『肉声史』 戦争を語る
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- 『肉声史』 戦争を語る (71) (編集者, 2007/10/26 8:05)
- 『肉声史』 戦争を語る (72) (編集者, 2007/10/27 8:11)
- 『肉声史』 戦争を語る (73) (編集者, 2007/10/28 17:22)
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- 『肉声史』 戦争を語る (77) (編集者, 2007/11/4 8:02)
- 『肉声史』 戦争を語る (78) (編集者, 2007/11/5 7:29)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「技(運転)は身を助く」
湯河原町 柏木 孝平(大正10《1921》年)
(あらすじ)
昭和16年5月徴兵検査。17年1月9日に小田原駅集合、大阪へ。宇品港《広島港の通称》から釜山港へ行き、釜山から包頭へ到着。騎兵14連隊へ入る。内務班に入り、初年兵教育を受けた。
自動車中隊だったので自動車の操縦教練が主だった。私は内地で運転手をしていたので助かった。18年2月には初年兵教育係となった。初年兵の落ち度は私の責任となり、3年兵からビンタされた。「今に見ておれ。貴様より早く昇格してやる」と軍務に励んだ。
19年3月に兵長に進級。3月下旬、自動車等を貨物に乗せて包頭を出発し石家荘へ。そこで「もう生還できないかも」と爪と髪を切って提出しろと言われたが、私は出さなかった。4月中頃、石門を出発し黄河《=水が黄濁しているのでいう中国第2の大河》を渡り、洛陽へ。第2次洛陽攻撃の準備にかかり、総攻撃をかけた。戦闘は勝利をおさめた。ある時、敵状情視察に行った同年兵について行ったら、スモモを食べながら待っている敵が見えた。次の瞬間、別の兵がひざを撃たれて、ものすごい出血。ゲートルを切って鉢巻で止血したが、1升位血が溜まっていた。戦車に乗せて野戦病院に送ったが死亡した。その兵は、朝から中国の強い酒、アルコール度45度もあるのを飲んでいたから出血が止まらなかった。その酒で車が動かせる位だった。
その時も「とにかく下がろう」と30m先の一軒家へ逃げ込んだ。敵は1列に並んでスモモ食べながら待っている。射手を呼んで機関銃を撃った。日本の機関銃は30連発だが、突っ込みといって10発位で弾が詰まることがある。その時も撃てなくなった。でも後でそこへ行ったら3人位死んでいて、私達はそこに落ちていたスモモを頬張った。
(お話を聞いて)
柏木さんは現役兵で騎兵として出兵されたそうです。柏木さんのお話の中で、自動車免許証がすごく人生を運命付けているように感じました。入隊する数年前に気軽な気持ちで受けた運転免許試験に合格し、入隊後配属されたのが騎兵で馬に乗るものだとばかり思っていたら、自動車の運転だったのこと、すごく助かったといっておられました。芸は身を助けるといいますが、まさにこれだと思いました。
新兵教育の話し、隊での話し、いろいろな話の中で、軍隊というのは、なんと理不尽な組織あるなと感じました。何かあれば殴る、制裁をする、それに反発すればそれ以上の制裁を科す。柏木さんもよく殴られたよと笑いながらお話くださいました。
戦闘に参加された話しもお聞きしました、戦車を操縦していて地雷を踏んで飛び上がったとか危ない目に何度か会われたそうです。また同郷の知り合いと戦地で行軍中に合い一寸言葉を交わしたがその後、その方は戦死されたとのことで、はかなさを感じました。
終戦になって家に戻って仕事を探し始めた時に、また運転免許証が役に立ち運送の仕事に就くようになり、ご自身で運送会社を興すまでになられました。
柏木さんの戦争体験から現在にいたるまで、一枚の自動車免許証が常に御守札のようについてこられたように思いました。苦しい体験の中、自分の持つ特技や技能を生かし賢明に現状と対峙され乗り越えられてきた生き方に共感しました。
(聞き手 匿名 昭和3《1928》年生)
湯河原町 柏木 孝平(大正10《1921》年)
(あらすじ)
昭和16年5月徴兵検査。17年1月9日に小田原駅集合、大阪へ。宇品港《広島港の通称》から釜山港へ行き、釜山から包頭へ到着。騎兵14連隊へ入る。内務班に入り、初年兵教育を受けた。
自動車中隊だったので自動車の操縦教練が主だった。私は内地で運転手をしていたので助かった。18年2月には初年兵教育係となった。初年兵の落ち度は私の責任となり、3年兵からビンタされた。「今に見ておれ。貴様より早く昇格してやる」と軍務に励んだ。
