 会
編集発行所
〒344-0031
埼玉県春日部市一の割1~19~14
近藤敏郎
Tel 048・736・0414・FAX兼
◎ 曙光会は、フィリソピン戦従軍者と戦没者遺族を中心とした者の集りで、戦争体験の記録と
日比友好親善を目標としています。
-------------------------
--
編集者 (代理投稿)
編集者
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投稿数: 4298
昭和十九年《1944年》十月二十日、満を持していた米軍のレイテ島侵攻が開始され、上陸が始まった。
この米軍のレイテ島上陸に、大本営《=天皇直属の最高統率機関》、南方総軍《=全軍》および比島《=フィリピン諸島》を担当する第十四方面軍が、どの様に対応したかと言う事に付いては、戦後色々な意見を以って普く《あまねく=広く》世間に周知されています。
ともあれ私の属した第二十六師団(泉)は、本来のルソン島決戦主力の任務を解かれ、レイテ島決戦の新任務を課せられ、第一師団(玉)と共に、既に米軍が上陸し、戦線を確保している新任地へ移動することになりました。東京の大本営にしてみれば、将棋盤上の歩《ふ》の一齣《ひとこま》を一桝《ひとます》動かす位の気持ちでルソン島よりレイテ島への転用であったかも知れません。
しかし、大本営で「第二六師団をレイテ島へ」と軍用箋《ぐんようせん=軍隊専用の紙》に一行で書いても、現場はそれ程、簡単、容易ではありません。マニラ~レイテ間は約七〇〇キロ、制空権は米軍に握られ、米軍機の乱舞する海上を、1個師団を輸送すると言う事は、想像を絶する難事業で、しかも目的地の状況は大量、迅速と言う二つの条件を同時に満足させなくてはならないのであります。
それでも船腹《せんぷく=船舶の数》が十分に有れば話は進め易い、しかし現実は毎日の空爆により、輸送船は目的地より海底へと消えて行く方が多い状況となれば、舟と名が付けばどんな舟でも、小さくても鈍足でもとマニラを出港です。
これでは表現がまずい、ひどすぎる、司令部の苦労が分からぬか、と叱《しか》られるかも知れないが、しかし、あの時のマニラの状況は、そうとしか見えない有様でありました。
十月二十日に米軍レイテ島上陸を受けて、泉兵団のレイテ島転用《=流用》が決まり、私共の独立歩兵第十三連隊第一大隊は、十一月三日マニラ湾を出港しました。
この時点では、第二大隊については正確な記録が見当りませんが、第三大隊は優秀高速船で輸送され、オルモックまで四〇時間位で到着、十一月初旬には第一線《=最前線》に展開《=人員を配置すること》できました。大隊本部と五個中隊は八隻に分散乗船となり、焼玉エンジン《軽油を燃料とするエンジン、漁船用など》による夜間のみのソロソロ航行、いくら急いでも目的地のレイテ島へは、十日以上かかる航海でありました。
航行は、敵飛行機を避けるため、夜間に限られます。船内の我々はエンジンの音にも漸く馴《な》れてくると、昼の疲れもあり、リズミカルな響きは子守歌に聞こえ、操船の船員の苦労を知るや知らずや、束の間の眠りを貪り《むさぼり》ました。
夜の明ける前に島を見つけ海岸の木陰に船を着け、身も縮む思いで敵の飛行機を逃れるのに苦心したものでした。
マニラを出て航海五日にもなるのに、中々レイテ島に着きません。航行のできないある日中に船の中から釣り糸を垂れ、名も知らない魚を釣り上げると言う、まるで戦争を忘れるような一日もありました。
この穏やかな航海、船内の平穏は九日になって突然暗転、大危機に襲われました。
この日の午後から風が強まり日没行動開始の頃には雨が加わり、暴風雨の様相になりましたが、誰も台風とは思い及びませんでした。六・七十人しか乗れない笹船《=小さな船》、無線による交信とか情報受信のないままの、孤独の船団には台風接近の状況は知るよしもありませんでした。
船は航行を続けてはいるが、雨は段々ときつくなり、更に風は益々強くなって来た。船内も流石《さすが》に異状な雰囲気となって来た。夜中深夜と言うのに、誰も眠るどころではありません。
実は船団はマニラ出港時に、幾つかの協定事項の一つに「灯を甲板上で丸く回せば」通常の「SOS」相当とあった。
船は揺れる、どうも前進できないではないか。関門丸の先任佐方中隊長は「誰か甲板で灯を回せ」と指示された。名は忘れたが、一人の兵が雨を冒《おか》して甲板へ出て行ったが、間もなく船内に戻って来た。彼は言う。
「右の船も左の船でも灯を丸く回しています」
この様な時に軍隊には誠に適当な言葉がある「処置なし」。誰に助けを頼めず、誰も助けに来てくれない。全長二・三十米の小舟で大海で台風に弄《もてあそ》ばれる。こうなれば、後は運は天に任せるのみ、しかし船員の人々は、エンジン全開、操舵《そうだ=かじをあやつる》に汗も拭かず全力を注いでいても、船は右に左に揺れ、船内には漸く不安のようなものが漂い始めた。がどうあっても、ここは船の中、慌てても、あがいても、どうにもならない処でありました。
この嵐がどの位の時間であったのか、船はどの辺りであったのか、何一つ分からぬまま、不安と怯え《おびえ》の時間を、お互い言葉も無く顔と顔とを見合わせて過して行きました。
時折船底から「ザザーッ」、「ザザーッ」と異様な音が聞こえてはいたが、船については何一つ知識のない我々は、少しも気にも止めず、心配もせず台風に会えば、こういう事もあるのかくらいに思っていました。
この米軍のレイテ島上陸に、大本営《=天皇直属の最高統率機関》、南方総軍《=全軍》および比島《=フィリピン諸島》を担当する第十四方面軍が、どの様に対応したかと言う事に付いては、戦後色々な意見を以って普く《あまねく=広く》世間に周知されています。
ともあれ私の属した第二十六師団(泉)は、本来のルソン島決戦主力の任務を解かれ、レイテ島決戦の新任務を課せられ、第一師団(玉)と共に、既に米軍が上陸し、戦線を確保している新任地へ移動することになりました。東京の大本営にしてみれば、将棋盤上の歩《ふ》の一齣《ひとこま》を一桝《ひとます》動かす位の気持ちでルソン島よりレイテ島への転用であったかも知れません。
しかし、大本営で「第二六師団をレイテ島へ」と軍用箋《ぐんようせん=軍隊専用の紙》に一行で書いても、現場はそれ程、簡単、容易ではありません。マニラ~レイテ間は約七〇〇キロ、制空権は米軍に握られ、米軍機の乱舞する海上を、1個師団を輸送すると言う事は、想像を絶する難事業で、しかも目的地の状況は大量、迅速と言う二つの条件を同時に満足させなくてはならないのであります。
それでも船腹《せんぷく=船舶の数》が十分に有れば話は進め易い、しかし現実は毎日の空爆により、輸送船は目的地より海底へと消えて行く方が多い状況となれば、舟と名が付けばどんな舟でも、小さくても鈍足でもとマニラを出港です。
これでは表現がまずい、ひどすぎる、司令部の苦労が分からぬか、と叱《しか》られるかも知れないが、しかし、あの時のマニラの状況は、そうとしか見えない有様でありました。
