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幸次郎伯父の調査 (1) 斉藤 匠司

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/4/21 8:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 私達の一族に幸次郎と名乗る人がいました、彼は昭和20《1945》年3月10日の東京大空襲で行方不明となり、その後幸次郎と名が書かれた遺骨が東京都慰霊堂《注1》に安置されている事を知りました。
 これは本当に幸次郎の遺骨なのか、本人は何処《どこ》に住み、何の仕事をしていて何処でどのようにして亡くなったのか、昭和59年に出来る限りの調査をおこなったが、更に平成19年春、以前に書いた調査書の疑問点を洗い出し、改訂版を作成しました。
 東京大空襲では一晩に10万の人が亡くなった事も遠い記憶となり、当事者もどれだけの人が生きているか、全て過去の闇に包まれようとしています。幸次郎も被災《災害をうける》時死亡した多数の人々同様、歴史にはなにも残らない人でした、しかし我々一族には記憶に残ってはいる人ではあります、そこでこの調査書を作り齊藤一族に配布しました。 
 今回何か一つでも死んだ本人のために残したい、その思いで以下の文章を公開する事にしました。 
  

  文中の理解を助ける為に当時の家族関係を記しておきます。
  
  母斎藤マツ 長男斎藤幸次郎 次男斎藤安三郎 四男斎藤富五郎
  安三郎の姉の子供山本幸雄 
  斎藤美智子 安彦 義隆 和子 何れも安三郎の長女、長男、次男
  次女、 筆者 安三郎の三男で生後すぐ富五郎の長男として入籍

  以上です。


1、 はじめに

 昭和59年(西暦1974年)の夏、所用があって美智子姉に電話した所、昭和20年(西暦1945年)3月10日の東京大空襲の際行方不明のまま死亡したものとされている幸次郎伯父と同名の遺骨が引取者のないままに東京都慰霊堂に安置されているとの話であった、そこで東京都慰霊堂に電話でたずねた所そこの主任より「確かに斎藤幸次郎名の遺骨があり、空襲直後猿江公園に仮埋葬された多数の遺体を3年後掘り出して火葬に付したがその際氏名の判明している遺体については名を記し東京都慰霊堂に安置したものである」との事であった。
 後日東京に用務で出張した際確認をかねて東京都慰霊堂に出向き、同所の主任の特別のご好意で拝観させていただいたが現在の骨壺より大型でまさにぎっしりと言う感じで遺骨がおさめられていた。
 
 私は幸次郎伯父がどのような人であったかは知らず、会ったと言う確かな記憶も無く、全く知らない、第一どこで生活をし、どこで死亡したかも分からないが少なくとも昭和20年3月10日の東京大空襲で行方不明となり、後述する除籍簿では同日、時不明で深川区新大橋3丁目6番地で死亡と届けられている。
 そこで幸次郎伯父の被災時の状況の調査と出来れば遺骨の確認を思い立ったが、なにぶん40年近く前の最も混乱した時代の事ではあり、確証は得られないかも知れないが出来る限りの追求をした結果が以下の記述である。
 なをこの調査に当たっては後述する多数の関係機関と多数の人々のご協力を得て完成したものであり、心から感謝申しあげます。
 
2、 調査方法

 一般的に物事を追求する場合、仮説を立てそれを実験的に追求する方法と、ある事柄、それも古い時代の事柄を当時の文献、記録から調査して事実を証明する方法がある。
 前者の場合は実験結果の分析から仮説が正しいかは判定出来るが後者の場合 はよほどの証拠物件が出ない限り可能性が高くなるだけで断定は出来ない、その良い例として高松塚古墳と太安万侶(オオノヤスマロー日本最古の歴史書古事記の編者ー)の墓を取り上げる、前者は美術史的にも築造年代からも有名で忍壁皇子《おさかべのみこ》の墓であろうと推定はされるが決定は出来ない、何故なら墓のどこにも誰の墓かは書かれていない、後者は遺物と共に「太安万侶」と書かれた墓銘誌(埋葬者の名前が書かれてる)が共に出土したので直ちに決定した。
 幸次郎伯父の調査方法も当時の記録、文献を主としてそれに当時の関係者の聞き取り調査なので結果は推定されても確定は出来ない。

 昭和20年3月10日の幸次郎伯父の行動は全く不明であるが多くの記録を参照するとある程度推定出来る、即ち一個体(個人)の行動は不明でも多数の個体(群衆)の行動が判れば一個体(個人)の行動も推定出来る事になる、以下に参考にした資料及び調査に協力頂いた機関、方々の名を記す
 
 1) 東京大空襲戦災誌 第一巻 都民の空襲体験記録集 3月10日編
 2) 東京大空襲戦災誌 第三巻 軍、政府公式記録集
 3) 東京大空襲記録集(写真集)
    以上三編 東京大空襲戦災誌編集委員会編
         東京空襲をを記録する会刊
 4) 東京大空襲ー昭和20年3月10日の記録
    早乙女 勝元著 岩波新書社刊
 5) 日本の空襲第三巻 東京空襲 
    日本の空襲編集委員会編 三省堂刊
 6) 東京都慰霊堂
 7) 東京都庁都民資料室
 8) 東京都江東区役所市民課
 9) 京都市上京区役所市民課
10)京都法務局戸籍課
11)長崎地方法務局戸籍課
 