19年3月に兵長に進級。3月下旬、自動車等を貨物に乗せて包頭を出発し石家荘へ。そこで「もう生還できないかも」と爪と髪を切って提出しろと言われたが、私は出さなかった。4月中頃、石門を出発し黄河《=水が黄濁しているのでいう中国第2の大河》を渡り、洛陽へ。第2次洛陽攻撃の準備にかかり、総攻撃をかけた。戦闘は勝利をおさめた。ある時、敵状情視察に行った同年兵について行ったら、スモモを食べながら待っている敵が見えた。次の瞬間、別の兵がひざを撃たれて、ものすごい出血。ゲートルを切って鉢巻で止血したが、1升位血が溜まっていた。戦車に乗せて野戦病院に送ったが死亡した。その兵は、朝から中国の強い酒、アルコール度45度もあるのを飲んでいたから出血が止まらなかった。その酒で車が動かせる位だった。
その時も「とにかく下がろう」と30m先の一軒家へ逃げ込んだ。敵は1列に並んでスモモ食べながら待っている。射手を呼んで機関銃を撃った。日本の機関銃は30連発だが、突っ込みといって10発位で弾が詰まることがある。その時も撃てなくなった。でも後でそこへ行ったら3人位死んでいて、私達はそこに落ちていたスモモを頬張った。
(お話を聞いて)
柏木さんは現役兵で騎兵として出兵されたそうです。柏木さんのお話の中で、自動車免許証がすごく人生を運命付けているように感じました。入隊する数年前に気軽な気持ちで受けた運転免許試験に合格し、入隊後配属されたのが騎兵で馬に乗るものだとばかり思っていたら、自動車の運転だったのこと、すごく助かったといっておられました。芸は身を助けるといいますが、まさにこれだと思いました。
新兵教育の話し、隊での話し、いろいろな話の中で、軍隊というのは、なんと理不尽な組織あるなと感じました。何かあれば殴る、制裁をする、それに反発すればそれ以上の制裁を科す。柏木さんもよく殴られたよと笑いながらお話くださいました。
戦闘に参加された話しもお聞きしました、戦車を操縦していて地雷を踏んで飛び上がったとか危ない目に何度か会われたそうです。また同郷の知り合いと戦地で行軍中に合い一寸言葉を交わしたがその後、その方は戦死されたとのことで、はかなさを感じました。
終戦になって家に戻って仕事を探し始めた時に、また運転免許証が役に立ち運送の仕事に就くようになり、ご自身で運送会社を興すまでになられました。
柏木さんの戦争体験から現在にいたるまで、一枚の自動車免許証が常に御守札のようについてこられたように思いました。苦しい体験の中、自分の持つ特技や技能を生かし賢明に現状と対峙され乗り越えられてきた生き方に共感しました。
(聞き手 匿名 昭和3《1928》年生)
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「日本が生きるための戦争だった」
湯河原町 福井 三七夫(大正6《1917》年)
(あらすじ)
昭和15年24歳で召集令状が来た。18歳で肋膜《ろくまく》を患ったので第2乙種合格で衛生要員として千葉の気球連隊に入隊。1ケ月本科教育を受けて3ケ月千葉の陸軍病院へ通った。
同年秋に南京部隊へ。そこはハルビンの731部隊と同じ様な部隊で、防疫給水部に配属された。昭和16年11月転属で上海へ行き、寧波で1年。昭和17年5月金華作戦に参加して上海に帰った。当時ガダルカナルが作戦に失敗していたので、そこへ九州6師団が投入されることになっていた。私もそこへ転属となり、17《1942》年12月21日に上海を出発、パラオに上陸した。ところが31日の御前会議《=天皇の出席のもとに開かれた最高会議》で「ガダルカナル《=ソロモン諸島》はあきらめよう」との陛下の言葉で急遽《きゅうきょ》変更。翌1月にブーゲンビル上陸。2月にガダルカナル撤退作戦が行われ、約1万人の生き残りを収容した。ソロモン群島に隊が分散して入り、敵をけん制したが、昭和19年4月に惨敗。司令部幹部は経理や防疫給水部隊を口減らしの為、付近のヤシ林で自活させた。
私は脚気《かっけ》だったから機材管理係として残された。だから助かった。皆ヤシを食べて下痢をして、半年で6割死んだ。そのうち部隊が成り立たなくなり、私は軍医部の兵隊として働くことに。そこで終戦を迎えた。すでに畑では色いろ物が作れて自活は完壁だった。その後無人島に送られ、豪州《=オーストラリア》軍の使役として強制労働。ムチで追い立てられた。昭和20年9月から翌3月までそこにいて、佐世保に帰ってきた。日本も生きるための戦争だったと思っている。
(お話を聞いて)
福井三七夫さんに戦争中のお話を聞きました。福井さんは現在89歳(平成17年)でお一人暮らしをしています。お元気に60年以上も前のお話をしていただきました。
福井さんのお話を聞くと、人間の生と死について色々考えさせられました。運命といってしまえばそれだけ終わってしまいそうなことでも、その状況、状況によって生と死の分かれ道があり、そこで右に行くか、左に行くか、それも自分の判断ではなく、命令であったり、戦況などの周囲の状況であったり。
