特攻基地知覧 ( 羊 )
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- 特攻基地知覧 ( 羊 ) (編集者, 2007/8/15 7:36)
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投稿日時 2007/8/15 7:36
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(はじめに)
この投稿は、メロウ倶楽部会員内部交流用の掲示板に掲載されたものを、ご本人の了解を得て転載させていただいたものです。 (メロウ伝承館スタッフ)
少年の日の思い出(序章)
今年もまた終戦記念日がまぢかになりました。前年、所沢雑学大学《注1》の獅子王《=ニフテイサーブでのハンドルネーム》さんから羊の知覧特攻基地の体験講演依頼がありましたが、羊には暗い、嫌な記憶なのでとお断りしてきました。
ところが連絡室「集中ゼミ室」新しいテーマ、募集中で、変蝠林《へんぷくりん=ハンドルネーム》大先輩曰く
> 嫌な記憶はあなたのもの。
> 祖国の後輩に真実を語り継ぐのは先輩のセキニンです。
> 恥も誇りも併せて語り継ぐのは今や時間との競争ですよ。
たくさんの特攻に関する著書、映画が世に出ていますが、16才少年の生の記憶を75才の現在、埋没しないうちに拙文で記録しておくのも意義ある事と思い書くことにしました。
特攻基地知覧《注2》 少年の日の思い出(2)
年明けの昭和20年沖縄戦間近になると本土沿岸に接近した米機動部隊からの艦載機《軍艦に積載された飛行機》の波状攻撃《=何回にもわたってくりかえす攻撃》が始まりました。
飛行場空襲はロケット弾と機銃掃射《=敵をなぎたおすように射撃する》で徹底的にやられましたが、我が軍の残り少ない飛行機は上手く隠された援護壕《=敵の攻撃から守るためにつくった堀》に温存され、たまには護衛戦闘機隊(戦隊)疾風《はやて》も本土から飛来し敵機との空戦もありました。
一方学校は鹿児島県立川辺中学校に転校、空襲の激しくない日は通学するも授業は無く、竹槍担いでの米軍上陸に備えての軍事訓練と、横穴陣地の構築と、航空燃料代わりになる松根油、松の根を山に伐採に出かける毎日でした。
ある日、薩南半島の遥か《はるか》南支那を見渡せる山頂から、高く立ちのぼる真黒い煙を見ました。それは後で聞いたところによると、特攻戦艦大和轟沈《ごうちん=艦船が爆撃を受けて1分以内に沈む》最後の光景だったのです。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(3)
3月桜咲く頃から沖縄に向けての特攻作戦が開始され、中学生、女学生は早朝から特攻兵士の見送りに動員され、飛行場に近い羊は何回も出かけました。
若い少年飛行兵達は真白いマフラーをつけ、手折った満開の桜で身を飾り、軍刀一振り腰に挿し、片道燃料だけの帰りの無い旅に飛び立って行きました。女学生も我々も手が痛くなるほど打ち振り皆泣いていました。
彼等は決死の旅立ちの前のひと時、父の関係で我が家にも良く立ち寄ってくれました。
実は30才代だった母は大の洋楽好きで、レコードをこっそり持ち込み、手回し蓄音器で楽しんでいました。
何処で聞いたのか音楽好きの隊員が集まるようになりました。母も喜んで一生懸命彼等をもてなし、彼らの常連は旅立ち前の数日、昼は母の音楽喫茶、夜は近くの「とめおばさん」の富屋食堂と最後のコースが決まっていた様でした。
彼らのリクエストの多かった曲はショパンのノクターン、チャイコフスキーのアンダンテカンタービレ、ビゼーのカルメン、ベルディの椿姫等が記憶に残っています。
彼等の全ては壮烈《=勇ましく立派な》な戦死を遂《と》げたとのことでしたが、中に羊と仲の良かったAさんはエンジン故障で何回も引き返され、生き延びられたのです。