十月二十日に米軍レイテ島上陸を受けて、泉兵団のレイテ島転用《=流用》が決まり、私共の独立歩兵第十三連隊第一大隊は、十一月三日マニラ湾を出港しました。
この時点では、第二大隊については正確な記録が見当りませんが、第三大隊は優秀高速船で輸送され、オルモックまで四〇時間位で到着、十一月初旬には第一線《=最前線》に展開《=人員を配置すること》できました。大隊本部と五個中隊は八隻に分散乗船となり、焼玉エンジン《軽油を燃料とするエンジン、漁船用など》による夜間のみのソロソロ航行、いくら急いでも目的地のレイテ島へは、十日以上かかる航海でありました。
航行は、敵飛行機を避けるため、夜間に限られます。船内の我々はエンジンの音にも漸く馴《な》れてくると、昼の疲れもあり、リズミカルな響きは子守歌に聞こえ、操船の船員の苦労を知るや知らずや、束の間の眠りを貪り《むさぼり》ました。
夜の明ける前に島を見つけ海岸の木陰に船を着け、身も縮む思いで敵の飛行機を逃れるのに苦心したものでした。
マニラを出て航海五日にもなるのに、中々レイテ島に着きません。航行のできないある日中に船の中から釣り糸を垂れ、名も知らない魚を釣り上げると言う、まるで戦争を忘れるような一日もありました。
この穏やかな航海、船内の平穏は九日になって突然暗転、大危機に襲われました。
この日の午後から風が強まり日没行動開始の頃には雨が加わり、暴風雨の様相になりましたが、誰も台風とは思い及びませんでした。六・七十人しか乗れない笹船《=小さな船》、無線による交信とか情報受信のないままの、孤独の船団には台風接近の状況は知るよしもありませんでした。
船は航行を続けてはいるが、雨は段々ときつくなり、更に風は益々強くなって来た。船内も流石《さすが》に異状な雰囲気となって来た。夜中深夜と言うのに、誰も眠るどころではありません。
実は船団はマニラ出港時に、幾つかの協定事項の一つに「灯を甲板上で丸く回せば」通常の「SOS」相当とあった。
船は揺れる、どうも前進できないではないか。関門丸の先任佐方中隊長は「誰か甲板で灯を回せ」と指示された。名は忘れたが、一人の兵が雨を冒《おか》して甲板へ出て行ったが、間もなく船内に戻って来た。彼は言う。
「右の船も左の船でも灯を丸く回しています」
この様な時に軍隊には誠に適当な言葉がある「処置なし」。誰に助けを頼めず、誰も助けに来てくれない。全長二・三十米の小舟で大海で台風に弄《もてあそ》ばれる。こうなれば、後は運は天に任せるのみ、しかし船員の人々は、エンジン全開、操舵《そうだ=かじをあやつる》に汗も拭かず全力を注いでいても、船は右に左に揺れ、船内には漸く不安のようなものが漂い始めた。がどうあっても、ここは船の中、慌てても、あがいても、どうにもならない処でありました。
この嵐がどの位の時間であったのか、船はどの辺りであったのか、何一つ分からぬまま、不安と怯え《おびえ》の時間を、お互い言葉も無く顔と顔とを見合わせて過して行きました。
時折船底から「ザザーッ」、「ザザーッ」と異様な音が聞こえてはいたが、船については何一つ知識のない我々は、少しも気にも止めず、心配もせず台風に会えば、こういう事もあるのかくらいに思っていました。
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夜が明けたのが先か、台風通過が先か定かでないが、夜が明けてみると空は青空、そよ風さえない。台風が去ったのは分かったが、それにしても船が揺れない。いや少しも動いていない、もっと驚いたのは船のまわりに水がない。船は砂浜にデンと鎮座ましましているではないか。あれ右にも左にも同じ姿勢で僚船《りょうせん=仲間の船》がいるではないか。
これは驚いたとか、びっくりしたとかでは、とても表現しきれるものではない、結局四隻の船がほぼ等間隔で砂浜の海岸に乗り上げて仕舞ったのだ、と言う情況を誰もが認識しなくてはなりませんでした。
この時この四隻には、二中隊の二個小隊、三中隊の若干、一機関銃中隊の指揮班と三個小隊と全員で約三〇〇余名(概数)が乗船していたと思う。取り敢《あ》えず対空対策、下船疎開《そかい=離れた場所に移動する》、海岸を離れ郷子林の中に移動し、今後の対策に入る頃、遥か沖を一隻の船が航行するのを発見、早速手旗信号《両手に赤白の旗を持って文字を現す》を試みると、第一大隊長乗船の「勢吉丸」と分かった。勢吉丸は航路を海岸に向け遠浅のため小舟により海岸に至り、大隊長の斉藤少佐は状況を確認して「速やかに追求すること」と下命、更に機関銃一個小隊の同行を求められ、最右翼小隊の田高小隊を急速、勢吉丸に乗船させて、レイテ島へ向け再び船は発進して行きました。
話は途中ですが、この田高小隊は我が第一機関銃中隊の唯一レイテ島に到達できた小隊であり又第一大隊唯一つの機関銃隊として、奮戦を続け、S上等兵を除く小隊長以下全員玉砕しレイテ島の鬼となりました。
船に備え付けの海図により、この島はマスバテ島である事が分かった。十一月三日にマニラを出た時は八隻の船団であったが、勢吉丸はレイテ島へ向い、四隻はここに居る。残りの三隻はこの夜の台風を期して消息を絶ちました。その三隻には我が機関銃中隊の一個小隊と大隊砲一分隊、外の一中隊、四中隊の殆ど《ほとんど》が乗船していました。
この夜の台風は比島中央部を東進し、マスバテ島からレイテ島へと進み、後日聞く処によれば、リモン峠の五十七連隊は九日の夜、タコ壷《タコつぼ=土を掘った一人用のざんごう》で濡れ鼠《ぬれねずみ》で一夜を明かしたとありました。
干潮の時の海水を100米以上離れた砂浜に乗り上げた四隻の船を眺めて、隊長級の協議の結論は、可能不可能は別にしてとも角この船を海に浮かべる事に全力を注ぐという事になりました。とは言ってもそこに在るのは二~三百人の兵士と円匙《えんぴ=スコップ》と数丁の十字鍬《じゅうじぐわ=土を耕す農具》のみ、工兵もいなければ工具も何もありません。もう午後には取り敢えず、我々の関門丸の砂堀りが始まりました。
今まで五日間程、窮屈な船内に閉じ込められ運動不足でいた者、急に重労働と言っても体は動きません。空には台風一過の青空に、灼熱《しゃくねつ》の太陽がいつまでも照り付けていました。
海岸の郷子林のあちこちに、携帯天幕で夜露を凌《しの》ぎ、少しの休憩も惜しんで、掘り出しの作業が続きました。誰も経験の無い、計画も予定も立たない作業ではあったが、一所懸命の甲斐《かい》があって、三日目頃は、もしかしたら一隻位は掘り出せるかもと希望が湧《わ》いてきて、今までの半信半疑の心境は、やれば出来ると誰彼《だれかれ》も思うようになってきました。そしてその可能性が誰の目にも見えてきた十五日の昼頃、この関門丸の船長の洞口さんが船底で反対側に傾いた船に圧殺されるという不測の悲運が発生しました。勿論《もちろん》慎重な手順で行った作業ではありましたが経験の無い危険な作業故の悲劇で、痛恨の極み、一同で心から懇ろ《ねんごろ》に冥福《めいふく》をお祈りしました。