いま平和の中で生きている私達にとっては、確かに色々な場面で岐路《きろ=分かれ道》はあるにしても、福井さん達が経験してきたような極限的な岐路に立っことはそうそうないと思うし、日々生死の岐路に立っていたことを考えると、本当に今の平和のありがたみを感じるとともに、今生きる自分達だけではなく、これからもずっと多くの人たちの悲劇や苦悩ありとあらゆる犠牲の上に成り立った平和をいっまでも守り続けたいと思いました。
(聞き手 匿名 昭和31《1956》年生)
湯河原町 福井 三七夫(大正6《1917》年)
(あらすじ)
昭和15年24歳で召集令状が来た。18歳で肋膜《ろくまく》を患ったので第2乙種合格で衛生要員として千葉の気球連隊に入隊。1ケ月本科教育を受けて3ケ月千葉の陸軍病院へ通った。
同年秋に南京部隊へ。そこはハルビンの731部隊と同じ様な部隊で、防疫給水部に配属された。昭和16年11月転属で上海へ行き、寧波で1年。昭和17年5月金華作戦に参加して上海に帰った。当時ガダルカナルが作戦に失敗していたので、そこへ九州6師団が投入されることになっていた。私もそこへ転属となり、17《1942》年12月21日に上海を出発、パラオに上陸した。ところが31日の御前会議《=天皇の出席のもとに開かれた最高会議》で「ガダルカナル《=ソロモン諸島》はあきらめよう」との陛下の言葉で急遽《きゅうきょ》変更。翌1月にブーゲンビル上陸。2月にガダルカナル撤退作戦が行われ、約1万人の生き残りを収容した。ソロモン群島に隊が分散して入り、敵をけん制したが、昭和19年4月に惨敗。司令部幹部は経理や防疫給水部隊を口減らしの為、付近のヤシ林で自活させた。
私は脚気《かっけ》だったから機材管理係として残された。だから助かった。皆ヤシを食べて下痢をして、半年で6割死んだ。そのうち部隊が成り立たなくなり、私は軍医部の兵隊として働くことに。そこで終戦を迎えた。すでに畑では色いろ物が作れて自活は完壁だった。その後無人島に送られ、豪州《=オーストラリア》軍の使役として強制労働。ムチで追い立てられた。昭和20年9月から翌3月までそこにいて、佐世保に帰ってきた。日本も生きるための戦争だったと思っている。
(お話を聞いて)
福井三七夫さんに戦争中のお話を聞きました。福井さんは現在89歳(平成17年)でお一人暮らしをしています。お元気に60年以上も前のお話をしていただきました。
福井さんのお話を聞くと、人間の生と死について色々考えさせられました。運命といってしまえばそれだけ終わってしまいそうなことでも、その状況、状況によって生と死の分かれ道があり、そこで右に行くか、左に行くか、それも自分の判断ではなく、命令であったり、戦況などの周囲の状況であったり。
いま平和の中で生きている私達にとっては、確かに色々な場面で岐路《きろ=分かれ道》はあるにしても、福井さん達が経験してきたような極限的な岐路に立っことはそうそうないと思うし、日々生死の岐路に立っていたことを考えると、本当に今の平和のありがたみを感じるとともに、今生きる自分達だけではなく、これからもずっと多くの人たちの悲劇や苦悩ありとあらゆる犠牲の上に成り立った平和をいっまでも守り続けたいと思いました。
(聞き手 匿名 昭和31《1956》年生)
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北ブロック
「炎天下の重労働 汗なめ うまい!」
城山町 川島 穂(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
昭和19年4月、16才で鎌倉の神奈川師範学校に入学。寄宿舎で軍隊のような厳しい集団生活だった。7月から9月には学徒動員《注》で今の厚木基地、当時の綾瀬飛行場で整地作業を行った。真夏の炎天下、日陰もなく水もなく上半身裸で作業した。汗をなめてその塩気の味が「うまいな-」と思った。
心身共に鍛《きた》えられていたからか、倒れる人はいなかった。食事は腹一杯食べられた。麦入り飯にタクワン2、3切れとダシなしの大根の味噌汁。召集されてきた30才位の兵隊が20才ほどの上官にひどく怒られているのを見て「あの兵隊の妻や親は悲しむだろう。私は嫌だ。早く上官にならねば」と暇《ひま》さえあれば軍人になる勉強していた。
この頃から帰らない飛行兵の話をチラホラ聞くようになった。後に特攻の前身だったと知った。その後藤沢の東京螺子《ねじ》という軍需工場へ勤務した。楽しかった思い出は食事のこと。ご飯には麦やタン麺、さつま芋が入っていたが、カレーや鯨肉《げいにく》などがあった。軍事物資が回ってきたのだと思う。工場で何を作っていたかは一切秘密。今思えば鉄砲の弾を作っていたのかも知れぬ。昭和20年の3月頃から同級生が召集され始め、7月には人が少なくなって休憩もとらず「戦地の兵隊よりは楽だ」と無我夢中で働いた。 私が軍隊に入りたいと母に言ったら「お前を軍人にする為に育てたんじゃない。どうしても行きたいなら私を殺してから行け」と。その言葉がなければ今の私はいない。戦地の兵隊も「天皇万歳」じゃなく「お母さんごめんなさい」と言って死んだのだと思う。