戦後お会いする機会があり、残酷な苦しい生き残りの話をうかがい胸にせまる思いをしました。特攻戦も末期、飛行機が無くなり赤とんぼ《=愛称》練習機まで出撃していました。
それも爆弾を機体に固定し、取外し不能とした人間爆弾もあったとの事です。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(4)
米艦載機はわがもの顔に朝から日没まで飛び回りロケット弾、機銃掃射はし放題でした。
隣の薩南工校は臨時陸軍病院になり、毎日大勢の戦死者と負傷者が運びこまれてきました。
トラックはバラバラの死体が一杯で、消火栓の水で血を洗い流すのが間に合いません。悲惨、残酷な地獄絵です。その後死体はガソリンで一括焼却されたとの事です。 合掌
余りにも地獄絵図の世界の連続なので、ここで話題を変え、父の部隊生活に少し触れたいと思います。
経理小隊の父の下に新潟出身の望月軍曹、当番兵の恵郷上等兵、他兵士が数名配属されていたと記憶しています。
恵郷さんには可愛がられ、ある時などは彼の鹿児島市内への公用外出にコッソリ同行、戦災前の天文館通りで芋汁粉をご馳走になった甘い記憶があります。帰宅後、不良少年羊が父からこってり油を絞られたことは当然です。
又ある時は父の小隊のある飛行場の三角兵舎《注3》に連れて行って貰い、何やらご馳走になりました。この三角兵舎(勿論戦後再建)と同じ場所で平成10年特攻平和会館訪問の際再会しました。
地下壕の上に三角屋根を架《か》けて薄暗い、黴《かび》臭い当時再現の状態にタイムスリップしたかのようで、特攻隊員の暮らした場所の思い出に浸《した》り、涙が止まらない状態になりました。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(5)
昭和20年の5月のある日、軍から敵機動部隊接近のため民間人は今夜中に出来るだけ遠方に退避せよとの緊急避難命令が出ました。緊急事態のため父も応援にこれないとのことでした。
何時も野菜の買出しに出かける山一つ越えた部落の農家と電話連絡をとり、了解が取れ少しホットしました。取あえずの身の回りの用品、寝具、炊事用品、食料と妹二人のスペースを確保出来る大きい大八車《だいはちぐるま=注4》も何とか調達出来、またまたホットしましたがこれは苦難の始まりでした。
真っ暗な曲がりくねった山道を母の照らす提灯《ちょうちん》の薄明かりの先導で、大八車を引っ張るのですが、とにかく重いのです。
中学2年で大柄の羊はフウフウ言いながら何とか休みながらも前進あるのみです。
同じ避難民の明かりが人魂《ひとだま》のように後ろから延々と登って来ます。東の空が明るくなる頃約10時間かけて現地到着です。
差し入れのお握り《おにぎり》を食べて死んだように眠りに落ちました。
翌朝まで家族全員眠りこけ、目覚めた頃軍から連絡あり、敵接近は誤報とのことで、翌日早速とんぼ帰りで知覧の自宅に引き返す事になりましたが、この辺りの事はあまりの疲労で残念ながら記憶が定かでありません。
特攻基地知覧 被爆 (6)
当時軍国少年で航空少年の羊は大の飛行機ファン、終戦が数年遅れれば少年飛行兵で特攻戦死したに違いありません。
その日は朝から五月晴れの空に、珍しく数機の飛燕《ひえん=旧日本陸軍の戦闘機》と米艦載機の空中戦が展開されていました。手に汗にぎり時間の経つのを忘れ立ち尽くしていました。空襲慣れした羊は毎度の如く、白シャッに鉄帽なしのリラックススタイルでの空戦見物でした。
ところが突如2機のグラマンが急降下して来ました。パイロットの顔が見えるまで降下してきて、機銃の第一波の弾幕《=多数の弾丸が発射されて幕のようになった》が側を通過していきました。流石に震え上がり、近くの蛸壺壕《たこつぼごう=兵士一人用の壕》を探しましたがかなり先にしかありません。