12)深川警察署警務課
13)電電公社隅田局
14)京都市 鳴虎《なきとら》報恩寺

15)旧平野警察署警部補 小坂部正己氏 大槻善三郎氏   
16)旧深川区佐賀町一丁目在住 稲垣氏
17)旧深川区佐賀町二丁目在住 朝日奈文子氏
18)旧深川区新大橋三丁目在住 遠藤藤吉氏 遠藤豊之助氏 酒井氏 小野氏 浅野氏

注1 東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)=東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。 1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、1951年に「東京都慰霊堂」と改称した


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/22 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
3、昭和20年《1945》3月10日大空襲の概略《=あらまし》

 来襲B29型爆撃機296機、投下焼夷弾1736トン(一説には1667トン)、当時の東京都29区内に被害、焼失家屋27万戸、被災者約100万人、死者約10万人、傷者約10万人

4、深川地区の空襲の概略ーー以下幸次郎伯父に関連する地域のみ記す、

  当時の深川区は現在の江東区の西半分に当たる。
  深川地区では3月10日午前零時八分木場2丁目に焼夷弾《しょういだん=高熱によって人や建造物などを殺傷・破壊する爆弾》が投下され最初の火災が発生した、空襲警報が発令されたのはそれから7分後の零時十五分である。
  木場2丁目に続き白河町2丁目、三好町1、2丁目付近に火災発生、この線を結ぶ火の流れは烈風にあおられ塩崎町、平久町、古石場《ふるいしば》町、牡丹《ぼたん》町、門前仲町《もんぜんなかちょう》などの南部の火流と合流した。
  一方、千石《せんごく》町、石島町、猿江町1丁目、等の深川東部にも大火災が発生しこれが千石町3丁目、扇町3丁目、住吉町を結ぶ火流と合流してこれらの火炎は深川地区中央部の未延焼地区を挟み打つ形となり更に投下される焼夷
弾と風速12.7メートル(瞬間風速25.7メートル)の風にあおられて深川全域を覆うと共に本所、城東地区の火炎とも合流した、
なお新大橋、常磐町、森下町方面の火災発生は比較的遅かったようで、南部方面、東部方面、の順に出火し北部(本所方面)の火災発生と同時間に焼夷弾が落下し始めたらしい。
  午前二時三十七分空襲警報解除、同三時二十分警戒警報解除、朝七時ごろ深川地区はおおむね鎮火、深川地区の77%が焼失、焼失家屋4万戸、死者3万人、傷者1万7千人以上、被災者14万8800名(警視庁消防部調べ)、これが最も事実に近い数字とされている。
  なを深川地区に隣接して本所区があり、本所区の第3波空襲により深川区との境界の緑町、竪川《=現在は立川》町、柳原町が炎上した。

5、深川地区民の避難指定場所、避難場所、避難方向、避難距離

 1)避難指定場所と避難場所

   高橋各丁、森下町、新大橋各丁、常盤町地区は隅田川、大横川、小名木川に囲まれていてこの地区では八名川国民学校(新大橋3丁目14)、深川国民学校(高橋1丁目3)、高橋国民学校(高橋4丁目8)、隅田工業学校(高橋5丁目2)、新大橋橋上、清澄庭園
(清澄町3丁目6)森下公園(森下町2丁目36)などが避難場所に指定され、また各家庭で独自に避難場所を決めている場合もあった、国民学校が避難場所に指定されていたのは当時殆どが木造建築であったのに対し鉄筋コンクリート造りの学校は安全と見られていたためである。
   以上の国民学校はいずれも全焼し多数の死者が出た、清澄《きよすみ》庭園では殆どの人が助かり森下公園では多数の人が死亡した、新大橋は焼けているが清洲橋《きよすばし》上の人は助かっている。
   深川中南部の木場、冬木町、深川、富岡町、門前仲町、永代《えいたい》町も 二十間川、仙台堀川、大島川、隅田川、大横川などの川に挟まれいる、この地区の人達は臨海国民学校(門前仲町1丁目-10)、明治国民学校(深川2丁目-23)、数矢《かずや》国民学校(富岡町1丁目31)東陽国民学校(東陽町2丁目17)、深川公園(富岡町1丁目29)永代橋などに逃げた。
   この中で明治、数矢両国民学校は焼けずにすみ、校舎は3階迄満員になったが逃げ込んだ人は全員助かった、しかし中に逃げ込めず校庭にいたりプールに入った人々は多数死亡した。
   臨海国民学校に逃げた人達は全滅し、永代橋の上に集まった人達は橋の両側よりの炎が迫り川に飛び込み大勢が死亡した。
    ここで注意したいのは佐賀町1丁目、2丁目の記述が無い事である、詳しくは後述するが佐賀町1丁目、2丁目共に殆ど焼けず、死者も無かったのである。