注 学徒動員=労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させた
「陸で、海で、前線で」
城山町 高橋 潔 (大正10《1921》年生)
(あらすじ)
分家の叔父のところで体を鍛えて《きたえて》いた。兵隊検査は甲種合格。 昭和17年佐倉57連隊に入隊。能登丸に乗り砲台の側で寝るという生活。朝鮮の済州島へ。そこで大砲の操作を習い実弾演習を。そして朝鮮から中国へ上陸。中国内では、新兵の基礎訓練を行い、揚子江から川舟でバンカオへ。さらに訓練を行う。そして最前線へ。幹部候補となり更に訓練。部隊に合流する予定であったが、部隊の所在が不明。軍司令部で所在を確認するが、戦地を彷徨う《さまよう》状態であった。・・・
人としての誇りとは何なのか、改めて考えてみたいと思った。
「炎天下の重労働 汗なめ うまい!」
城山町 川島 穂(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
昭和19年4月、16才で鎌倉の神奈川師範学校に入学。寄宿舎で軍隊のような厳しい集団生活だった。7月から9月には学徒動員《注》で今の厚木基地、当時の綾瀬飛行場で整地作業を行った。真夏の炎天下、日陰もなく水もなく上半身裸で作業した。汗をなめてその塩気の味が「うまいな-」と思った。
心身共に鍛《きた》えられていたからか、倒れる人はいなかった。食事は腹一杯食べられた。麦入り飯にタクワン2、3切れとダシなしの大根の味噌汁。召集されてきた30才位の兵隊が20才ほどの上官にひどく怒られているのを見て「あの兵隊の妻や親は悲しむだろう。私は嫌だ。早く上官にならねば」と暇《ひま》さえあれば軍人になる勉強していた。
この頃から帰らない飛行兵の話をチラホラ聞くようになった。後に特攻の前身だったと知った。その後藤沢の東京螺子《ねじ》という軍需工場へ勤務した。楽しかった思い出は食事のこと。ご飯には麦やタン麺、さつま芋が入っていたが、カレーや鯨肉《げいにく》などがあった。軍事物資が回ってきたのだと思う。工場で何を作っていたかは一切秘密。今思えば鉄砲の弾を作っていたのかも知れぬ。昭和20年の3月頃から同級生が召集され始め、7月には人が少なくなって休憩もとらず「戦地の兵隊よりは楽だ」と無我夢中で働いた。 私が軍隊に入りたいと母に言ったら「お前を軍人にする為に育てたんじゃない。どうしても行きたいなら私を殺してから行け」と。その言葉がなければ今の私はいない。戦地の兵隊も「天皇万歳」じゃなく「お母さんごめんなさい」と言って死んだのだと思う。
注 学徒動員=労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させた
「陸で、海で、前線で」
城山町 高橋 潔 (大正10《1921》年生)
(あらすじ)
分家の叔父のところで体を鍛えて《きたえて》いた。兵隊検査は甲種合格。 昭和17年佐倉57連隊に入隊。能登丸に乗り砲台の側で寝るという生活。朝鮮の済州島へ。そこで大砲の操作を習い実弾演習を。そして朝鮮から中国へ上陸。中国内では、新兵の基礎訓練を行い、揚子江から川舟でバンカオへ。さらに訓練を行う。そして最前線へ。幹部候補となり更に訓練。部隊に合流する予定であったが、部隊の所在が不明。軍司令部で所在を確認するが、戦地を彷徨う《さまよう》状態であった。・・・
人としての誇りとは何なのか、改めて考えてみたいと思った。
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「行軍 激戦 今も浮かぶ友の顔」
城山町 設楽 恒三郎(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和12年12月に現役志願兵として大兵《たいひょう》。翌年5月に移動部隊として朝鮮の仁川港から出港した。その際、日本人の家に3泊4日宿泊して、そこの奥さんから鮫除け《さめよけ》になると赤い裡(ふんどし)をもらった。撃沈した時に使うのかと納得した。輸送船に乗って揚子江に到着。さらに揚子江をさかのぼっていくと、敵の砲台から砲弾が命中、船は傾きながら鎮江に着いた。南京攻略直後のことだった。上陸したのは大別山脈という山岳地帯で、兵器は散弾で遠くまで弾が飛ばず、目標は敵の機関銃だった。山また山の細い道を進軍。人馬もろとも崖《がけ》から落ちることもあった。体力がなくなり歩けなくなる歩兵が方々に、銃を抱いて目だけギョロギョロと伏せているのを横目に前進した。
