東村山 ふるさと昔語り はじめに
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- 東村山 ふるさと昔語り その9 (編集者, 2007/7/4 7:42)
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投稿日時 2007/7/4 7:42
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
供出・農地解放
秋津の古老に聞く
農 耕
O俺たちの畑は今の青葉町まで広がっていたな。秋津下組では、終戦のころの耕地は四十町歩(一町歩は約一ヘクタール)。農家は五十四戸だった。
小作地が多かったな。
○耕作規模は下組は小さかった。大農、大きな農家といえば久米川や大岱(恩多町)なんかだったな。
O農家五十四戸は、当時八班に分けてな。終戦前後、甘諸(さつま芋)や陸稲も麦も統制でね。
(※)供出の割当も大変だった。八班がそれぞれ供出するのに、農業会へ持って行った。供出に使う空俵も農業会を通して購入するんだ。
※供出=民間の物資や食糧を政府に決まった価格で
さし出すこと。
○戦時中、作物の代金は反歩に対して前金渡しなんですよ。私ら各班の金を預っててね。責任がありますから、防空壕に保管しておいてね。
防空壕を出たり入ったりしてね。お金分だけの作物ができないときがあったな。甘諸の供出は澱粉工場行きが多かった。容易でなかったな。澱粉工場は野口にあってな、廻田境のところよ。
○供出に使う空俵だが、ここに控えがある。終戦の年の二十年。みんなで三三七七俵、二十一年
は二三八四俵、二十二年には三二七〇供、翌二十三年は六〇九七俵とある。一俵は五円たった。参考に叺《かます》は二十七円、筵《むしろ》は一枚二十六円だった。二十三年ごろになると生産も次第に増えてきたな。
○戦時中のことだが、防空壕《空襲から身を護る壕》保管も大変だったね。
一円、二円と細かいことで何回も出たり入ったりでね。農業会の事務の方と一緒にやったけど、現金が先に来ちゃうん(前金)だね。野菜もこれだけ作ってもらいたいといって代金が先に来るんだ。
○養蚕《ようさん》は大分やったことはやったんですけど下組は規模は小さい方だった。久米川や野口は大きい方だったね。
○終戦後の二十一年の秋に例の(※)農地改革が行われてね。地主は大分農地をとられたね。一反が二百五十円から三百円だった。我が物であって、我が物でないと言われてね。
※農地改革…第二次世界犬戦後、耕作者の地位の安
定と増産を目的として行われた改革で、地主所有
の小作地を政府が買い上げ小作人に売り渡した。
農地開放。
Oそう言われればそうだが、先祖が一生懸命丹精したことを考えると涙が出ますよ。まあ仕方がないことだが。
○一番大きい開放は武藤さん(秋津町一1六)のところだね。今の芳男さんのところだが。ご先祖は明治のころ戸長をなされていた。武藤家十代目の仙太郎じいさん(明治四十年没)は、立派な人だったといわれた。
久米川の古老に聞く
小作はつらい
O小作《農地を地主から借りて農業を行なう》というものはつらくてね。だから目傭とりばかりしてね、小作に出す所はいい畑は貸さねえからね。肥料も満足に買えないし、だから作も悪いしとれないですよ。これじゃ、しようがないと思って兵隊から帰って来て所沢の(※)陸軍航空学校(飛行場)へ勤めたんです。野際じゃ川島卯太郎さんと自分だけでね。勤め者は相手にされないですよ、百姓もしないで、勤めはものぐさもん(無精者)だっていうわけでね。
※陸軍航空学校・:大正八年(一丸一九)
所沢飛行場内に創設。
のち陸軍士官学校分校、航空技術学校から
航空整備学校へと変遷を繰り返した。
○でも、蓮見さんとこじゃ、おばあさんがしょっちゅう畑仕事をやっていたわね。
Oまあ、家の分ぐらいはね。それとね、二瀬川の所で九年ばかり商売をやりましたよ。寿司やったり団子やったりね。すぐそばに「上州屋」っていう大福屋があって、夏にはかき氷もやってたね。
○あの時分の飛行場の日給は一円と十五銭かね。日曜は休むから一か月三十円ですね。
○じゃ、日傭とりよりいいですね。
O勤めは降っても照ってもあります。決まっているからいいですよ。でも学校へいっていないから、上にはなかなかあげられないでね。そうかといって辞めれば食うことができないからね。とうとう終戦まで二十五年間勤めました。大正十年の五月に入ってね、その年の一月からかね。共済組合って年金。あれができてね。ちょうどよかったですよ。終戦後は立川の進駐軍へ入ったんですが言菓がわからなくて蹴飛ばされたりしてね。昭和二十二年に安井誠一郎さんが東京都知事になってからは、駐留軍の仕事をしているけれど名目は都の職員ということでね。