 2)避難方向と避難距離

   当時の体験者の記録集を調査するとおおむね次のごとくになる、自宅、隣家等が燃え出すまで自宅内か防空壕(自宅庭内か自宅床下、或は町内の)内にいるか消火活動に従事している、これは当時の防空法第八条に「防空上必要ある時はその区域よりの退去を禁止、又は制限する(以下略)」とありこれに違反した時は「一年以下の懲役、又は千円以下の罰金に処す」とあってこれは当時各家庭に配布された「防空必携」にも防火方法と共に記載されてあり、隣組《注1》の常会でも常に防火、消火義務が話されていたためである、そのため自宅周辺か自宅が炎上しはじめと共に避難を始めるのであるがその時には既に火炎に囲まれた形となり予定避難場所に到達出来ぬ場合も多く、避難距離も記録文中の深川地区に関して詳細に調べてみたが平均1.5Km、中には4Km、6Kmと計測できるものもあるが1Km、500mで火に巻かれる例も多い、ちなみに斎藤安三郎一家では厩橋一丁目の北端から東京都震災記念堂に逃げ、この間の直線距離は約2Kmである。
   多数ある記録文中先述の新大橋、常盤町、森下町の三地区の記録の割合は非常に少なく、記録者も新大橋、清洲橋、清澄庭園に避難した人の記録で避難予定の中心地である八名川国民学校への避難記録は見付けられなかった。
   後述するが八名川国民学校に避難した人数は300名程らしい、これは他の国民学校に避難した人が多数であって、各国民学校が焼亡した中で生き残った人の記録が多いのと対照的である、恐らくは前記地区の人は主に東方向に向かったらしいと思われる。
   何故なら電話による調査では八名川国民学校近辺に焼夷弾が落下炎上した為にそちらに行けず東方向に避難したと言う証言がいくつか有るからである。
   なを幸次郎伯父の当夜の行動を知る為に記録文中に偶然通行中に空襲に会い助かったと言う手記を探して見たが皆無であった、ただ服務中に空襲に会い折りを見て自宅に向かう例は幾つかみられた。

注1 隣組=かつて日本にあった制度で、1940年に初めて明文化された。町内会のさらに
下にあり数家庭ごとに一組を組織し、配給の効率化や思想統制を図った。


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/23 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
6、一般住民の死亡状況と遺体存在場所、及びその処理

  一般住民の死亡状況は焼死、溺水《できすい=水没して窒息した》死、及び広義の窒息死に分けらるが勿論これらが複雑にからみあっている事は言うまでも無い。
  日本側の記録には公式、非公式共に遺体解剖の記録は皆無である、これはドイツのハンブルグ大空襲でも約10万人死亡したがその際に多数の遺体解剖をし、そのほとんどが一酸化ガス中毒死(遺体は後で焼け、焼死体に見える)と報告しているのと対称的である。
  日本の記録の中でも学校内、防空壕内で火を避けているうちに眠ってしまったというのが幾つもあるがこれらは、一酸化ガス中毒或は酸欠状態による意識喪失とも考えられる。
  遺体の存在場所は大別すると焼失家屋内、路上とその付近、防空壕、地下室、川、掘り割り《=運河・用水路》等に分けられる。
  その内、屋内(国民学校の焼失した講堂内等)の下積遺体は圧迫死或は窒息死か一酸化ガス中毒による死亡、川、掘り割りでは溺死、凍死等が多くこれらの遺体は損壊が少なく着衣に付けられた名札、或は遺物で氏名が判明している事も多く、その数およそ2万名その内1万名は縁者に引き取られ、残りは警察署指定の公寺院、空き地等に仮埋葬の上氏名を書いた墓標をたて遺体発見場所も公示した、場所によっては氏名を書き取り遺物を取った上遺体を収容し指定場所で火葬にした、なを身元不明の遺体についてはその発見場所、遺体の特徴を記入の上遺物を採取し、これらを公示、展覧している。
  この事については当時平野警察署員として部下を指揮して遺体処理と検屍に当たった小坂部、大槻両氏からも確認する事が出来た、但し全く性別、遺物、身元その他が不明の遺体については発見地のみ記録したとの事である。
 なをこれらの記録書類については深川署に問い合わせたが15年後に全て焼却処分たとの事であった。

7、幸次郎伯父の居住地及び勤務地の検証(なお今後は幸次郎伯父を除き尊称、敬称は略する)
  ここで先ず直接関係者、斎藤一家の記憶を載せる。

 1)安彦(当時19才)

  3月9日夜幸次郎伯父は山本幸雄と共に家に来ていた、2人で帰ったのは夜九時時過ぎだったと記憶している、電話局に勤めていたと聞いている、空襲後父と義隆と何日も手分けして幸次郎伯父を探して歩いた、それこそ心当たりはくまなく探し、被災者の収容所となっていた各学校は勿論、猿江公園にも行った記憶がある、当時幸次郎伯父は佐賀町に住んでいたのは間違いない、父安三郎から佐賀町の家主(又は同居人)に会ったが9日夜から帰っていないと聞かされた、父から幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は当時聞いていない、ただそれから何年か後、父と共に幸次郎の次の字が違う名簿を見たが書かれている推定年令、遺体の特徴から幸次郎伯父ではないかと思った。

  2)美智子(当時24才)

   3月9日の夜幸次郎伯父と山本幸雄が来ていたと言う記憶は無い、戦争のいつごろからか母から幸次郎伯父は住み込みで深川の電話局に勤めになったときかされたのを記憶している、佐賀町の事は全く知らない。

  3)義隆(当時16才)

   3月9日夜10時か10時半頃家に戻った、幸次郎伯父が来ていたとう事は聞いていないが、もし来ていたなら自分が帰る前に帰ったのだと思う、幸次郎伯父は当時新大橋に住んでいると思っていた、佐賀町に住んでいたとは聞いていない、電話局に勤めていたと記憶していたので電話局が新大橋にあったものと思っていた、空襲後父が新大橋付近の事を特に気にしていたのをよく覚えている。
   父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は聞いていない。  

  4)和子(当時13才)