私と友人が前線で歩哨に立った時、笹薮に伏せている私の左足に電撃が走った。と同時に隣で伏せていた友が「やられた!」。彼の右足に弾が命中していた。私の左足と彼の右足が触れていたので、私にも響いたのだ。肩車して隊に引き返した。その戦いで大隊は全滅、「雷鳴高地」での戦いだった。2ケ月の激戦の後脱出して駐屯地《=軍隊がある土地にとどまっている》に戻った。
それから航空要員に応募して、昭和15年内地の各務原《かかみがはら=岐阜県南部》に転属。宇都宮陸軍士官学校に入校し、満州やハルビンにも行ったが学校に戻って助教として、17、8歳の少年飛行兵を教育した。特攻隊の訓練をした頃は終戦間際だった。自分の人生は愛国、教育勅語、御真影《ごしんえい=天皇・皇后のお写真》参拝等々がしみついて、少年兵の顔や戦友との思い出が今も胸をよぎる。お国の為だと潔《いさぎよ》く戦ってきた。
現在もまだ世界中で戦争が起きているがあまりにも戦争は悲しい。やっぱり戦争はしてはいけない。
「今際の際《いまわのきわ=死に際》 呼ぶは母の名」
城山町 金子 益三(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和13年徴兵検査で甲種合格。翌1月10日に北海道旭川の歩兵第26連隊に入る。4月10日に1等兵進級と同時に、北シナに向かって小樽港を出発。日本海を5日間渡り、中国の塘活に上陸。そこで真っ白な塩の山を見て驚いた。貨車に人馬共に乗って新郷に向かった。新郷付近を転々と作戦、掃討《=完全に除き去る》、討伐、警備など3年半程して任務が遂行され、昭和17年7月に帰ってきた。
国境を通過し、塘活に1泊して内地へ。東京・赤坂連隊に到着し、3日程で故郷に帰ってきた。感無量だった。その後、相模陸軍造幣省へ就職。村長から青年学校の教官をと乞われて就任。
しかし昭和19年5月に召集令状がきたので長く務められず、山梨県甲府連隊へ。ニューギニアへの要員だったが、編成過剰員だったので内地で経理事務を担当した。戦況悪化で部隊の物資を疎開させて転々とした。私も部隊を離れて昭和村という所で自炊したことがある。地元では農家が供出に困っていた。小麦の供出に俵を作る人がいないというので、私が作ったこともあった。その後終戦。
中国にいた時、軍で戦友が敵の銃弾に腹部を貫通されて「妹を頼むよ」と言って息を引き取った。
戦死の時は母の名前を呼ぶ人が多かった。甲府で敗戦知った時は誰一人口をきく人がいなかった。幾日か経ってから負けたと実感した。怖かった思い出は、鉄道線路や車道に地雷が置いてある中国ゲリラ戦。砲弾は45度の角度で飛んでくるから、伏せていれば当たらなかった。もう戦争は嫌だ。2度とゴメンだ。平和が一番。
城山町 設楽 恒三郎(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和12年12月に現役志願兵として大兵《たいひょう》。翌年5月に移動部隊として朝鮮の仁川港から出港した。その際、日本人の家に3泊4日宿泊して、そこの奥さんから鮫除け《さめよけ》になると赤い裡(ふんどし)をもらった。撃沈した時に使うのかと納得した。輸送船に乗って揚子江に到着。さらに揚子江をさかのぼっていくと、敵の砲台から砲弾が命中、船は傾きながら鎮江に着いた。南京攻略直後のことだった。上陸したのは大別山脈という山岳地帯で、兵器は散弾で遠くまで弾が飛ばず、目標は敵の機関銃だった。山また山の細い道を進軍。人馬もろとも崖《がけ》から落ちることもあった。体力がなくなり歩けなくなる歩兵が方々に、銃を抱いて目だけギョロギョロと伏せているのを横目に前進した。
私と友人が前線で歩哨に立った時、笹薮に伏せている私の左足に電撃が走った。と同時に隣で伏せていた友が「やられた!」。彼の右足に弾が命中していた。私の左足と彼の右足が触れていたので、私にも響いたのだ。肩車して隊に引き返した。その戦いで大隊は全滅、「雷鳴高地」での戦いだった。2ケ月の激戦の後脱出して駐屯地《=軍隊がある土地にとどまっている》に戻った。
それから航空要員に応募して、昭和15年内地の各務原《かかみがはら=岐阜県南部》に転属。宇都宮陸軍士官学校に入校し、満州やハルビンにも行ったが学校に戻って助教として、17、8歳の少年飛行兵を教育した。特攻隊の訓練をした頃は終戦間際だった。自分の人生は愛国、教育勅語、御真影《ごしんえい=天皇・皇后のお写真》参拝等々がしみついて、少年兵の顔や戦友との思い出が今も胸をよぎる。お国の為だと潔《いさぎよ》く戦ってきた。
現在もまだ世界中で戦争が起きているがあまりにも戦争は悲しい。やっぱり戦争はしてはいけない。
「今際の際《いまわのきわ=死に際》 呼ぶは母の名」