これは驚いたとか、びっくりしたとかでは、とても表現しきれるものではない、結局四隻の船がほぼ等間隔で砂浜の海岸に乗り上げて仕舞ったのだ、と言う情況を誰もが認識しなくてはなりませんでした。
この時この四隻には、二中隊の二個小隊、三中隊の若干、一機関銃中隊の指揮班と三個小隊と全員で約三〇〇余名(概数)が乗船していたと思う。取り敢《あ》えず対空対策、下船疎開《そかい=離れた場所に移動する》、海岸を離れ郷子林の中に移動し、今後の対策に入る頃、遥か沖を一隻の船が航行するのを発見、早速手旗信号《両手に赤白の旗を持って文字を現す》を試みると、第一大隊長乗船の「勢吉丸」と分かった。勢吉丸は航路を海岸に向け遠浅のため小舟により海岸に至り、大隊長の斉藤少佐は状況を確認して「速やかに追求すること」と下命、更に機関銃一個小隊の同行を求められ、最右翼小隊の田高小隊を急速、勢吉丸に乗船させて、レイテ島へ向け再び船は発進して行きました。
話は途中ですが、この田高小隊は我が第一機関銃中隊の唯一レイテ島に到達できた小隊であり又第一大隊唯一つの機関銃隊として、奮戦を続け、S上等兵を除く小隊長以下全員玉砕しレイテ島の鬼となりました。
船に備え付けの海図により、この島はマスバテ島である事が分かった。十一月三日にマニラを出た時は八隻の船団であったが、勢吉丸はレイテ島へ向い、四隻はここに居る。残りの三隻はこの夜の台風を期して消息を絶ちました。その三隻には我が機関銃中隊の一個小隊と大隊砲一分隊、外の一中隊、四中隊の殆ど《ほとんど》が乗船していました。
この夜の台風は比島中央部を東進し、マスバテ島からレイテ島へと進み、後日聞く処によれば、リモン峠の五十七連隊は九日の夜、タコ壷《タコつぼ=土を掘った一人用のざんごう》で濡れ鼠《ぬれねずみ》で一夜を明かしたとありました。
干潮の時の海水を100米以上離れた砂浜に乗り上げた四隻の船を眺めて、隊長級の協議の結論は、可能不可能は別にしてとも角この船を海に浮かべる事に全力を注ぐという事になりました。とは言ってもそこに在るのは二~三百人の兵士と円匙《えんぴ=スコップ》と数丁の十字鍬《じゅうじぐわ=土を耕す農具》のみ、工兵もいなければ工具も何もありません。もう午後には取り敢えず、我々の関門丸の砂堀りが始まりました。
今まで五日間程、窮屈な船内に閉じ込められ運動不足でいた者、急に重労働と言っても体は動きません。空には台風一過の青空に、灼熱《しゃくねつ》の太陽がいつまでも照り付けていました。
海岸の郷子林のあちこちに、携帯天幕で夜露を凌《しの》ぎ、少しの休憩も惜しんで、掘り出しの作業が続きました。誰も経験の無い、計画も予定も立たない作業ではあったが、一所懸命の甲斐《かい》があって、三日目頃は、もしかしたら一隻位は掘り出せるかもと希望が湧《わ》いてきて、今までの半信半疑の心境は、やれば出来ると誰彼《だれかれ》も思うようになってきました。そしてその可能性が誰の目にも見えてきた十五日の昼頃、この関門丸の船長の洞口さんが船底で反対側に傾いた船に圧殺されるという不測の悲運が発生しました。勿論《もちろん》慎重な手順で行った作業ではありましたが経験の無い危険な作業故の悲劇で、痛恨の極み、一同で心から懇ろ《ねんごろ》に冥福《めいふく》をお祈りしました。
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頑張れば出来ない事はない。座礁一週間した十六日には、まず関門丸を海上に浮かべる事に成功、久し振りにエンジンの響も高く、関門丸が海の中へ動いた時は期せずして「万歳」の声が沸き上がったものでした。
こうなれば自信がつき、自信は確信になり、併行作業を進めていた万吉丸は十七日に、神力丸は十九日に、最後の大栄丸は二十日に海上に浮かべる事に成功しました。勢吉丸の大隊長を送り「追求せよ」と言われた時は、とてもとてもと思った事が遂に実現成功したのでありました。
全四隻の発掘が出来た。さあ急がなくてはならない。マスバテ島に足止めされたのは十二日間、二十一日の夕方を期しマスバテを後にレイテ島へ向けての航行が再開されました。
二十四日の朝はマスバテ島を少し離れたジントトロ島と言うケシ粒程の小島の入江を見つけ停泊となりました。船内で早めの昼食が済み、四・五名の使役《=雑役》兵が偽装用の榔子《やし?》の葉を採るべく舷側《げんそく=ふなべり》で準備を始めた頃、突然超低空で島の反対側からコンソリ爆撃機が襲いかかり、爆弾投下と共に機銃射撃をして過ぎ去りました。二中隊の一人が即死一人が負傷、我が機関銃中隊でも、加藤二年兵が臀部《でんぶ》に負傷、我が中隊としては比島上陸以来の負傷第一号であった。幸い反復攻撃がなく事態は間もなく鎮静しましたが、マニラ空襲以上に身辺近くに銃弾は飛んで来る事を思い知らされた一瞬でありました。
薄暮までに戦死した二中隊の戦友を全員で埋葬して、夜を待って航行が始まり、文字通り異郷の孤島ジントトロと言う名も知らない島に、ただ1人眠るかと将《まさ》に後髪を引かれる思いで、島を後にしました。
明ければ二十五日、四隻の船団はセブ島の北端、メデリン島の「ダンパンタヤン」と言う小漁港らしい処に辿《たど》り着きました。ここは遠浅で接岸も出来ず、最小の遮蔽《しゃへい=覆い隠す》も出来ない今思えば危険地帯ではありました。
この様な環境、状況から全員上陸となりました。上陸してみると友軍の警備隊が駐存していた。そして絶えず耳に遠雷のように響くのは、レイテ島の砲爆撃の音である事、ここよりレイテ島西海岸までは、船で七・八時間で到着できる事、レイテ島では炊飯ができないから、ここで握り飯を作って行けとの事、聞く事は皆驚く事ばかりでありました。
それではと、改めて船から米を運び、警備隊の炊飯所を借用して大車輪の握り飯作り作業に全員で取り組みました。
心ははやり、明日はいよいよレイテ島かと緊張が身を包む午後になった頃、遥か上空を米軍機が一機飛来し旋回して、レイテ島方面へ飛び去って行った。
警備隊の兵は沖に遮蔽せず停泊している船は発見され襲撃は必至、必ず来ると忠告された。関門丸には昨日ジントトロ島で負傷した加藤二年兵が1人で居残っている。
早速救出しなくてはと、急遽《きゅうきょ》飯田上等兵が小舟を操《あやつ》って出かけた。事態は急を要する、力漕《りきそう》また力漕、加藤二年兵を伝馬船《てんません=はしけ》に移し、海岸に向っているのは分かっていても、気があせる程伝馬船は速くは走れないものでありました。
果たせるかな、その伝馬船が波打際に到着すると同時に上空に十七機のグラマンが現れた。そして四機づつ四隊に分かれて四隻の船に銃弾の雨を撃ち続けた。無抵抗無防備の船は間もなく炎に包まれ、更に船底に積み込まれた弾薬に火が届くのは時間の問題で、四隻の船は次々と大音響と共に大爆発を起こし、太陽の明るさにも劣らぬ赤黄い閃光《せんこう=きらめく光》は到底忘れる事のできない光景でありました。