   3月9日の夜幸次郎伯父が山本幸雄と来ていたと言う記憶は無い、普段高橋の伯父さんと呼んでいたと思うが新大橋かも知れない、電話局の事は記憶に無い。
   父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけた、と言う話は聞いていない

  以上をまとめると、記憶が一致するのが電話局に勤めていたらしい事と4人共父親か
ら遺体、遺品、公示された名前その他を聞いていない事である。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/24 7:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 次に記憶が無いという事で(但し義隆は帰宅は遅かったが)3人一致するのが
幸次郎伯父は3月9日の夜来ていたと言う記憶が無い事である。
 では以下に幸次郎伯父の居住地の検証に入る。

   1)高橋方面(和子の記憶による )
   2)深川の電話局(美智子の記憶による)
   3)新大橋方面(義隆の記憶による)
   4)佐賀町方面(安彦の記憶による)
   
   1)については高橋は一丁目から五丁目まで他に情報が無く不明である、高橋地区生存者の記録中に斎藤姓が7名記載されているが7名中死亡は3名、生、死者とも姓、名が明らかであるか年齢、職業上からして別人である、なをこの他には前記の参考資料の中に斎藤姓は見つける事は出来なかった。
     ただ仮に高橋地区に居住していても記録に出て来る限り高橋地区の人達は新大橋方向には避難していない、但《ただ》し新大橋三丁目で死亡と死亡届けにあるのでこれが真実ならばその方向に避難しその地点付近で死亡しても距離(最大3Km)からしてうなずけるし、逆方向(砂川方面)に避難中に死亡して猿江《さるえ》公園に仮埋葬されたとしても無理は無いと思はれる。

   2)については現在の電電公社隅田局に問い合わせた所、当時昭和14年開設の中央電話局深川分局が深川二丁目にあったが無人局で男子技術者が2名常駐して保守点検にあたっていたがもし幸次郎伯父が雇《やとわ》われていたとしたら守衛と考えられるが、当日勤務の技術職員2名の氏名を含めて記録は何も残されていないとの返事であった。
     ただしこの深川の分局は焼け残り深川地区2丁目の生存者の手記にも「主人は近所の人7人と電話局に避難して助かった」と記されている、なを現隅田局は焼けて死者も出たがこれらの氏名は判っていてその中に幸次郎伯父の名前は無い。         以上の事から幸次郎伯父が当夜分局に勤務し職務義務上避難していなければ存命のはずであり、もしそこより避難したとしたら距離的に新大橋3丁目迄到達した可能性は少なく、避難途次《=途中》死亡したとすればその遺体は猿江公園ではなく、東陽公園、東陽町2丁目の空き地、深川公園に収容されていたと推定される、何故なら深川、木場方面の人は越中島《えっちゅうじま》、東雲《しののめ》町等の海岸地帯を目指して避難し、およそ1~2Km以内で多数死亡しているからである。
          3) については新大橋は一丁目から三丁目迄あるが義隆の記憶にはその何処に住んでいたかは覚えていない、だだ後の死亡地の検証で述べるがもし新大橋に住んでいたとしたら新大橋三丁目六番地、即ち死亡届地届に記載されている可能性もある。

   4)について、安彦の記憶する佐賀町は一丁目と二丁目とに分れていたがその殆どは空襲の被害を免れている、ここでよほど注意しなければならないのは引用している文献、記録集は全て焼亡の記録ばかりで焼け残った地区ついての記録が無く、僅かにその地区にのがれた人の記録の中に散見《=あちこちにみえる》するだけである、それ故佐賀町に住んでいた人の記録は皆無である。
    佐賀町一丁目、二丁目については当時そこに住んでいて状況を知る稲垣、朝比奈両氏に電話で尋ねたが両氏共佐賀町一帯には焼夷弾は一発も落ちず、ただ隅田川の船が炎上しその火の粉で倉庫の一部と家屋数軒が焼けただけで死者は一名も出なかったとの答えであった。
    これは風向きも幸いしたらしい、それを裏付ける資料として深川二丁目に住んでいた人が炎の中を突っ切って佐賀町の倉庫に逃げ込み助かったと言う記録がある、因《ちなみ》に佐賀町一帯は倉庫の多い所である。
    もし安彦の記憶通り幸次郎伯父が佐賀町に居住していたとしたら、深川の電話局にも近いし父安三郎が被災後家主(又は同居人)に会うのも容易であったはずである、そして3月9日夜から戻っていないという事と電話局にも同夜勤務していないらしいのでこれは同夜10時近くまで安三郎宅に来ていたと言う安彦の記憶にも繋がってくる、ただ佐賀町の居宅が焼けていないとすれば、そして家主に会ったとすれば幸次郎伯父の遺品整理はどうしたのか4人の記憶 が無いので疑問が残る。     それについては被災後は焼け跡には無事と連絡先を教える立て札が立てられていた事は当時よく皆知る事であり、幸次郎伯父は例えば新大橋付近に居住し、家主の住居は佐賀町にあったとすれば、安三郎は佐賀町迄尋《たず》ねて行って幸次郎伯父の消息は掴め《つかめ》なかった事も納得出来るし、遺品などが無い事の説明もつく。
    家主の言うその夜は帰っていなかったと言う話は一つは家主が九日夜所用で幸次郎伯父の借家(またはアパート)に来ていて空襲が始まるより前に佐賀町に戻った、これでも当夜帰っていなかったとの説明はつくし或は家主自身空襲時避難し、後親類等を頼って佐賀町にいたとも考えられる、となれば佐賀町に居住していたかどうか疑問にも思える。
    以上考えられる4カ所の居住地について考えたが可能性のあるの新大橋か佐賀町であろう、今後は両者併せて考えて見たい、ただ人間の記憶は40年近くたてばうすれがちであり10年前に発刊された記録集では明らかな記憶違いが随所に見受けられる、またこのような文献のみの調査ではとかく調べる者に都合の良いものを選びがちでいわゆる『我田引水』《がでんいんすい=自分につごうよく》に落ち入りやすいものである、よって今後はその点に留意して読んで頂きたい。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/25 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 8、幸次郎伯父の死亡地の検証