秋津の古老に聞く
農 耕
O俺たちの畑は今の青葉町まで広がっていたな。秋津下組では、終戦のころの耕地は四十町歩(一町歩は約一ヘクタール)。農家は五十四戸だった。
小作地が多かったな。
○耕作規模は下組は小さかった。大農、大きな農家といえば久米川や大岱(恩多町)なんかだったな。
O農家五十四戸は、当時八班に分けてな。終戦前後、甘諸(さつま芋)や陸稲も麦も統制でね。
(※)供出の割当も大変だった。八班がそれぞれ供出するのに、農業会へ持って行った。供出に使う空俵も農業会を通して購入するんだ。
※供出=民間の物資や食糧を政府に決まった価格で
さし出すこと。
○戦時中、作物の代金は反歩に対して前金渡しなんですよ。私ら各班の金を預っててね。責任がありますから、防空壕に保管しておいてね。
防空壕を出たり入ったりしてね。お金分だけの作物ができないときがあったな。甘諸の供出は澱粉工場行きが多かった。容易でなかったな。澱粉工場は野口にあってな、廻田境のところよ。
○供出に使う空俵だが、ここに控えがある。終戦の年の二十年。みんなで三三七七俵、二十一年
は二三八四俵、二十二年には三二七〇供、翌二十三年は六〇九七俵とある。一俵は五円たった。参考に叺《かます》は二十七円、筵《むしろ》は一枚二十六円だった。二十三年ごろになると生産も次第に増えてきたな。
○戦時中のことだが、防空壕《空襲から身を護る壕》保管も大変だったね。
一円、二円と細かいことで何回も出たり入ったりでね。農業会の事務の方と一緒にやったけど、現金が先に来ちゃうん(前金)だね。野菜もこれだけ作ってもらいたいといって代金が先に来るんだ。
○養蚕《ようさん》は大分やったことはやったんですけど下組は規模は小さい方だった。久米川や野口は大きい方だったね。
○終戦後の二十一年の秋に例の(※)農地改革が行われてね。地主は大分農地をとられたね。一反が二百五十円から三百円だった。我が物であって、我が物でないと言われてね。
※農地改革…第二次世界犬戦後、耕作者の地位の安
定と増産を目的として行われた改革で、地主所有
の小作地を政府が買い上げ小作人に売り渡した。
農地開放。
Oそう言われればそうだが、先祖が一生懸命丹精したことを考えると涙が出ますよ。まあ仕方がないことだが。
○一番大きい開放は武藤さん(秋津町一1六)のところだね。今の芳男さんのところだが。ご先祖は明治のころ戸長をなされていた。武藤家十代目の仙太郎じいさん(明治四十年没)は、立派な人だったといわれた。
久米川の古老に聞く
小作はつらい
O小作《農地を地主から借りて農業を行なう》というものはつらくてね。だから目傭とりばかりしてね、小作に出す所はいい畑は貸さねえからね。肥料も満足に買えないし、だから作も悪いしとれないですよ。これじゃ、しようがないと思って兵隊から帰って来て所沢の(※)陸軍航空学校(飛行場)へ勤めたんです。野際じゃ川島卯太郎さんと自分だけでね。勤め者は相手にされないですよ、百姓もしないで、勤めはものぐさもん(無精者)だっていうわけでね。
※陸軍航空学校・:大正八年(一丸一九)
所沢飛行場内に創設。
のち陸軍士官学校分校、航空技術学校から
航空整備学校へと変遷を繰り返した。
○でも、蓮見さんとこじゃ、おばあさんがしょっちゅう畑仕事をやっていたわね。
Oまあ、家の分ぐらいはね。それとね、二瀬川の所で九年ばかり商売をやりましたよ。寿司やったり団子やったりね。すぐそばに「上州屋」っていう大福屋があって、夏にはかき氷もやってたね。
○あの時分の飛行場の日給は一円と十五銭かね。日曜は休むから一か月三十円ですね。
○じゃ、日傭とりよりいいですね。
O勤めは降っても照ってもあります。決まっているからいいですよ。でも学校へいっていないから、上にはなかなかあげられないでね。そうかといって辞めれば食うことができないからね。とうとう終戦まで二十五年間勤めました。大正十年の五月に入ってね、その年の一月からかね。共済組合って年金。あれができてね。ちょうどよかったですよ。終戦後は立川の進駐軍へ入ったんですが言菓がわからなくて蹴飛ばされたりしてね。昭和二十二年に安井誠一郎さんが東京都知事になってからは、駐留軍の仕事をしているけれど名目は都の職員ということでね。