東京っ子の戦中・戦後 その1 (けんすけ)
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- 東京っ子の戦中・戦後 その1 1 (けんすけ) (編集者, 2007/7/15 7:30)
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投稿日時 2007/7/15 7:30
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
PW
昭和23年?(詳しいことは全然覚えていない)戦死したはずの従兄《いとこ》が帰ってきた。
背中にPWと白ペンキで書かれた、丈の長い外套を着て、なにやら荷物を持って、脚をちょっと引きずって。
PWは PRISONER OF WAR すなわち捕虜のことである。
従兄はあのサイパン島で、戦死をしたと言う公報があって、奥さんと男の子一人は、従兄の実家に世話になっていた。
今になってみると、生前にもっと詳しく話しを聞いておけばよかったと後悔しているが、断片的に、彼から聞いた話を書いてみる。
昭和19年7月、サイパン島の日本軍は玉砕《ぎょくさい=名誉などに殉じて、いさぎよく死ぬ》した。民間人の多くが崖から飛び降りて自殺した。
あのサイパン島で彼は生き残ったのである。
肩と脚に銃弾を受けて、歩くことの出来なかった彼は、最後の総攻撃にも参加することが出来なかった。
戦闘の済んだ後、隠れていた彼が一番困ったのが、のどの渇きだったようだ。
自分の小便も飲んだと云っていた。
海岸に出て海の水でも飲もうと、いざって(彼は確か“のうずって”と言う言葉を使ったと思うが、そんな言葉があるのか広辞苑を引いたが載っていなかった)いるところを、ジープ《馬力が強く第二次大戦中に米軍に使用した小型車》に乗った米軍兵士に見つかってしまった。
「島民、島民」と彼は言ったらしい。軍人でなければ殺されないだろうと思ったからだ。
米兵は血に汚れたズボンを切り開いて、傷口にわいている蛆《うじ》を自分ではらえという仕草をした。
捕虜になったら殺されると言う教育を受けていた彼はわけがわからず、蛆をはらった。
傷口の手当てをした米兵は、ジープに乗れという、〈どこかに連れてゆかれて殺されるのか〉と思ったと言っていた。
その後手厚い看護を受け、やがて飛行機でアメリカ本土へ運ばれた。
我が親戚中で飛行機に乗ったのは彼が一番早かったのだ。
日本兵の捕虜を集めた収容所でも寛大な扱いを受けたらしい。
冬の収容所は石炭ストーブで暖を取っていたようで、「どうせ敵の物資だ、どんどん使ってしまえ」ということで、ストーブに石炭をどんどんくべて、暑くて裸になって、それでも我慢して石炭を燃やし続けた。
石炭が無くなったと申し出ると、ダンプカーですぐに持ってきて、石炭置き場に山と積んでくれる。これを何度も繰り返し、結局捕虜の方が根負けをしたようです。
隣、と云っても離れていたようですが、イタリーの捕虜収容所があって、或る晩、そこから歌が聞こえてきた、負けずにこっちが日本の歌を歌う。あちらも負けずと歌う。この歌合戦は続いたようです。
ある日、一人の捕虜の発案で、庭に日の丸の旗を立てようとした、これは許されなかったそうです。
国 旗を立てると言うことは、そこを占領したことになるから駄目だと。
東京の空襲で焼け野が原になった航空写真を見せられた。自分の住んでいた家の跡まではっきり写っていて、戦争に負けたことを実感した。
以上。
これまでわたしの日記に書いてきたような、わたし自身の体験談ではありませんので、そこをお含み置きの上でお読みください。
(返信1)
戦陣訓という、戦時下における将兵の心得の中に、「生きて虜囚《りょしゅう=とらわれびと》の辱めを受けず」と言う言葉があって、捕虜になるくらいなら死ねと教わっていた。また、鬼畜《きちく=残酷で、無慈悲な行いをする》米英と言う言葉があって、捕まったら必ず殺されると教えられていた。
サイパン島の崖から女性たちが海に飛び込んで行くのを写したフィルムがあります。
捕まったら殺されると教え込まれていました。
だから、従兄も何時殺されるか、どこで殺されるかだけ考えていたようです。
(返信2)
日本とのあまりの違いに、これは勝てるわけないと思ったようです。
手厚い看護を受けたので、本土に移された頃は殺されるとは思わなかったようです。
(返信3)
ソビエトに連れて行かれた人達が一番ひどい目に遭っています。
蒋介石《しょうかいせき=中華民国の政治家、軍人》の中国も、紳士的だったようです。
ただ、勝てば官軍《注1》で、戦後の裁判は一方的なところがあったと思います。
アメリカに住んでいた日本人が強制的に収容されましたが、 これは戦後大分たってから、補償されたのでしたね。
(返信4)
レーションと言う言葉を知りませんでした。
辞書にありました。兵士の1回分の糧食。
全然国力が違っていたのですね。無理な戦争をやりました。
或る方向に転がりだすと、止まらなくなるのですね。
今、なんだか、転がりだそうとしているような感じですが、
よほどうまく方向を定めないと、とんでもない方向に行ってしまうかも知れません。
(返信5)
アッツ島《注2》ですか、これまた奇跡ですね。
アッツ島の戦闘の歌、良く歌いました。
今ところどころしか思い出せないな。