   京都市上京区の報恩寺にある斎藤家過去帳には「斎藤幸次郎 昭和20年3月10日死亡 行年57才 戒名 瑞峰幸道禅定門 と記載さている、一方 斎藤幸次郎除籍簿には昭和20年3月10日時不詳東京都深川区新大橋三丁目六番地にて死亡 昭和20年3月30日同居人母斎藤マツ届出 受理とあり文題は死亡地届、発行人は平野警察署長となっている。

   ここで死亡地の検証を試みるのは上記の文を見れば何処《どこ》にも不審を見いだせ無い様だが実は幾つかの疑問を感じるからである。
   第一に死亡届け人が「同居人、母齊藤マツ」となっている事、マツは当初安三郎宅に居住し空襲の激化に伴い被災の数ヶ月前に京都の末子富五郎宅に転居している、被災と幸次郎伯父の死亡(または行方不明)の連絡は京都にも届いていたとは思われるが死亡届けを出したのは恐らく後述する様に安三郎であろうし、第一マツ自身が届けを出しに行ける様な健康状態で無かった事は確かである。

   次に普通死亡した場合には「死亡届」(死亡地届ではない)としこれに死亡診断書、変死が疑われる時には死体検案書《注1》その他が付されるものである。   
     幸次郎伯父の「死亡地届」は平野警察署から本籍地の京都上京区役所に回送され、更に京都地方法務局に移管されこの原本は今も同法務局に保管されていた、これには死体検案書、死亡診断書は付されていない、死亡地届(死亡届ではない)の意味について問い合わせた所現在の一般的な法律上では発行されていない形式で意味不明と回答であった、恐らく空襲後の多数の遺体の全ての検案は出来ず、死亡のみを確認しこのような形となったのではと推測される。

   これについては以下の記録(電話による問い合わせの答え)が参考になる。   空襲当時旧平野警察署は焼けずにすみ、鎮火
直後から外勤主任3名が管内を3っに分け、検屍に当たっていたがその内の二人大槻《おおつき》警部補と小坂
部警部補の話を聞く事が出来た。
   大槻警部補の話では当時の平野署長の指示もあって出来る限り遺体の身許が判る様努力したと言う、氏名の判明している遺体に
ついては氏名、性別、推定年齢、死亡場所(町名、地番地)を書き取り遺物を採取したと言う、また氏名の判明しない者にについては
氏名以外は全く同じ事をし、全く何も判らない者については死亡場所のみ控えておいて遺体処理にあたったと言う、この大槻警部補と
その部下の担当区域内に新大橋三丁目が含まれていた、この遺体処理については別方向を担当した小坂部警部補も同じ事を回答してい
る。

   これらの物件等は署に持ち帰り、氏名は紙に書き公示し、遺物は署内(留置所内)に展示された。
   遺体処理も進み、軍隊が出動するとともに遺体は公園、空き地、その他に埋葬されたがその際も氏名の判明しているものは墓標
に書き、遺体発見場所は紙に書いて貼ったり口頭で答えたと証言している。
   そして遺族が死者名、遺物を発見した場合、遺族の証言に従って死亡を確認したが書類は別の署員の担当なので死亡届と書いた
か死亡地届と書いたかは記憶に無いとの事である。

   以上の話を信ずるならば大槻警部補かその部下の誰かが幸次郎伯父の遺体を発見し、記録しておいたのは間違いないなく、その
場所、「深川区新大橋三丁目六番地」が幸次郎伯父の死亡地と断定して良いと思われる。

   ここで新大橋三丁目六番地について考えて見たい、この場所は八名川国民学校からおよそ60~80m北側にあたる(但し電話調査で
あり実証はしていない)、当時新大橋三丁目は電車通りをはさみ砂川方向に向かって右側、八名川《やながわ》国民学校側が偶数番地、左側が奇数番地となっていた、そしてこの付近の避難場所は新大橋橋上、清澄庭園、そして八名川国民学校である。
   注意しておきたいのは「新大橋三丁目六番地」とあると六番地の路上か同番地の宅地内かと思われるが必ずしもそうでは無い、
その一例を上げる。
   「昭和20年3月10日午前2時ごろ深川区東陽町三丁目三番地において死亡、須崎警察署長代理 鈴木実報告」、これは当時の都庁の職員の妻の死亡報告であるが空襲時夫は消火活動に残り、妻には避難場所を指示して別れている、そのまま妻は行方不明となり避難場所にも見当たらないので教えておいた避難路にそって探していた所、避難場所に近い「川中」で2日後妻の遺体を発見したのである、この間約2Kmである。