暫くして第二波が今度はロケット弾と機銃掃射《機関銃の銃口を動かし、敵をなぎ払うように射つ》のダブル攻撃です。なにか凄い熱い鉄棒でガーンと全身を殴られた感覚が最後で後の記憶はありません。
仮死状態の羊は無限の暗い空間を何処までも落ちていく感覚を覚えています。
きっと死の世界へとまっしぐらだったのかも知れません。
かなり離れた防空壕にいた母と妹達は、近くが凄《すご》い攻撃を受けて、お兄ちゃんはもう駄目かと諦めたそうです。波状攻撃の合間、沢山の死体、負傷者がごろごろ転がっているなかに、母は背中から血を噴水の様に噴出してぶつ倒れている瀕死《ひんひ》の羊を発見したそうです。
父のお陰でなんとか陸軍病院に担ぎ込まれ、大量出血の危機を大量輸血でなんとか免れ、一旦行ったあちらの世界から戻る事が出来ました。
右足に二発の機銃弾、背中にロケット弾の破片を被弾し、足、背中ともあと数ミリの差で致命傷だったとの事です。
背中は前年に発病した脊髄《せきずい》動静脈奇形の脊髄箇所とこれも数ミリの差とは何かの因縁《いんねん》を感じます。
病院入院と言っても毎日が空襲警報下、直接攻撃を受けた際は近くの横穴壕に退避です。
担当の女学生が一々車椅子に抱き上げ機銃弾の下を退避させてくれます。
被爆以前は恐怖心を全然感じなかった羊は少しの攻撃でもガタガタ震え上がり、お姉さん看護婦に叱られる始末です。
特攻基地知覧 被爆(続) (7)
空爆に明け暮れる毎日、病院生活はまさに横穴生活でした。看護婦のKさんは高女3年、1年先輩の綺麗《きれい》なお姉さん、小柄でしっかり者、負傷後いつも気弱で弱虫の羊めを励ましてくれました。たまには怒鳴られる事もありました。
若さもあり、手厚い介護を受け傷は日増しに回復してきましたが、戦局は沖縄戦が終盤を迎え、知覧基地は敵機の蹂躙《じゅうりん=ふみにじる》に任せ、基地としての機能は完全に麻痺していました。
飛行場を破壊した敵機は本土上陸に備え、今度は爆撃で陣地破壊にでてきました。腹に響くドーン、ドーンという破壊音の日が続き、沢山の死傷者が病院に運び込まれてきました。
父からの軍情報は本土決戦間近、敵放送から日本は負けるかもしれないとの暗い話題だけです。
特攻基地知覧 撤退《てったい》 (8)
破壊された飛行機と穴だらけの滑走路以外なにも無い基地に撤退命令が突然出されました。
撤退先は熊本市の比較的被害の少ない健軍飛行場です。第一陣は傷病兵、家族、スタッフ部門でした。トラック、バス、各種車両編成で出発、空襲を避けての夜間走行です。
「さらば知覧よ、又来るまでは」の合唱で知覧の町に別れを告げ、日本の敗戦を間近に実感し皆で泣きました。昼はトンネルに退避したり、山に逃げ込んだり、夜だけの走行で二昼夜かけてやっと熊本県八代《やつしろ》にたどり着くことができたのです。
以上で特攻基地知覧での体験思い出は終わりますが、60年前の思い出したくない暗い記憶と、75歳の記憶力減退で忘れていく記憶の狭間《はざま=すきま》にあって語り継ぐことこそが残された羊めの務めと考え拙文を記させて頂きました。
とにかく悲惨な戦争はもう厭です。こりごりです。沢山の若者の尊い死で築き上げた日本の平和と繁栄が永遠に続く事を祈り、8月15日終戦記念日を前に筆を置きます。
長い間ご愛読有難う御座いました。出来ましたら短文で結構ですので読後コメントを頂ければ幸甚《こうじん》です。
注1 所沢雑学大学=「市民による市民のための生涯学習による新しいコミニュテイの構築」を目的とした任意団体 設立1997年8月
注2 特攻機地知覧=鹿児島県の知覧に昭和16年12月に大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。
沖縄戦の特攻攻撃では、知覧基地を主軸に出撃した。
注3 三角兵舎=当時、知覧飛行場周辺の松林の中に散在していた。半地下式の木造のバラック建てで、屋根の上に大きな木が横倒しになり擬装されていた。屋根だけを下に置いたような形で建てられていたので、三角兵舎と呼ばれていた。