城山町 金子 益三(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和13年徴兵検査で甲種合格。翌1月10日に北海道旭川の歩兵第26連隊に入る。4月10日に1等兵進級と同時に、北シナに向かって小樽港を出発。日本海を5日間渡り、中国の塘活に上陸。そこで真っ白な塩の山を見て驚いた。貨車に人馬共に乗って新郷に向かった。新郷付近を転々と作戦、掃討《=完全に除き去る》、討伐、警備など3年半程して任務が遂行され、昭和17年7月に帰ってきた。
国境を通過し、塘活に1泊して内地へ。東京・赤坂連隊に到着し、3日程で故郷に帰ってきた。感無量だった。その後、相模陸軍造幣省へ就職。村長から青年学校の教官をと乞われて就任。
しかし昭和19年5月に召集令状がきたので長く務められず、山梨県甲府連隊へ。ニューギニアへの要員だったが、編成過剰員だったので内地で経理事務を担当した。戦況悪化で部隊の物資を疎開させて転々とした。私も部隊を離れて昭和村という所で自炊したことがある。地元では農家が供出に困っていた。小麦の供出に俵を作る人がいないというので、私が作ったこともあった。その後終戦。
中国にいた時、軍で戦友が敵の銃弾に腹部を貫通されて「妹を頼むよ」と言って息を引き取った。
戦死の時は母の名前を呼ぶ人が多かった。甲府で敗戦知った時は誰一人口をきく人がいなかった。幾日か経ってから負けたと実感した。怖かった思い出は、鉄道線路や車道に地雷が置いてある中国ゲリラ戦。砲弾は45度の角度で飛んでくるから、伏せていれば当たらなかった。もう戦争は嫌だ。2度とゴメンだ。平和が一番。
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「知らずに作った人間魚雷」
城山町 秋月 怜子(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
女学校2、3年生の頃、農家から出征した兵士の家へ手伝いに行き喜ばれた。当時珍しい白米のお握りやさつま芋をふかしてもらった。4年生になって、地元にできた飛行機のエンジンを作る工場で組み立て班に配属された。ヤスリを持っての慣れない作業で、鉄粉が皮膚に入り石鹸等がなく粘土で洗った。皮膚が切れて痛かった。卒業式の日も午後には工場で働いた。
その後進学して、夏休みに玉音《=天皇のお声》放送を聞いた。それからは、貧しかったが友人と色んな本を読んで論議するのが楽しかった。何年か後に、私たちが工場で作っていたのは人間魚雷《=自爆することが目的の特殊な兵器》のエンジンだったと知ってショックを受けた。若い人達の命を奪う手伝いをしていたのかと、随分悩んだ。工場内にエンジンを組み立てると日の丸で消していく表があった。初めは目標を達成していたが、終わりには半分位だった。すでに敗戦の色が濃くなっていた。私達のような若い女の子が作っていたエンジンは不完全だったと思う。途中で自爆もあったと聞いて涙した。
女学校4年間勉強らしい勉強をしなかった。卒業してもむなしかった。もし戦争がなかったら勉強や遊びを楽しんだと思う。本は友達の兄に借りてよく読んだ。玉音放送はピンとこなかったが、なぜかすぐ学校へ行った。アメリカ軍に見つかったら危ないと言われて、家にあった薙刀《なぎなた》を父が処分した。今地元の中学生に戦争体験を語っている。戦争がどんなに大変なことか、絶対してはいけないと認識して生きていってほしい。
「海面に突然潜望鏡 被弾 撃沈」
城山町 山本 照夫(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
昭和17年2月3日海軍を受験し、3月に学校を卒業してから採用通知がくるまで、土方《どかた》や山仕事などで体を鍛えた。9月1日に横須賀の第一海兵団へ。何千人という仲間がいて、私は機関兵に編成された。制服に着替えて、新兵教育が始まった。私たちは海軍練習兵と呼ばれ、昭和16年9月から満16才以下でも海軍に入れるようになった第1期生だった。普通兵は100日で実戦部隊へ行ったが、私たちは丸1年の教育予定で、英語を含む普通学もあった。が、戦況悪化で11ケ月に短縮された。教育が終わったら、即日機関兵の為の工機学校へ。そこでも平時は6ケ月の教育が4ケ月に短縮された。昭和19年7月、広島因島《いんのしま》の日立造船所で作っている「あじろ」乗船の転勤命令が出た。機雷を敷設する任務だった。訓練が済むとすぐ横須賀防備隊付きとなり、輸送船を父島まで護衛した。父島の山は攻撃受けて真っ赤だった。