私は伝馬船の患者の介護のため、海岸に向ったのであったが潮流により二〇〇米くらい離れた処で収容したため、飯田上等兵他僅か《わずか》数名でこの銃撃から爆発を眺める破目になりました。
三・四十分の銃撃で四隻の船を焼き尽くした攻撃隊は地上から何の反響も受ける事なく、悠々と戦果を後に再び編隊を整え東の方レイテ島の空へ消えて去りました。
マニラを出港して三週間、マスバテ島では十日かけて四隻の船を掘り出す奇跡もあった。
いよいよ明日こそ遅れたとは言え、本隊の戦っているレイテ島へと思っていた願いも希望もこの瞬間に打ち砕かれて仕舞いました。
この十一月二十五日の時点では我々にはレイテ島を含め他の戦線の状況は何も情報もなく、レイテ島でも日本軍の事、泉兵団の事、きっと我が方に有利に展開し、できれば戦勝の祝宴でも……くらいの気持ちもあったのは事実でありました。
しかし、この二十五日に於けるレイテ島の現実は、リモン峠の五七連隊(玉)は強力な米軍の圧力により必死の抵抗も破断点に近く、南部戦線では我が十三連隊第三大隊が、ダムラン、アルブエラで米軍の重圧に耐え懸命の死闘を繰広げている、将にレイテ島決戦の瞬間でありました。
このレイテ島の重大な展開を知らない我が遭難部隊は、当面の食料こそ握り飯であると言うものの明日以後の食糧は何の目当てもない、それより兵器弾薬は総て船と共に海底に消えた。
勿論《もちろん》着替えさえ誰も無くなって仕舞ったのでありました。
取り敢えず、この状況について警備隊を通じ然るべき方面に連絡通知をされたと聞きました。
こうなれば自信がつき、自信は確信になり、併行作業を進めていた万吉丸は十七日に、神力丸は十九日に、最後の大栄丸は二十日に海上に浮かべる事に成功しました。勢吉丸の大隊長を送り「追求せよ」と言われた時は、とてもとてもと思った事が遂に実現成功したのでありました。
全四隻の発掘が出来た。さあ急がなくてはならない。マスバテ島に足止めされたのは十二日間、二十一日の夕方を期しマスバテを後にレイテ島へ向けての航行が再開されました。
二十四日の朝はマスバテ島を少し離れたジントトロ島と言うケシ粒程の小島の入江を見つけ停泊となりました。船内で早めの昼食が済み、四・五名の使役《=雑役》兵が偽装用の榔子《やし?》の葉を採るべく舷側《げんそく=ふなべり》で準備を始めた頃、突然超低空で島の反対側からコンソリ爆撃機が襲いかかり、爆弾投下と共に機銃射撃をして過ぎ去りました。二中隊の一人が即死一人が負傷、我が機関銃中隊でも、加藤二年兵が臀部《でんぶ》に負傷、我が中隊としては比島上陸以来の負傷第一号であった。幸い反復攻撃がなく事態は間もなく鎮静しましたが、マニラ空襲以上に身辺近くに銃弾は飛んで来る事を思い知らされた一瞬でありました。
薄暮までに戦死した二中隊の戦友を全員で埋葬して、夜を待って航行が始まり、文字通り異郷の孤島ジントトロと言う名も知らない島に、ただ1人眠るかと将《まさ》に後髪を引かれる思いで、島を後にしました。
明ければ二十五日、四隻の船団はセブ島の北端、メデリン島の「ダンパンタヤン」と言う小漁港らしい処に辿《たど》り着きました。ここは遠浅で接岸も出来ず、最小の遮蔽《しゃへい=覆い隠す》も出来ない今思えば危険地帯ではありました。
この様な環境、状況から全員上陸となりました。上陸してみると友軍の警備隊が駐存していた。そして絶えず耳に遠雷のように響くのは、レイテ島の砲爆撃の音である事、ここよりレイテ島西海岸までは、船で七・八時間で到着できる事、レイテ島では炊飯ができないから、ここで握り飯を作って行けとの事、聞く事は皆驚く事ばかりでありました。
それではと、改めて船から米を運び、警備隊の炊飯所を借用して大車輪の握り飯作り作業に全員で取り組みました。
心ははやり、明日はいよいよレイテ島かと緊張が身を包む午後になった頃、遥か上空を米軍機が一機飛来し旋回して、レイテ島方面へ飛び去って行った。
警備隊の兵は沖に遮蔽せず停泊している船は発見され襲撃は必至、必ず来ると忠告された。関門丸には昨日ジントトロ島で負傷した加藤二年兵が1人で居残っている。
早速救出しなくてはと、急遽《きゅうきょ》飯田上等兵が小舟を操《あやつ》って出かけた。事態は急を要する、力漕《りきそう》また力漕、加藤二年兵を伝馬船《てんません=はしけ》に移し、海岸に向っているのは分かっていても、気があせる程伝馬船は速くは走れないものでありました。
果たせるかな、その伝馬船が波打際に到着すると同時に上空に十七機のグラマンが現れた。そして四機づつ四隊に分かれて四隻の船に銃弾の雨を撃ち続けた。無抵抗無防備の船は間もなく炎に包まれ、更に船底に積み込まれた弾薬に火が届くのは時間の問題で、四隻の船は次々と大音響と共に大爆発を起こし、太陽の明るさにも劣らぬ赤黄い閃光《せんこう=きらめく光》は到底忘れる事のできない光景でありました。
私は伝馬船の患者の介護のため、海岸に向ったのであったが潮流により二〇〇米くらい離れた処で収容したため、飯田上等兵他僅か《わずか》数名でこの銃撃から爆発を眺める破目になりました。
三・四十分の銃撃で四隻の船を焼き尽くした攻撃隊は地上から何の反響も受ける事なく、悠々と戦果を後に再び編隊を整え東の方レイテ島の空へ消えて去りました。
マニラを出港して三週間、マスバテ島では十日かけて四隻の船を掘り出す奇跡もあった。
いよいよ明日こそ遅れたとは言え、本隊の戦っているレイテ島へと思っていた願いも希望もこの瞬間に打ち砕かれて仕舞いました。
この十一月二十五日の時点では我々にはレイテ島を含め他の戦線の状況は何も情報もなく、レイテ島でも日本軍の事、泉兵団の事、きっと我が方に有利に展開し、できれば戦勝の祝宴でも……くらいの気持ちもあったのは事実でありました。
しかし、この二十五日に於けるレイテ島の現実は、リモン峠の五七連隊(玉)は強力な米軍の圧力により必死の抵抗も破断点に近く、南部戦線では我が十三連隊第三大隊が、ダムラン、アルブエラで米軍の重圧に耐え懸命の死闘を繰広げている、将にレイテ島決戦の瞬間でありました。
このレイテ島の重大な展開を知らない我が遭難部隊は、当面の食料こそ握り飯であると言うものの明日以後の食糧は何の目当てもない、それより兵器弾薬は総て船と共に海底に消えた。
勿論《もちろん》着替えさえ誰も無くなって仕舞ったのでありました。
取り敢えず、この状況について警備隊を通じ然るべき方面に連絡通知をされたと聞きました。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
とにかく今夜足を伸ばす場所を確保しなくてはなりません。付近の現地人の空家を求め各分隊単位ずつで分宿する事になりました。宿舎は簡単に確保できましたが、明くる日から毎日の食糧を確保することは最大の仕事となりました。毎日食べ物収集で気を紛らわしてはいましたが、待望の船はとうとう十一月が終っても回して貰《もら》えませんでした。