注4 大八車=江戸時代から使用され始めた、大きな荷物や、重量のある荷物を運ぶために使われる総木製の人力台車
この投稿は、メロウ倶楽部会員内部交流用の掲示板に掲載されたものを、ご本人の了解を得て転載させていただいたものです。 (メロウ伝承館スタッフ)
少年の日の思い出(序章)
今年もまた終戦記念日がまぢかになりました。前年、所沢雑学大学《注1》の獅子王《=ニフテイサーブでのハンドルネーム》さんから羊の知覧特攻基地の体験講演依頼がありましたが、羊には暗い、嫌な記憶なのでとお断りしてきました。
ところが連絡室「集中ゼミ室」新しいテーマ、募集中で、変蝠林《へんぷくりん=ハンドルネーム》大先輩曰く
> 嫌な記憶はあなたのもの。
> 祖国の後輩に真実を語り継ぐのは先輩のセキニンです。
> 恥も誇りも併せて語り継ぐのは今や時間との競争ですよ。
たくさんの特攻に関する著書、映画が世に出ていますが、16才少年の生の記憶を75才の現在、埋没しないうちに拙文で記録しておくのも意義ある事と思い書くことにしました。
特攻基地知覧《注2》 少年の日の思い出(2)
年明けの昭和20年沖縄戦間近になると本土沿岸に接近した米機動部隊からの艦載機《軍艦に積載された飛行機》の波状攻撃《=何回にもわたってくりかえす攻撃》が始まりました。
飛行場空襲はロケット弾と機銃掃射《=敵をなぎたおすように射撃する》で徹底的にやられましたが、我が軍の残り少ない飛行機は上手く隠された援護壕《=敵の攻撃から守るためにつくった堀》に温存され、たまには護衛戦闘機隊(戦隊)疾風《はやて》も本土から飛来し敵機との空戦もありました。
一方学校は鹿児島県立川辺中学校に転校、空襲の激しくない日は通学するも授業は無く、竹槍担いでの米軍上陸に備えての軍事訓練と、横穴陣地の構築と、航空燃料代わりになる松根油、松の根を山に伐採に出かける毎日でした。
ある日、薩南半島の遥か《はるか》南支那を見渡せる山頂から、高く立ちのぼる真黒い煙を見ました。それは後で聞いたところによると、特攻戦艦大和轟沈《ごうちん=艦船が爆撃を受けて1分以内に沈む》最後の光景だったのです。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(3)
3月桜咲く頃から沖縄に向けての特攻作戦が開始され、中学生、女学生は早朝から特攻兵士の見送りに動員され、飛行場に近い羊は何回も出かけました。
若い少年飛行兵達は真白いマフラーをつけ、手折った満開の桜で身を飾り、軍刀一振り腰に挿し、片道燃料だけの帰りの無い旅に飛び立って行きました。女学生も我々も手が痛くなるほど打ち振り皆泣いていました。
彼等は決死の旅立ちの前のひと時、父の関係で我が家にも良く立ち寄ってくれました。
実は30才代だった母は大の洋楽好きで、レコードをこっそり持ち込み、手回し蓄音器で楽しんでいました。
何処で聞いたのか音楽好きの隊員が集まるようになりました。母も喜んで一生懸命彼等をもてなし、彼らの常連は旅立ち前の数日、昼は母の音楽喫茶、夜は近くの「とめおばさん」の富屋食堂と最後のコースが決まっていた様でした。
彼らのリクエストの多かった曲はショパンのノクターン、チャイコフスキーのアンダンテカンタービレ、ビゼーのカルメン、ベルディの椿姫等が記憶に残っています。
彼等の全ては壮烈《=勇ましく立派な》な戦死を遂《と》げたとのことでしたが、中に羊と仲の良かったAさんはエンジン故障で何回も引き返され、生き延びられたのです。
戦後お会いする機会があり、残酷な苦しい生き残りの話をうかがい胸にせまる思いをしました。特攻戦も末期、飛行機が無くなり赤とんぼ《=愛称》練習機まで出撃していました。