9月には父島に向かう途中、4隻の船団の間に敵の潜水艦の潜望鏡が突然出て、あっという間に魚雷が輸送船に命中し、轟沈《=砲撃などで艦船が短時間に(旧海軍では一分間以内に)沈むこと》した。すぐ自分たちの船もやられ、私は海に投げ出された。板につかまって助かったが、ひざとかかとにケガをして、甲板に寝かされて父島へ向かった。今度はB29が雨あられのように爆弾を落としてきた。身動きできず怖い思いをしたが、何とか助かった。
横須賀の海軍病院等を転々とし、退院後は横須賀海軍防備隊へ。
終戦後は、志願兵は解散せず敷設した機雷の除去作業に当たった。東京湾を皮切りにアメリカ船から燃料をもらって、九十九里浜、八丈島周辺、御前崎で任務遂行。大阪湾から和歌山、浦賀、宗谷海峡へも行ったのだった
城山町 秋月 怜子(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
女学校2、3年生の頃、農家から出征した兵士の家へ手伝いに行き喜ばれた。当時珍しい白米のお握りやさつま芋をふかしてもらった。4年生になって、地元にできた飛行機のエンジンを作る工場で組み立て班に配属された。ヤスリを持っての慣れない作業で、鉄粉が皮膚に入り石鹸等がなく粘土で洗った。皮膚が切れて痛かった。卒業式の日も午後には工場で働いた。
その後進学して、夏休みに玉音《=天皇のお声》放送を聞いた。それからは、貧しかったが友人と色んな本を読んで論議するのが楽しかった。何年か後に、私たちが工場で作っていたのは人間魚雷《=自爆することが目的の特殊な兵器》のエンジンだったと知ってショックを受けた。若い人達の命を奪う手伝いをしていたのかと、随分悩んだ。工場内にエンジンを組み立てると日の丸で消していく表があった。初めは目標を達成していたが、終わりには半分位だった。すでに敗戦の色が濃くなっていた。私達のような若い女の子が作っていたエンジンは不完全だったと思う。途中で自爆もあったと聞いて涙した。
女学校4年間勉強らしい勉強をしなかった。卒業してもむなしかった。もし戦争がなかったら勉強や遊びを楽しんだと思う。本は友達の兄に借りてよく読んだ。玉音放送はピンとこなかったが、なぜかすぐ学校へ行った。アメリカ軍に見つかったら危ないと言われて、家にあった薙刀《なぎなた》を父が処分した。今地元の中学生に戦争体験を語っている。戦争がどんなに大変なことか、絶対してはいけないと認識して生きていってほしい。
「海面に突然潜望鏡 被弾 撃沈」
城山町 山本 照夫(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
昭和17年2月3日海軍を受験し、3月に学校を卒業してから採用通知がくるまで、土方《どかた》や山仕事などで体を鍛えた。9月1日に横須賀の第一海兵団へ。何千人という仲間がいて、私は機関兵に編成された。制服に着替えて、新兵教育が始まった。私たちは海軍練習兵と呼ばれ、昭和16年9月から満16才以下でも海軍に入れるようになった第1期生だった。普通兵は100日で実戦部隊へ行ったが、私たちは丸1年の教育予定で、英語を含む普通学もあった。が、戦況悪化で11ケ月に短縮された。教育が終わったら、即日機関兵の為の工機学校へ。そこでも平時は6ケ月の教育が4ケ月に短縮された。昭和19年7月、広島因島《いんのしま》の日立造船所で作っている「あじろ」乗船の転勤命令が出た。機雷を敷設する任務だった。訓練が済むとすぐ横須賀防備隊付きとなり、輸送船を父島まで護衛した。父島の山は攻撃受けて真っ赤だった。
9月には父島に向かう途中、4隻の船団の間に敵の潜水艦の潜望鏡が突然出て、あっという間に魚雷が輸送船に命中し、轟沈《=砲撃などで艦船が短時間に(旧海軍では一分間以内に)沈むこと》した。すぐ自分たちの船もやられ、私は海に投げ出された。板につかまって助かったが、ひざとかかとにケガをして、甲板に寝かされて父島へ向かった。今度はB29が雨あられのように爆弾を落としてきた。身動きできず怖い思いをしたが、何とか助かった。
横須賀の海軍病院等を転々とし、退院後は横須賀海軍防備隊へ。
終戦後は、志願兵は解散せず敷設した機雷の除去作業に当たった。東京湾を皮切りにアメリカ船から燃料をもらって、九十九里浜、八丈島周辺、御前崎で任務遂行。大阪湾から和歌山、浦賀、宗谷海峡へも行ったのだった
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(お話を聞いて)(川島、高橋、設楽、金子、秋月の各氏)
私は1951年(昭和26年)、現在の備前市(岡山県)で生まれた戦後派です。まだまだ貧しく、闇米《やみごめ=正規の販路によらずに取引される米》を買った経験や、広島で被爆された方がご近所におられました。
このインタビューのお話はボランティアで知り合った方から頂き、二つ返事で引き受けさせていただくことにしました。お話を伺う5人の方々と短い面談の後、録音室のマイクの前に座っておはなしをしていただきました。60数年前の出来事を、昨日の出来事のごとく、地名、年月日、人名などメモもなく語られるお姿を脇から見ていて「ああ終わっていないんだなあ」と時には涙しながらのインタビューとなりました。