ダンパンタヤンに在る十日間過ぎの十二月五日になり、急濾《きゅうきょ》二隻の舟が回送される事になりました。定員の都合で三中隊は現地に残り、二中隊と一機関銃中隊が暗夜と共に出発、漆黒《しっこく》の夜の海を全速で疾走、一度は魚雷艇の曳光弾《えいこうだん=光を出して弾道がわかる爆弾》を見る戦慄《せんりつ》を味わいはしたが、払暁《ふつぎょう=明け方》五時にセブ港に無事入港できました。
上陸後間も無く、ノースアメリカン爆撃機十数機による空襲の洗礼を受けました。比島に上陸して最初に受けた本格空爆で竹藪《たけやぶ》を大風が吹き抜けるような轟音《ごうおん》は、恐怖心を煽る《あおる》には相当に効果がありました。初めての空襲を避けたのか、眺めたのか待避する場所も暇もなく、只《ただ》道路を避け家屋に押し入って、敵機の空襲の終るのを待っていました。こうして戦場の末端ながら、その本舞台に一歩一歩近づいて行く事を実感しました。
港から行軍数キロ、セブの兵帖《へいたん=車両や軍需品の補給や修理を担当する機関》に落着き朝食の給与を受けました。久し振りに食事らしい食事を頂きました。
徒手空拳《としゅくうけん=手に何も持たない》の兵が兵帖での徒食《としょく=何もせずに暮らす》は長くありません。数百でセブ陸軍病院の待避壕《たいひごう》を天山陣地に掘ると言う思いもよらない要請があり、新任務に当ることになりました。各所からの集合部隊のことで暑い国での土堀作業は空襲の合間を選んでの重労働でありました。
この防空壕堀作業から突然解放され、約二週間で再び兵帖に戻って来た我々に兵器弾薬と、ひと通りの新しい被服が支給されました。漸く軍人、軍隊らしくなった我々は服装も気分も新たに今度こそレイテ島へ行けると、緊張と共に準備を整えました。
この時、行き先を失った?、紙岡大隊と言う、紙岡大尉が指揮する部隊がセブ市に居て、この大尉が紙岡大隊と我々の指揮を執り、セブ島の北部を目指し最短距離の航行でレイテ島に渡る計画でした。
兵器は整った。被服も行き渡った。兵帖の前庭に整列した部隊を前に、出陣の訓辞を終えて紙岡大尉は号令を下した。「レイテ島に向って前進、前え進め……」
十二月とは言え、南国比島の炎熱の行軍はこうして二十七日に始まりました。
激戦の戦場を目指す部隊として、完全武装は基より携行できるものは、貪欲《どんよく》に極限まで掻《か》き集め鍋《なべ》包丁《ほうちょう》に俎板《まないた》まで、荷車に積み込み、行軍縦列は異例の長さに及ぶ事になりました。
第一泊はヤテでありました。ここはまだ友軍の地域で、暑ささえ我慢すれば、格別対空警戒もせず、時々見える現地人も敵意を現すこともなく、概ね順調に予定通りの行軍ができました。
しかし、順調な行軍もここまででありました。第二日目の行軍が始まり、ヤテの集落を外れ一キ口もすると、そこはゲリラの勢力地か、道路には色々な邪魔物から椰子の木などで道路封鎖、交通妨害が完璧にされているのでした。到底荷車の通行は不可能となりました。車の通行が不可能となれば、車の荷物は分散して兵士の肩にかかってきます。
第二泊目はダナオでした。ここは港町、ここで足と障害(熱帯潰瘍《かいよう》の患者と加藤二年兵)のある兵を清水班長が指揮して、舟艇《しゅうてい=小舟》移動することになった。
三日目は負傷兵を行軍より外した事もあり、順調に行軍できて第三泊のカトモンに到着し大休止《=長時間の休憩》となりました。
カトモンを出て四日目の行軍発起の直後のまだ払暁《ふつぎょう》前、漆黒の闇夜《やみよ》に尖兵《せんぺい=行軍の先端にあって警戒、捜索等担当する兵》が突然銃撃を受け「衛生兵前へ」と叫んでいる。見ると二中隊の石上初年兵が上膊《じょうはく=上腕》に貫通銃創《かんつうじゅうそう=銃弾が体を貫いた傷》、幸い骨折は無い模様、文字通り手探りで止血をしてみる。こちらも重機《=重機関銃、数名で扱う大型のもの》で応戦してゲリラを退散させ、警戒小休憩、夜明けを待つことになりました。
最終四泊はボルボン、就寝半ばの十時頃起こされ、行軍出発とはなったけれど、どこで間違ったか何を間違ったか道路が分からない。水が足を覆い膝《ひざ》に近く、周囲は真夜中の暗夜で前の兵が僅か《わずか》に分かる暗さ、歩く足許は泥沼状となってきた。
随分時間が経過し三時頃と思える時間、行軍速度が落ちたとは言え、どうも生い茂った木をすかして上を見ると、同じ所をぐるぐる回っている感じがする。
四時半頃、辺りが少しづつ白み始めた頃、敵魚雷艇の特有のエンジンの響か聞こえてくるではないか、困惑と緊張と恐怖が一度に襲い掛かってきました。そして間もなく速射砲の発射音と破裂音が同時に響きあいました。とにかくこの湿地帯を抜け出さない事には何もできない、焦りながら彷徨《ほうこう=さまようこと》すること三時間余り、漸く干潮と道路を見つけホッとしたのは周りが明るくなり始めた頃でした。しかし、五百米位の処にある白い建物は、我々が昨夜の仮眠を結んだ家屋ではないか、疲れがドッと身を包みました。
湿地帯からは夜明けと共に脱出できて、周りも少しづつ明るくなって来ましたが、海岸の方では魚雷艇の標的となった船は搭載した砲弾に火が回り、爆発すると真鍮《しんちゅう》の薬莢《やっきょう=火薬を詰める容器》の方が舞い上がり、思い思いの方に飛散するので返って危い。
暫らくして舟艇移動の清水班長一行と道路でバッタリ出会う事になり、魚雷艇に砲撃される恐怖と田中一等兵が砲弾を両足に直撃され即死の状況を聞きました。
最後の力を振り絞って目的地のタボゴンに到着したのは、昭和十九年十二月三十一日の夕方になり、五日間に及ぶ100キロの大行軍は一応大休止となりました。
ここはセブ島の北端に近く、付近には船舶の光井部隊の根拠地もあり、すぐにでもレイテ島への輸送船が来る筈《はず》でありました。一夜明ければ昭和二十年一月一日、マニラ出港以来二か月を迂回《うかい=回り道》に迂回を重ねてしまったが、もう後一歩でレイテ島に足が届く処まで来ることができました。
二日も、三日も船は来ませんでした。
一月四日の朝は、中隊長の佐方中尉は隊長徽章《きしょう》を佩用《はいよう=体につける》した、正装軍衣で兵を整列させた正面に立ち、軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=1882年明治天皇から陸海軍人に与えられた勅諭》の全文を奉読し、一場の訓示をされた。今日は軍人勅諭下賜《かし=下したまわる》の記念日でありました。
一日おいた六日の朝は大変な事が起こりました。レイテ島で師団の指揮を執っている筈の師団長閣下《かっか》が、セブ島に現れました。私共は少しは訝り《いぶかり=あやしみ》ましたがまだこの時点ではレイテ島の戦況、状況は何一つ知らされてはいませんでした。