   新大橋三丁目六番地であるが本所区竪川《たてかわ》の千歳川から常盤町南端の小名木川までの間に六
間堀《ろっけんぼり》川と称する川が流れていてこれが新大橋三丁目の偶数番地東端から八名川国民学校のそ
ばを通っている、当時の地番迄記した地図が見つからないので断定は出来ないが幸次郎伯父の遺体がこの川から引き上げられた可能性は十分にある、ただし火に追われて川中に入ったのであろうから潮の関係で実際の死亡地はこの地点よりすこし上、下流の可能性はあるしこの番地にあった防空壕、防火用水おけ内かも知れない、いずれにせよその遺体は氏名が判る状態であった事は間違いなく、その後遺体は猿江公園に運ばれ仮埋葬されたものであろう、なを記録によれば路上の遺体は比較的早く処理されたが川中の遺体は相当長期間の間、何体ずつか浮上し続けたと記されている。

   最後に当時新大橋三丁目十二番地で歯科医を開業していた浅野医師の話(電話による聞き取り)の一部をのせる。

   私の住んでいた十二番地から、六番地は道を隔てた向こう側になるはずだが齊藤幸次郎と言う人は知らない、当時自分は歯科医
であったが他の開業医2名と共に救護医として空襲の時は八名川国民学校に詰める事になっていた、当夜は空襲警報が鳴る前から火の手が上がり、石川島《いしかわじま》方面、本所方面、砂川方面が大きく燃えていた。
   近くの風呂屋に焼夷弾《しょういだん》が落下し炎上し始めた(この風呂屋の事は他の人も同じ話をしている)、妻に先に学校に行く様に言い、自宅が燃え始めたので自分も学校に行った、当時の八名川国民学校は1階 2教室だけが暗室用にかガラス窓の外に鉄製の窓が取り付けられて来ていたが他の医師2名は来なかった、その内学校の周りの建物が燃え始め危険と思われたので、私が指揮して隣の八名川公園に避難し、火が収まる迄地に伏していたがは死者は一人も出なかった、学校は3階より燃え始め結局前述の2教室を除き全焼した。
   自分としては八名川国民学校に避難した人の生命を助けたのは私の指揮によるものと信じている。
   以上であるがその他には全記録中に八名川国民学校に避難した記録は見い出せ無かった。

   もう一つの疑問は安三郎(届け人はマツとなっているが実質は安三郎に間違い無いであろう)が何故空襲後20日で死亡届けを出
したかと言う事である。
   先述の大槻、小坂部両警部補の話、記録中にある平野警察署長の手記によればあの惨状にも関わらず遺体が家族に確認出来る様
に最大限の努力を払っているが他方、全く何の証拠も無い遺体(例えば白骨状態で何の遺物(所持品)が無い場合には家族の自宅の焼
け跡であっても申し出通りに認める事はしていない、何故なら殆《ほとんど》どの人が自宅炎上時に逃げ出しているので他の人がそこで死亡している可能性が高かったからだと言う、
例えば9日夜、幸次郎伯父と共に安三郎宅に来ていた山本幸雄(安三郎の姉の子)も空襲後行方不明になったが幸雄の自宅の防空壕の中で発見された、ただ全く身許の判別つかない遺体だったので幸雄本人かは判らず、後日尋ねて来た家族は壕の土を持って帰ったと聞かされている。

   安三郎と安彦が精力的に10日近くも探しているにも関わらず、本人は現れず、怪我《けが》をしていたとしても何処にも収容されていないとすればあの状況下では死亡したとしか考えざるを得ないであろう。
   ただ死亡届を出すにしても遺体等が無ければ法的にも受け付けられないのは確かである、少しそれるがここで氏名が判っていな
がら遺体が本人かどうか確認出来なかった例をあげる

   当時の警視庁の埋葬記録では猿江《さるえ》公園の被埋葬者数は3月15日現在10259名、これは他の埋葬地菊川公園4515名、中和公園3850名に比して圧倒的に多い、この他は1000名以下である、そして仮埋葬者はほとんどが墓標が立てられ、姓名の判明している者は名が書かれていた様である、記録の中で避難中父と弟が大横川川中で行方不明となり、近所の人の話から5日後猿江公園で両名と同名の墓標を見つけたが、一度埋葬したものは3年間掘り出しを禁じると警察官に制止され、そのまま引き返したと言う話がある。

   この人は偶然齊藤姓だったのでこの人を探し出して斎藤幸次郎名を見なかったかどうか聞きたかったが連絡は取れなかった。
   この3年間禁止令は後2件記録に現れ、内1件は隅田公園の事であるが後で夜密かに掘り出し、遺体を確認の上髪の毛だけを入手したとある、ただこの3年間の禁止令については大槻、小坂部両警部補共記憶に無いとの事であり、墓標中に近親者の名を見いだした時に掘り返しを認めたかについては大槻警部補は認めたといい、小坂部警部補は遺族が多くキリが無いので認めなかったと言っている。

   元に戻るが安三郎の場合、安彦と共に何日間も捜査したにも関わらず本人は現れず、また負傷していたとしても何処にも収容さ
れていないとすれば、あの状況下では死亡したのではと考えるのは当然である、後で軍隊が遺体収容に当たる様になって遺体収容が少
しずさんになったと記録にはあるが少なくとの警察は身許が確認される様努力していたのは確実である。