たしか、山崎大佐でした、指揮官は。ここも玉砕ですからね。
注1 勝てば官軍=道理はどうあれ強い者が正義者となるというたとえ。
注2 アッツ島=アリューシャン列島西端の火山島 太平洋戦争の激戦地
昭和23年?(詳しいことは全然覚えていない)戦死したはずの従兄《いとこ》が帰ってきた。
背中にPWと白ペンキで書かれた、丈の長い外套を着て、なにやら荷物を持って、脚をちょっと引きずって。
PWは PRISONER OF WAR すなわち捕虜のことである。
従兄はあのサイパン島で、戦死をしたと言う公報があって、奥さんと男の子一人は、従兄の実家に世話になっていた。
今になってみると、生前にもっと詳しく話しを聞いておけばよかったと後悔しているが、断片的に、彼から聞いた話を書いてみる。
昭和19年7月、サイパン島の日本軍は玉砕《ぎょくさい=名誉などに殉じて、いさぎよく死ぬ》した。民間人の多くが崖から飛び降りて自殺した。
あのサイパン島で彼は生き残ったのである。
肩と脚に銃弾を受けて、歩くことの出来なかった彼は、最後の総攻撃にも参加することが出来なかった。
戦闘の済んだ後、隠れていた彼が一番困ったのが、のどの渇きだったようだ。
自分の小便も飲んだと云っていた。
海岸に出て海の水でも飲もうと、いざって(彼は確か“のうずって”と言う言葉を使ったと思うが、そんな言葉があるのか広辞苑を引いたが載っていなかった)いるところを、ジープ《馬力が強く第二次大戦中に米軍に使用した小型車》に乗った米軍兵士に見つかってしまった。
「島民、島民」と彼は言ったらしい。軍人でなければ殺されないだろうと思ったからだ。
米兵は血に汚れたズボンを切り開いて、傷口にわいている蛆《うじ》を自分ではらえという仕草をした。
捕虜になったら殺されると言う教育を受けていた彼はわけがわからず、蛆をはらった。
傷口の手当てをした米兵は、ジープに乗れという、〈どこかに連れてゆかれて殺されるのか〉と思ったと言っていた。
その後手厚い看護を受け、やがて飛行機でアメリカ本土へ運ばれた。
我が親戚中で飛行機に乗ったのは彼が一番早かったのだ。
日本兵の捕虜を集めた収容所でも寛大な扱いを受けたらしい。
冬の収容所は石炭ストーブで暖を取っていたようで、「どうせ敵の物資だ、どんどん使ってしまえ」ということで、ストーブに石炭をどんどんくべて、暑くて裸になって、それでも我慢して石炭を燃やし続けた。
石炭が無くなったと申し出ると、ダンプカーですぐに持ってきて、石炭置き場に山と積んでくれる。これを何度も繰り返し、結局捕虜の方が根負けをしたようです。
隣、と云っても離れていたようですが、イタリーの捕虜収容所があって、或る晩、そこから歌が聞こえてきた、負けずにこっちが日本の歌を歌う。あちらも負けずと歌う。この歌合戦は続いたようです。
ある日、一人の捕虜の発案で、庭に日の丸の旗を立てようとした、これは許されなかったそうです。
国 旗を立てると言うことは、そこを占領したことになるから駄目だと。
東京の空襲で焼け野が原になった航空写真を見せられた。自分の住んでいた家の跡まではっきり写っていて、戦争に負けたことを実感した。
以上。
これまでわたしの日記に書いてきたような、わたし自身の体験談ではありませんので、そこをお含み置きの上でお読みください。
(返信1)
戦陣訓という、戦時下における将兵の心得の中に、「生きて虜囚《りょしゅう=とらわれびと》の辱めを受けず」と言う言葉があって、捕虜になるくらいなら死ねと教わっていた。また、鬼畜《きちく=残酷で、無慈悲な行いをする》米英と言う言葉があって、捕まったら必ず殺されると教えられていた。
サイパン島の崖から女性たちが海に飛び込んで行くのを写したフィルムがあります。
捕まったら殺されると教え込まれていました。
だから、従兄も何時殺されるか、どこで殺されるかだけ考えていたようです。
(返信2)
日本とのあまりの違いに、これは勝てるわけないと思ったようです。
手厚い看護を受けたので、本土に移された頃は殺されるとは思わなかったようです。
(返信3)
ソビエトに連れて行かれた人達が一番ひどい目に遭っています。
蒋介石《しょうかいせき=中華民国の政治家、軍人》の中国も、紳士的だったようです。
ただ、勝てば官軍《注1》で、戦後の裁判は一方的なところがあったと思います。
アメリカに住んでいた日本人が強制的に収容されましたが、 これは戦後大分たってから、補償されたのでしたね。
(返信4)
レーションと言う言葉を知りませんでした。
辞書にありました。兵士の1回分の糧食。
全然国力が違っていたのですね。無理な戦争をやりました。
或る方向に転がりだすと、止まらなくなるのですね。
今、なんだか、転がりだそうとしているような感じですが、
よほどうまく方向を定めないと、とんでもない方向に行ってしまうかも知れません。
(返信5)
アッツ島《注2》ですか、これまた奇跡ですね。
アッツ島の戦闘の歌、良く歌いました。
今ところどころしか思い出せないな。
たしか、山崎大佐でした、指揮官は。ここも玉砕ですからね。
注1 勝てば官軍=道理はどうあれ強い者が正義者となるというたとえ。
注2 アッツ島=アリューシャン列島西端の火山島 太平洋戦争の激戦地
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