事態が決定的になったのは、十二日になって第一師団(玉)が師団長を先頭に、軍旗三を捧《ほう》じてセブ島に現れた事によってでありました。兵隊の話は断片的ではあっても、戦況の大筋は段々と知れ渡ってきました。それは想像も及ばない、苦戦、死闘、敗戦の驚くべき現実でありました。
私共もそれなりに弾丸の洗礼も受け、少しは戦火も交えた。しかし、私共がセブ島で安眠を貧《むさぼ》っていたこの間に、友軍は、戦友は激戦死闘を重ね、そして斃《たお》れて逝《い》ったのでありました。
こうして私共は、ついにレイテ島へ追及の夢は決定的に打ち砕かれ、この後は玉兵団長の指揮を受け、セブ島に留まることとなりました。
以上が私共のレイテ島へ進出出来なかった状況の総てであります。
レイテ島に日本軍は五個師団八万の部隊を展開して死闘を挑《いど》みました。その〇・五%(四百名)の小部隊の動向は到底勝敗には何らの影響がある筈もありませんが、それでも何としてでも戦線に辿《たど》り着きたいと、懸命の努力をし、しかもその努力が報われなかった小部隊もいた事を歴史の余白の片隅に一行でも止めたい。それが、あの南の島に無念の戦死を遂げた戦友への鎮魂慰霊ではないかと思い、拙文を綴《つづ》ってみました。
蛇足ながら玉兵団の指揮下に入った私共は、二十年八月二十八日イリハンの丘にて終戦。無事復員できました。 完
ダンパンタヤンに在る十日間過ぎの十二月五日になり、急濾《きゅうきょ》二隻の舟が回送される事になりました。定員の都合で三中隊は現地に残り、二中隊と一機関銃中隊が暗夜と共に出発、漆黒《しっこく》の夜の海を全速で疾走、一度は魚雷艇の曳光弾《えいこうだん=光を出して弾道がわかる爆弾》を見る戦慄《せんりつ》を味わいはしたが、払暁《ふつぎょう=明け方》五時にセブ港に無事入港できました。
上陸後間も無く、ノースアメリカン爆撃機十数機による空襲の洗礼を受けました。比島に上陸して最初に受けた本格空爆で竹藪《たけやぶ》を大風が吹き抜けるような轟音《ごうおん》は、恐怖心を煽る《あおる》には相当に効果がありました。初めての空襲を避けたのか、眺めたのか待避する場所も暇もなく、只《ただ》道路を避け家屋に押し入って、敵機の空襲の終るのを待っていました。こうして戦場の末端ながら、その本舞台に一歩一歩近づいて行く事を実感しました。
港から行軍数キロ、セブの兵帖《へいたん=車両や軍需品の補給や修理を担当する機関》に落着き朝食の給与を受けました。久し振りに食事らしい食事を頂きました。
徒手空拳《としゅくうけん=手に何も持たない》の兵が兵帖での徒食《としょく=何もせずに暮らす》は長くありません。数百でセブ陸軍病院の待避壕《たいひごう》を天山陣地に掘ると言う思いもよらない要請があり、新任務に当ることになりました。各所からの集合部隊のことで暑い国での土堀作業は空襲の合間を選んでの重労働でありました。
この防空壕堀作業から突然解放され、約二週間で再び兵帖に戻って来た我々に兵器弾薬と、ひと通りの新しい被服が支給されました。漸く軍人、軍隊らしくなった我々は服装も気分も新たに今度こそレイテ島へ行けると、緊張と共に準備を整えました。
この時、行き先を失った?、紙岡大隊と言う、紙岡大尉が指揮する部隊がセブ市に居て、この大尉が紙岡大隊と我々の指揮を執り、セブ島の北部を目指し最短距離の航行でレイテ島に渡る計画でした。
兵器は整った。被服も行き渡った。兵帖の前庭に整列した部隊を前に、出陣の訓辞を終えて紙岡大尉は号令を下した。「レイテ島に向って前進、前え進め……」
十二月とは言え、南国比島の炎熱の行軍はこうして二十七日に始まりました。
激戦の戦場を目指す部隊として、完全武装は基より携行できるものは、貪欲《どんよく》に極限まで掻《か》き集め鍋《なべ》包丁《ほうちょう》に俎板《まないた》まで、荷車に積み込み、行軍縦列は異例の長さに及ぶ事になりました。
第一泊はヤテでありました。ここはまだ友軍の地域で、暑ささえ我慢すれば、格別対空警戒もせず、時々見える現地人も敵意を現すこともなく、概ね順調に予定通りの行軍ができました。
しかし、順調な行軍もここまででありました。第二日目の行軍が始まり、ヤテの集落を外れ一キ口もすると、そこはゲリラの勢力地か、道路には色々な邪魔物から椰子の木などで道路封鎖、交通妨害が完璧にされているのでした。到底荷車の通行は不可能となりました。車の通行が不可能となれば、車の荷物は分散して兵士の肩にかかってきます。
第二泊目はダナオでした。ここは港町、ここで足と障害(熱帯潰瘍《かいよう》の患者と加藤二年兵)のある兵を清水班長が指揮して、舟艇《しゅうてい=小舟》移動することになった。
三日目は負傷兵を行軍より外した事もあり、順調に行軍できて第三泊のカトモンに到着し大休止《=長時間の休憩》となりました。
カトモンを出て四日目の行軍発起の直後のまだ払暁《ふつぎょう》前、漆黒の闇夜《やみよ》に尖兵《せんぺい=行軍の先端にあって警戒、捜索等担当する兵》が突然銃撃を受け「衛生兵前へ」と叫んでいる。見ると二中隊の石上初年兵が上膊《じょうはく=上腕》に貫通銃創《かんつうじゅうそう=銃弾が体を貫いた傷》、幸い骨折は無い模様、文字通り手探りで止血をしてみる。こちらも重機《=重機関銃、数名で扱う大型のもの》で応戦してゲリラを退散させ、警戒小休憩、夜明けを待つことになりました。
最終四泊はボルボン、就寝半ばの十時頃起こされ、行軍出発とはなったけれど、どこで間違ったか何を間違ったか道路が分からない。水が足を覆い膝《ひざ》に近く、周囲は真夜中の暗夜で前の兵が僅か《わずか》に分かる暗さ、歩く足許は泥沼状となってきた。
随分時間が経過し三時頃と思える時間、行軍速度が落ちたとは言え、どうも生い茂った木をすかして上を見ると、同じ所をぐるぐる回っている感じがする。
四時半頃、辺りが少しづつ白み始めた頃、敵魚雷艇の特有のエンジンの響か聞こえてくるではないか、困惑と緊張と恐怖が一度に襲い掛かってきました。そして間もなく速射砲の発射音と破裂音が同時に響きあいました。とにかくこの湿地帯を抜け出さない事には何もできない、焦りながら彷徨《ほうこう=さまようこと》すること三時間余り、漸く干潮と道路を見つけホッとしたのは周りが明るくなり始めた頃でした。しかし、五百米位の処にある白い建物は、我々が昨夜の仮眠を結んだ家屋ではないか、疲れがドッと身を包みました。
湿地帯からは夜明けと共に脱出できて、周りも少しづつ明るくなって来ましたが、海岸の方では魚雷艇の標的となった船は搭載した砲弾に火が回り、爆発すると真鍮《しんちゅう》の薬莢《やっきょう=火薬を詰める容器》の方が舞い上がり、思い思いの方に飛散するので返って危い。
暫らくして舟艇移動の清水班長一行と道路でバッタリ出会う事になり、魚雷艇に砲撃される恐怖と田中一等兵が砲弾を両足に直撃され即死の状況を聞きました。
最後の力を振り絞って目的地のタボゴンに到着したのは、昭和十九年十二月三十一日の夕方になり、五日間に及ぶ100キロの大行軍は一応大休止となりました。