   ここで気になるのが安彦と安三郎が数年後公開名簿で齊藤幸次郎の幸の字が他の字であるが推定年齢、身体特徴が酷似《こくじ=そっくり》しているのを見いだした事である。
   もし空襲後の捜査中に安三郎が平野警察署、或は猿江公園等でこの名前を見ていたとすれば(しかも確認の掘り出しは認められ
ないとすれば)、そして遺品、遺物も無ければ名簿上の記載に従って死亡の書類を申請し、死亡届を出したのではと推測したくなる、
この絶対的な確認が出来ない事で安三郎は安彦、義隆、美智子、和子には話さなかったのであろうし、後年安彦と2人で名簿を見に行った事も安三郎にとっては再確認の意味があったのかも知れない。

   ただこれはあくまで仮説であって安三郎の心情を勝手に推測するのは憚《はばか》れるし、更に他の推
測も成り立つであろうし、それが出来るのは安三郎の近くにいて普段の心情、行動を知る人々であろう、ただこのように考える以外誰
も教えられていない理由の説明が困難であるのと義隆の記憶とも結びつくのである。

注 死体検案書=医師の診察を受けずに死亡した者について、死亡を確認して医師が出す証明書


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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/26 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  9、幸次郎伯父の空襲当時の行動の推定

   幸次郎伯父の居住地が何処か、佐賀町については家主は被災後佐賀町にいても住居は他の所である可能性が大である、何故なら被災《=災害にあう》していない佐賀町から遺品、遺物を安三郎が持って来ていない事からも推測出来る、恐らく新大橋か高橋方面であったのではないかと思われる。
   安彦の記憶によれば山本幸雄と幸次郎伯父は遅くとも10時ごろには帰ったのであり、その後山本幸雄宅に寄ったかどうかは不明
であるが義隆の指摘によれば幸雄宅は石原町で安三郎宅からは徒歩約10分石原町から新大橋まではかなりの距離があるとの事で都電を
利用したかも知れない、他方安彦の指摘によれば幸次郎伯父は徒歩か自転車を利用する事が多かったとの事である。
   この都電であるが昭和16年12月の使用済み東京市電(当時)の乗車券の系統図によれば厩橋一丁目から新大橋、門前仲町(永代橋)方面に行くには少なくとも2系統はあり直通系統があった様である、もし幸次郎伯父が都電を使用していたら確実に空襲以前に新大橋方面(佐賀町であっても)の自宅に戻っていたであろう、それに空襲は午前0時8分からであり走行中の都電はなく、記録上も都電車庫内の炎上の記録はあるが走行中の都電が炎上した記録はない。
   もし幸雄宅に寄った場合、幸雄宅をいつ出たかが問題になるが10時半に一度警戒警報が出され、30分程で解除されているのでその間だとすると新大橋の自宅に帰る前後に空襲が始まった事になる。
   自転車、徒歩であってもまっすぐ新大橋方面の自宅に帰ったとしたら空襲開始時には就寝していたかも知れない。
   焼夷弾の投下が始まり、空襲警報が鳴り、或は自宅の炎上と共に外に出たであろうが後は推測する余地さえ無くなる、八名川国民学校に行こうとしたが八名川国民学校そばの風呂屋の炎上に伴い南下を諦め電車通りを東上して猿江公園か江東区境の強制疎開地を目指したかと思われる。 
   なぜ電車通りかという理由は当時避難する人々は自然発生的に大通りを目指しており、まだ燃えていない町並みの小路でも殆ど
人気が無かったと言う記録が随所に見受けられる、実際炎上する家の間を逃げるには大通りの方がまだしも逃げやすく、また多数の人々が流れて行く方向について行くのは心理上無理からぬ事である。
   ここで新大橋三丁目の当時の居住者への電話聞き取り調査による次の証言をのせる。
   その一人は警防団員が八名川国民学校は危険だから竪川方面に逃げる様指示していたと語り、他の人は八名川国民学校に避難の予定が学校近くの風呂屋に焼夷弾が落ちて炎上し、行く手を阻《はば》まれたので猿江公園を目指したが菊川橋上で大混乱となり、大横川に飛び込んで助かったが沢山の人が川中で死亡したと証言している。
   新大橋一~三丁目、森下町、清澄町、常磐町の生存者は新大橋、清洲橋、又は清澄庭園に避難して助かっている、また北方向、本所方面に逃げた人々は中には総武線のガード下(両国ー錦糸町間)約5Kmに迄達した人もあるが殆どの人はそれ以前に火に挟まれ家族の何人かを亡くしている。
   しかし幸次郎伯父の場合はいくらも行かぬうち菊川町方面からの避難者との合流(鉢合わせ)による大混乱と炎上する家屋群の中で川に火をさけたか落ちたのであろう、
もしかしたら道路そばの防空水槽かも知れないし、防空壕《=空襲のときに避難するため、地中に造った穴》
に入ったかも知れない、その場所は新大橋三丁目六番地である。
   もし高橋方面なら近くに避難所として前述の深川国民学校、高橋国民学校、墨田工業学校があり、森下公園も近くなので新大橋三丁目で遺体が発見される理由が判りにくい、ただ高橋各町の南端は小名木川に接しているのでその川中で死亡し、その遺体は潮の流れにより六間堀川まで流れたとも考えられる。
   もし佐賀町地区であれば厩橋《うまやばし》から佐賀町は直線で約7Km、実際はもっとあったであろうから幸次郎宅に寄っていたとすれば徒歩では空襲前に自宅に帰るのは少し困難であったろう、となればどの経路を取ったかは全くわからないが総武線のガード下を通り抜け、竪川にかかる橋も渡り終えていたかその近くに来ていたと仮定すると丁度この付近で空襲第一波の投弾を見ていたかも知れない、新大橋、高橋方面は比較的炎上が遅く、竪川方面は投弾され炎上し、深川区の、深川、木場方面も投弾炎上し始めたとすれば暗い方向(新大橋方面)に逃げ惑う多数の人々と共に押し流されて行ったとも考えられるし、火炎から六間堀川に難を避けようとしたと推測出来る余地はある。       
   いずれにせよ氏名等が判る遺体状況で恐らく大槻警部補かその部下により遺体確認を受け、猿江公園に仮埋葬されたと思われる。
  