それも爆弾を機体に固定し、取外し不能とした人間爆弾もあったとの事です。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(4)
米艦載機はわがもの顔に朝から日没まで飛び回りロケット弾、機銃掃射はし放題でした。
隣の薩南工校は臨時陸軍病院になり、毎日大勢の戦死者と負傷者が運びこまれてきました。
トラックはバラバラの死体が一杯で、消火栓の水で血を洗い流すのが間に合いません。悲惨、残酷な地獄絵です。その後死体はガソリンで一括焼却されたとの事です。 合掌
余りにも地獄絵図の世界の連続なので、ここで話題を変え、父の部隊生活に少し触れたいと思います。
経理小隊の父の下に新潟出身の望月軍曹、当番兵の恵郷上等兵、他兵士が数名配属されていたと記憶しています。
恵郷さんには可愛がられ、ある時などは彼の鹿児島市内への公用外出にコッソリ同行、戦災前の天文館通りで芋汁粉をご馳走になった甘い記憶があります。帰宅後、不良少年羊が父からこってり油を絞られたことは当然です。
又ある時は父の小隊のある飛行場の三角兵舎《注3》に連れて行って貰い、何やらご馳走になりました。この三角兵舎(勿論戦後再建)と同じ場所で平成10年特攻平和会館訪問の際再会しました。
地下壕の上に三角屋根を架《か》けて薄暗い、黴《かび》臭い当時再現の状態にタイムスリップしたかのようで、特攻隊員の暮らした場所の思い出に浸《した》り、涙が止まらない状態になりました。
特攻基地知覧 少年の日の思い出(5)
昭和20年の5月のある日、軍から敵機動部隊接近のため民間人は今夜中に出来るだけ遠方に退避せよとの緊急避難命令が出ました。緊急事態のため父も応援にこれないとのことでした。
何時も野菜の買出しに出かける山一つ越えた部落の農家と電話連絡をとり、了解が取れ少しホットしました。取あえずの身の回りの用品、寝具、炊事用品、食料と妹二人のスペースを確保出来る大きい大八車《だいはちぐるま=注4》も何とか調達出来、またまたホットしましたがこれは苦難の始まりでした。
真っ暗な曲がりくねった山道を母の照らす提灯《ちょうちん》の薄明かりの先導で、大八車を引っ張るのですが、とにかく重いのです。
中学2年で大柄の羊はフウフウ言いながら何とか休みながらも前進あるのみです。
同じ避難民の明かりが人魂《ひとだま》のように後ろから延々と登って来ます。東の空が明るくなる頃約10時間かけて現地到着です。
差し入れのお握り《おにぎり》を食べて死んだように眠りに落ちました。
翌朝まで家族全員眠りこけ、目覚めた頃軍から連絡あり、敵接近は誤報とのことで、翌日早速とんぼ帰りで知覧の自宅に引き返す事になりましたが、この辺りの事はあまりの疲労で残念ながら記憶が定かでありません。
特攻基地知覧 被爆 (6)
当時軍国少年で航空少年の羊は大の飛行機ファン、終戦が数年遅れれば少年飛行兵で特攻戦死したに違いありません。
その日は朝から五月晴れの空に、珍しく数機の飛燕《ひえん=旧日本陸軍の戦闘機》と米艦載機の空中戦が展開されていました。手に汗にぎり時間の経つのを忘れ立ち尽くしていました。空襲慣れした羊は毎度の如く、白シャッに鉄帽なしのリラックススタイルでの空戦見物でした。
ところが突如2機のグラマンが急降下して来ました。パイロットの顔が見えるまで降下してきて、機銃の第一波の弾幕《=多数の弾丸が発射されて幕のようになった》が側を通過していきました。流石に震え上がり、近くの蛸壺壕《たこつぼごう=兵士一人用の壕》を探しましたがかなり先にしかありません。
暫くして第二波が今度はロケット弾と機銃掃射《機関銃の銃口を動かし、敵をなぎ払うように射つ》のダブル攻撃です。なにか凄い熱い鉄棒でガーンと全身を殴られた感覚が最後で後の記憶はありません。
仮死状態の羊は無限の暗い空間を何処までも落ちていく感覚を覚えています。
きっと死の世界へとまっしぐらだったのかも知れません。