ここはセブ島の北端に近く、付近には船舶の光井部隊の根拠地もあり、すぐにでもレイテ島への輸送船が来る筈《はず》でありました。一夜明ければ昭和二十年一月一日、マニラ出港以来二か月を迂回《うかい=回り道》に迂回を重ねてしまったが、もう後一歩でレイテ島に足が届く処まで来ることができました。
二日も、三日も船は来ませんでした。
一月四日の朝は、中隊長の佐方中尉は隊長徽章《きしょう》を佩用《はいよう=体につける》した、正装軍衣で兵を整列させた正面に立ち、軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=1882年明治天皇から陸海軍人に与えられた勅諭》の全文を奉読し、一場の訓示をされた。今日は軍人勅諭下賜《かし=下したまわる》の記念日でありました。
一日おいた六日の朝は大変な事が起こりました。レイテ島で師団の指揮を執っている筈の師団長閣下《かっか》が、セブ島に現れました。私共は少しは訝り《いぶかり=あやしみ》ましたがまだこの時点ではレイテ島の戦況、状況は何一つ知らされてはいませんでした。
事態が決定的になったのは、十二日になって第一師団(玉)が師団長を先頭に、軍旗三を捧《ほう》じてセブ島に現れた事によってでありました。兵隊の話は断片的ではあっても、戦況の大筋は段々と知れ渡ってきました。それは想像も及ばない、苦戦、死闘、敗戦の驚くべき現実でありました。
私共もそれなりに弾丸の洗礼も受け、少しは戦火も交えた。しかし、私共がセブ島で安眠を貧《むさぼ》っていたこの間に、友軍は、戦友は激戦死闘を重ね、そして斃《たお》れて逝《い》ったのでありました。
こうして私共は、ついにレイテ島へ追及の夢は決定的に打ち砕かれ、この後は玉兵団長の指揮を受け、セブ島に留まることとなりました。
以上が私共のレイテ島へ進出出来なかった状況の総てであります。
レイテ島に日本軍は五個師団八万の部隊を展開して死闘を挑《いど》みました。その〇・五%(四百名)の小部隊の動向は到底勝敗には何らの影響がある筈もありませんが、それでも何としてでも戦線に辿《たど》り着きたいと、懸命の努力をし、しかもその努力が報われなかった小部隊もいた事を歴史の余白の片隅に一行でも止めたい。それが、あの南の島に無念の戦死を遂げた戦友への鎮魂慰霊ではないかと思い、拙文を綴《つづ》ってみました。
蛇足ながら玉兵団の指揮下に入った私共は、二十年八月二十八日イリハンの丘にて終戦。無事復員できました。 完
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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敗軍の兵、将を語る
森田 克己
昭和二十年一月六日、ここ比島のセブ島東海岸の北端に近いタバコンの岸辺には、レイテ島への船を待って、私達第二十六師団独立歩兵十三連隊(泉五三一六)第一大隊、第二中隊、第一機関銃中隊の兵士約一五〇名と紙岡大隊の約一〇〇名の計二五〇名が、その時のレイテ島の戦況に就いて、少しの情報も無いまま、昨十九年十一月三日、マニラ出発時の、レイテ島進出の命令を遂行するために、セブ市より回航される船を既に五日に亘《わた》って待っていました。
部隊は概ね分隊単位くらいで空家になった現地人のニッパ小屋《ニッパやしの葉で屋根をふいた小屋》に、雨露を凌《しの》いで仮泊を続けていました。
この朝早く辺りを憚る《はばかる》ような声で「衛生兵はいないか」「衛生兵が居たら来て貰《もら》いたい」と言う声が聞こえてきた。
声の内容から考えると、同行の部隊の兵とは考えられない。眠気眼をこすり直してよく聴くと衛生兵を探していることは確かのようである。
私のすぐ横に着のみ着のままで寝ている、先任の久保田衛生上等兵に伺うと「森田行って診て来い」と言う。
取り敢えず細帯嚢《さいたいのう=包帯を入れた袋》のみを提げてニッパ小屋の外へ出てみると見知らぬ日本兵が立っており、「此方《こっち》へ来てくれ」と言う。
百米か二百米かは記憶にないが、余り遠くない処のニッパ小屋に案内された。小さな部屋には三人の老齢の軍人、いや上級の将校、よく見ると一人は中将の階級章を胸に付けているではないか。こんな偉い将校への敬礼の仕方も分からないが、凭《もた》れるような姿勢の閣下《かっか=高位の人への敬称》、仰向きに寝ている大佐殿、傍らの軍医殿(階級は大佐と見たが、正確には想い出せない)に正座して頭を下げて敬礼とした。
とにかく軍医殿に伺いを立てた。「閣下は左上膊《じょうはく=上腕》に銃創《じゅうそう=銃弾による傷》だ」「参謀長は右上膊に銃創」「私は何も持っていない、見ているので処置してやってくれ」とのこと……。
見れば閣下は二発の貫通銃創《かんつうじゅうそう=弾が体を通り抜けた傷》とりあえず兵隊と同じ治療処置をし、緊迫細帯をする。
続いて参謀長と言われた大佐殿は、右上膊の最上部擦過創《さっかそう=かすり傷》、傷口は七~八センチに及ぶ、皮膚はなく筋肉が露出している。リバ・カーゼを厚く重ね、固定帯をして一応の処置を終了、軍医に破傷風予防注射を伺ったら「是非やってくれ、よく持っていた」と褒《ほ》められた。
施術の間、大佐殿は顔はしかめられたが痛いとも、苦しいとも言われず、我慢して治療を受けられ、私も安心して治療出来たが、閣下は、一ツーツに「痛い」「痛い」と苦痛を訴えられたのには閉口した。
治療が終れば用はない、一礼して室を辞したが、室外に兵が立っている、兵の足許を見れば日本の内地の百円紙幣《しへい》が十数枚海水に濡れたので乾かしていた。
中将閣下ともなれば、野戦に出ても、大したお金を携行するものだと、変な所で感心して指揮班のニッパ小屋に帰った。
さて、指揮班に帰隊し既に全員起床の後であったが、一連の治療の状況を久保田上等兵に報告をしたのであるが、この状況は信用してもらえず、「陽が登ってからまで夢を見ているのか」と笑われた。
中将閣下、高級将校の負傷、それを見習い衛生兵が治療したとは、とても二年兵のベテラン衛生上等兵殿には仲々納得して貰えなかった。
しかし、数時間して昼食時間の頃には、第一〇二師団(抜)の師団長がレイテ島から転進《てんしん=退却》してセブ島に到着した事、師団長と参謀長が負傷した事は付近の各隊に知れ渡ったものでした。
この直後、閣下は護衛の部隊は余りに小部隊であるので、我が中隊は途中まで掩護《えんご》護衛してセブ市へ向かわれたのであった。
更に数日して今度は第一師団が軍旗三旒《りゅう》を奉じてレイテ島より転進、セブ島に到着した。
我々はこの時点に至って初めてレイテ島の戦闘の真相を知り結果は大苦戦、大敗戦であった事を知らされたのであった。
思えば二週間前の昨十九年十二月二十七日、セブ市を行軍発起、遅れ走せとは言え主戦場のレイテ島に辿《たど》り着かんものと、五日間に百キロのセブ島東海岸を難行軍は何であったのか。
戦後目にした戦記の示す物の中に、第十四方面軍は十二月二十二日に在レイテ島第三十五軍に自活自戦の指示と、とれる電報を発しているとあった。