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/27 7:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  10、東京都慰霊堂に安置されている遺骨は幸次郎伯父のものと断定できるか。

   高橋各町、新大橋各町付近の遺体の殆どが猿江公園に仮埋葬《かりまいそう》されたという公式記録、それと前記大槻警部補の証言からも幸次郎伯父の遺体は猿江公園に仮埋葬されたのはほぼ間違いなく、その後3年後に水江公園で火葬後収骨され東京都慰霊堂に移され現在に至っている、この斎藤幸次郎名義の遺骨が幸次郎伯父の遺骨と断定出来る資料は一切無い。
   私が見た東京都慰霊堂にある「氏名の判明していて近親者の見つからない名簿」のサ行には斎藤姓は以外に多く、その中には「斎藤マツ」、「斎藤富五郎」まで見いだす事が出来た、我々に関して言えばこの2名は幸次郎伯父の母親と弟であり、被災当時は京都に住まいし健在であった事は良く知っている、となれば同姓同名の異人の遺骨の疑いも捨てきれない、名簿をみた限り斎藤幸次郎名はこの一名で幸の字の異なった斎藤幸0郎名があった記憶は無い、何時の日か安三郎が申し出て訂正したのであろうか、しかしそれでは近親者と認める事になる、それと幸次郎の次の字はこれで良いのだろうか、兄弟皆安三郎、多四郎、富五郎と皆漢数字である、しかし除籍簿、戒名《注1》帳では次の字になってはいる、しかし本来は次では無く「二」であるとすれば前の事柄と符合してくるのだが、とにかく疑問が多いのは事実である。

注1 戒名=死者に対して与えられる法名      
  
   11、結論
                             
    1)幸次郎伯父の居住地の確定は出来なかった、恐らくは新大橋各丁、または高橋各丁内ではと推測される、ただし佐賀町である可能性も残る。

    2)幸次郎伯父の死亡地の確定は出来なかった、公式書類は東京都深川区新大橋三丁目六番地と記載されている、となれば六間堀川中から引き上げられた可能性は高いし、実際の死亡地はも少し上、下流の可能性もある、しかし他の場所である可能性も残る。

    3)幸次郎伯父の遺骨と断定出来るものは何も無い、ただ同姓同名または同姓異字名の遺骨が東京都慰堂内に存在する。

   12、総括《=全体をとりまとめて締めくくること》

     昭和20年3月10日東京都深川区新大橋地区、または高橋地区の何れかに居住していた斎藤幸次郎は勤務先の中央電話局深川分局を当日非番かまたは休み、何らかの所用で本所区厩橋の弟、斎藤安三郎を山本幸雄と2人か偶然別々に訪れ、夜9時30分から10時頃の間に辞去し、山本宅を訪れたかは不明ではあるが徒歩、自転車、又は都電にて帰宅、恐らくは就寝中に(住居地が佐賀町であれば通行中に)大空襲に会い周囲炎上中行方不明となり、後日東京都深川区新大橋三丁目六番地(恐らくは六間堀川川中)にて遺体として発見された。
     その後遺体は猿江公園に仮埋葬され、3年後水江公園にて火葬、遺骨は東京都慰霊堂内に「氏名の判明していて近親者の見つからない遺骨」として安置された。


  13、最後に

   幸次郎伯父の人となりについては全く知らない、ただ実直な人だったそうで、その時、その時の状況に応じて機敏に対処する性格の多い斎藤一族にあっては珍しい性格の人だった様である。
   その性格が災いして多くの人が逃げる方向に押し流されて行ったのではなかろか。
   考えればあの時電話局が休みでなかったら、新大橋、清洲橋方向に逃げていたら、八名川国民学校に避難していたら----恐らく助かっていたであろう、本当に不幸な人であったと思う。
   この調査については随分多くの人に電話で問い合わせたが全ての人が熱心に調査し、回答頂いた、改めて感謝申し上げます。

    付 平成19年4月の改訂について

    最初にこの調査書を書いたのは昭和59年(1974年)でその時は幸次郎伯父の居住地を佐賀町ではと考えていたが遺品、遺物の無い事、それと死亡届が遺体の確認をしたと言う話をだれも聞いていないのに早く出されている事が気になり何か釈然とはしなかった。
    たまたま今年(平成19年)3月10日の新聞の小さな欄に東京大空襲の事が書かれていてこれを機会に考え直して見たのがこの改訂版である。
    あの大空襲で約10万の人が亡くなり、齊藤一族も2名が犠牲になったと言う事実ももうすぐ忘れ去られるであろう、この文章も何時まで残るかは判らないが取りあえずは書いたと言う事に満足感は残る、全ては推測であり正しいかどうかは判らないが何かほっとした気がします、これが私の今の感想です。

            平成17年(2007年)4月8日
                     記  斎藤匠司

 (完)

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編集者 (代理投稿)

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