かなり離れた防空壕にいた母と妹達は、近くが凄《すご》い攻撃を受けて、お兄ちゃんはもう駄目かと諦めたそうです。波状攻撃の合間、沢山の死体、負傷者がごろごろ転がっているなかに、母は背中から血を噴水の様に噴出してぶつ倒れている瀕死《ひんひ》の羊を発見したそうです。
父のお陰でなんとか陸軍病院に担ぎ込まれ、大量出血の危機を大量輸血でなんとか免れ、一旦行ったあちらの世界から戻る事が出来ました。
右足に二発の機銃弾、背中にロケット弾の破片を被弾し、足、背中ともあと数ミリの差で致命傷だったとの事です。
背中は前年に発病した脊髄《せきずい》動静脈奇形の脊髄箇所とこれも数ミリの差とは何かの因縁《いんねん》を感じます。
病院入院と言っても毎日が空襲警報下、直接攻撃を受けた際は近くの横穴壕に退避です。
担当の女学生が一々車椅子に抱き上げ機銃弾の下を退避させてくれます。
被爆以前は恐怖心を全然感じなかった羊は少しの攻撃でもガタガタ震え上がり、お姉さん看護婦に叱られる始末です。
特攻基地知覧 被爆(続) (7)
空爆に明け暮れる毎日、病院生活はまさに横穴生活でした。看護婦のKさんは高女3年、1年先輩の綺麗《きれい》なお姉さん、小柄でしっかり者、負傷後いつも気弱で弱虫の羊めを励ましてくれました。たまには怒鳴られる事もありました。
若さもあり、手厚い介護を受け傷は日増しに回復してきましたが、戦局は沖縄戦が終盤を迎え、知覧基地は敵機の蹂躙《じゅうりん=ふみにじる》に任せ、基地としての機能は完全に麻痺していました。
飛行場を破壊した敵機は本土上陸に備え、今度は爆撃で陣地破壊にでてきました。腹に響くドーン、ドーンという破壊音の日が続き、沢山の死傷者が病院に運び込まれてきました。
父からの軍情報は本土決戦間近、敵放送から日本は負けるかもしれないとの暗い話題だけです。
特攻基地知覧 撤退《てったい》 (8)
破壊された飛行機と穴だらけの滑走路以外なにも無い基地に撤退命令が突然出されました。
撤退先は熊本市の比較的被害の少ない健軍飛行場です。第一陣は傷病兵、家族、スタッフ部門でした。トラック、バス、各種車両編成で出発、空襲を避けての夜間走行です。
「さらば知覧よ、又来るまでは」の合唱で知覧の町に別れを告げ、日本の敗戦を間近に実感し皆で泣きました。昼はトンネルに退避したり、山に逃げ込んだり、夜だけの走行で二昼夜かけてやっと熊本県八代《やつしろ》にたどり着くことができたのです。
以上で特攻基地知覧での体験思い出は終わりますが、60年前の思い出したくない暗い記憶と、75歳の記憶力減退で忘れていく記憶の狭間《はざま=すきま》にあって語り継ぐことこそが残された羊めの務めと考え拙文を記させて頂きました。
とにかく悲惨な戦争はもう厭です。こりごりです。沢山の若者の尊い死で築き上げた日本の平和と繁栄が永遠に続く事を祈り、8月15日終戦記念日を前に筆を置きます。
長い間ご愛読有難う御座いました。出来ましたら短文で結構ですので読後コメントを頂ければ幸甚《こうじん》です。
注1 所沢雑学大学=「市民による市民のための生涯学習による新しいコミニュテイの構築」を目的とした任意団体 設立1997年8月
注2 特攻機地知覧=鹿児島県の知覧に昭和16年12月に大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。
沖縄戦の特攻攻撃では、知覧基地を主軸に出撃した。
注3 三角兵舎=当時、知覧飛行場周辺の松林の中に散在していた。半地下式の木造のバラック建てで、屋根の上に大きな木が横倒しになり擬装されていた。屋根だけを下に置いたような形で建てられていたので、三角兵舎と呼ばれていた。
注4 大八車=江戸時代から使用され始めた、大きな荷物や、重量のある荷物を運ぶために使われる総木製の人力台車
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編集者 (代理投稿)