話題を本筋に戻そう。警備担当装備の兵団を率いて最激戦の戦線に赴き、軽装備、寡兵《かへい=少人数の兵》をもって最新鋭、優秀装備の大軍に立ち向い、最悪の戦況の責任を一身に背負った老将軍には筆舌に及ばない苦悩があった筈である。この師団長のセブ島に至る一連の動向については、色々な文献、戦記に記述され、なかには否定的、不名誉な表現も見られる。勿論私は敗戦の兵……何ぞ将を語らんや。
この閣下は戦争末期には、このレイテ島早期転進を問われ、戦後には不覚にも戦犯の濡衣《ぬれぎぬ》を押し付けられ、祖国の土を踏むことなく国に殉《じゅん》ぜられたと聞く。
しかし、黄色の将官旗を野戦に立て数多《あまた》の部隊を指揮した親補職の閣下を如何に忽々《そうそう=あわただしいさま》の間とは言え、一衛生一等兵が細帯を施したとは、白日夢にも思える一場面であった。
我々の軍隊は皇軍と呼ばれ、更に光輝あるとか、勇敢、無敵不敗とあらゆる美辞、賛辞が冠せられた。明治建軍以来七十余年、栄光と名誉で綴《つづ》られた軍隊の歴史には、地方市井の一市民や散兵線の一兵らの覗い知らない処に、断片的な我々の想像を絶する、凡そ考えられない真実が気が付かない処々にひっそりと縫い込まれていた事も又事実であると知った。私は偶然にもその影の一場面の立会人となった。 完
森田 克己
昭和二十年一月六日、ここ比島のセブ島東海岸の北端に近いタバコンの岸辺には、レイテ島への船を待って、私達第二十六師団独立歩兵十三連隊(泉五三一六)第一大隊、第二中隊、第一機関銃中隊の兵士約一五〇名と紙岡大隊の約一〇〇名の計二五〇名が、その時のレイテ島の戦況に就いて、少しの情報も無いまま、昨十九年十一月三日、マニラ出発時の、レイテ島進出の命令を遂行するために、セブ市より回航される船を既に五日に亘《わた》って待っていました。
部隊は概ね分隊単位くらいで空家になった現地人のニッパ小屋《ニッパやしの葉で屋根をふいた小屋》に、雨露を凌《しの》いで仮泊を続けていました。
この朝早く辺りを憚る《はばかる》ような声で「衛生兵はいないか」「衛生兵が居たら来て貰《もら》いたい」と言う声が聞こえてきた。
声の内容から考えると、同行の部隊の兵とは考えられない。眠気眼をこすり直してよく聴くと衛生兵を探していることは確かのようである。
私のすぐ横に着のみ着のままで寝ている、先任の久保田衛生上等兵に伺うと「森田行って診て来い」と言う。
取り敢えず細帯嚢《さいたいのう=包帯を入れた袋》のみを提げてニッパ小屋の外へ出てみると見知らぬ日本兵が立っており、「此方《こっち》へ来てくれ」と言う。
百米か二百米かは記憶にないが、余り遠くない処のニッパ小屋に案内された。小さな部屋には三人の老齢の軍人、いや上級の将校、よく見ると一人は中将の階級章を胸に付けているではないか。こんな偉い将校への敬礼の仕方も分からないが、凭《もた》れるような姿勢の閣下《かっか=高位の人への敬称》、仰向きに寝ている大佐殿、傍らの軍医殿(階級は大佐と見たが、正確には想い出せない)に正座して頭を下げて敬礼とした。
とにかく軍医殿に伺いを立てた。「閣下は左上膊《じょうはく=上腕》に銃創《じゅうそう=銃弾による傷》だ」「参謀長は右上膊に銃創」「私は何も持っていない、見ているので処置してやってくれ」とのこと……。
見れば閣下は二発の貫通銃創《かんつうじゅうそう=弾が体を通り抜けた傷》とりあえず兵隊と同じ治療処置をし、緊迫細帯をする。
続いて参謀長と言われた大佐殿は、右上膊の最上部擦過創《さっかそう=かすり傷》、傷口は七~八センチに及ぶ、皮膚はなく筋肉が露出している。リバ・カーゼを厚く重ね、固定帯をして一応の処置を終了、軍医に破傷風予防注射を伺ったら「是非やってくれ、よく持っていた」と褒《ほ》められた。
施術の間、大佐殿は顔はしかめられたが痛いとも、苦しいとも言われず、我慢して治療を受けられ、私も安心して治療出来たが、閣下は、一ツーツに「痛い」「痛い」と苦痛を訴えられたのには閉口した。
治療が終れば用はない、一礼して室を辞したが、室外に兵が立っている、兵の足許を見れば日本の内地の百円紙幣《しへい》が十数枚海水に濡れたので乾かしていた。
中将閣下ともなれば、野戦に出ても、大したお金を携行するものだと、変な所で感心して指揮班のニッパ小屋に帰った。
さて、指揮班に帰隊し既に全員起床の後であったが、一連の治療の状況を久保田上等兵に報告をしたのであるが、この状況は信用してもらえず、「陽が登ってからまで夢を見ているのか」と笑われた。
中将閣下、高級将校の負傷、それを見習い衛生兵が治療したとは、とても二年兵のベテラン衛生上等兵殿には仲々納得して貰えなかった。
しかし、数時間して昼食時間の頃には、第一〇二師団(抜)の師団長がレイテ島から転進《てんしん=退却》してセブ島に到着した事、師団長と参謀長が負傷した事は付近の各隊に知れ渡ったものでした。
この直後、閣下は護衛の部隊は余りに小部隊であるので、我が中隊は途中まで掩護《えんご》護衛してセブ市へ向かわれたのであった。
更に数日して今度は第一師団が軍旗三旒《りゅう》を奉じてレイテ島より転進、セブ島に到着した。
我々はこの時点に至って初めてレイテ島の戦闘の真相を知り結果は大苦戦、大敗戦であった事を知らされたのであった。
思えば二週間前の昨十九年十二月二十七日、セブ市を行軍発起、遅れ走せとは言え主戦場のレイテ島に辿《たど》り着かんものと、五日間に百キロのセブ島東海岸を難行軍は何であったのか。
戦後目にした戦記の示す物の中に、第十四方面軍は十二月二十二日に在レイテ島第三十五軍に自活自戦の指示と、とれる電報を発しているとあった。
話題を本筋に戻そう。警備担当装備の兵団を率いて最激戦の戦線に赴き、軽装備、寡兵《かへい=少人数の兵》をもって最新鋭、優秀装備の大軍に立ち向い、最悪の戦況の責任を一身に背負った老将軍には筆舌に及ばない苦悩があった筈である。この師団長のセブ島に至る一連の動向については、色々な文献、戦記に記述され、なかには否定的、不名誉な表現も見られる。勿論私は敗戦の兵……何ぞ将を語らんや。
この閣下は戦争末期には、このレイテ島早期転進を問われ、戦後には不覚にも戦犯の濡衣《ぬれぎぬ》を押し付けられ、祖国の土を踏むことなく国に殉《じゅん》ぜられたと聞く。
しかし、黄色の将官旗を野戦に立て数多《あまた》の部隊を指揮した親補職の閣下を如何に忽々《そうそう=あわただしいさま》の間とは言え、一衛生一等兵が細帯を施したとは、白日夢にも思える一場面であった。
我々の軍隊は皇軍と呼ばれ、更に光輝あるとか、勇敢、無敵不敗とあらゆる美辞、賛辞が冠せられた。明治建軍以来七十余年、栄光と名誉で綴《つづ》られた軍隊の歴史には、地方市井の一市民や散兵線の一兵らの覗い知らない処に、断片的な我々の想像を絶する、凡そ考えられない真実が気が付かない処々にひっそりと縫い込まれていた事も又事実であると知った。私は偶然にもその影の一場面の立会人となった。 完