ひとくくりに戦争体験といっても、男女差、思春期、結婚適齢期、取り巻く家族、お立場の違いでお一人お一人のお話にそれぞれの命の重さを感じました。映画やドラマでしか知らなかった話が、同じ町内に住む、今隣にいるその人の実体験、生身の人間の体験としてあの時代には口に出して言えないことを話していただきました。異口同音にいわれるのは、「戦争はしちゃだめ。」「こんな経験は二度としちゃあ駄目だ」そしてまた「こんなことをいっちやあ何だけど『天皇陛下バンザイ』といって死んだなんて嘘だ。『お袋、妹を頼むよ』と身近な人の名を呼んだもんだ、本当は」と。命を失った戦友の魂の分も訴えているようにも思えました。
今回、胸に鉛の玉を未だ抱え続けながらもお元気でご活躍、新聞を読み、世界情勢の紛争を嘆き、老人会の役員、地域の役職、ボランティア、それぞれ今なお活躍されている方とお知り合いになれたこの機会に感謝申し上げます。非戦平和を願う私は、引き継ぐ世代として大きな宿題となりました。ありがとうございました。
私は1951年(昭和26年)、現在の備前市(岡山県)で生まれた戦後派です。まだまだ貧しく、闇米《やみごめ=正規の販路によらずに取引される米》を買った経験や、広島で被爆された方がご近所におられました。
このインタビューのお話はボランティアで知り合った方から頂き、二つ返事で引き受けさせていただくことにしました。お話を伺う5人の方々と短い面談の後、録音室のマイクの前に座っておはなしをしていただきました。60数年前の出来事を、昨日の出来事のごとく、地名、年月日、人名などメモもなく語られるお姿を脇から見ていて「ああ終わっていないんだなあ」と時には涙しながらのインタビューとなりました。
ひとくくりに戦争体験といっても、男女差、思春期、結婚適齢期、取り巻く家族、お立場の違いでお一人お一人のお話にそれぞれの命の重さを感じました。映画やドラマでしか知らなかった話が、同じ町内に住む、今隣にいるその人の実体験、生身の人間の体験としてあの時代には口に出して言えないことを話していただきました。異口同音にいわれるのは、「戦争はしちゃだめ。」「こんな経験は二度としちゃあ駄目だ」そしてまた「こんなことをいっちやあ何だけど『天皇陛下バンザイ』といって死んだなんて嘘だ。『お袋、妹を頼むよ』と身近な人の名を呼んだもんだ、本当は」と。命を失った戦友の魂の分も訴えているようにも思えました。
今回、胸に鉛の玉を未だ抱え続けながらもお元気でご活躍、新聞を読み、世界情勢の紛争を嘆き、老人会の役員、地域の役職、ボランティア、それぞれ今なお活躍されている方とお知り合いになれたこの機会に感謝申し上げます。非戦平和を願う私は、引き継ぐ世代として大きな宿題となりました。ありがとうございました。
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「収容所 草食べつくし やっと生き」
藤野町 楢島 正(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年12月に白紙召集《=徴用令状は白紙だったので「白紙召集」と呼ばれた》で川崎の東芝に入った。翌年赤紙がきて11月25日相模原に通信兵として入隊、3日後には満州に出兵。出発の日は横浜が初空襲に遭《あ》い、電車が動かず町田から横浜駅まで歩いた。門司で乗船の予定だったが、他の部隊に譲って九州で1泊した。が、前日の船は玄界灘で撃沈されたと聞いた。命拾いした。12月1日に新彊に着いた。
新兵の教育係だったが新兵が入ってこないので、6月末に関東へ集結。通信兵が少なかったので奉天へ。満州の幹部候補生が教育を受ける有名な所だった。その教育中にソ連が攻めてきた。
8月15日に停戦だが命令を受けたのは翌日の午後4時だった。もう少しで敵の戦車がくるというところだった。1班に1、2丁の兵器という状態だった。あの時は恐ろしかった。殺される覚悟決めた。収容所に入って鉛筆まで何もかも取られた。食糧が少なく、場内の草を食べつくした。9月半ばにウラジオから内地へ帰すと言われ、1週間行軍した。私は赤痢にかかって出発の時から血便が出たが、飲まず食わずでポシェットという軍港に着いて、隔離された。服を脱いだらガリガリに痩《や》せて、我ながらよく生きていたなとビックリした。
それからハバロフスク郊外のコルホーズ農場で約1ケ月じゃが芋拾い。その後はスタレトラストという囚人村で伐採作業。寒かった。昭和22年4月に帰国。日本に着いて国から300円貰った。こりゃ大金だと嬉しかったが物価が高騰していて1週間で使い果たした。
「山中を逃げて逃げて 命永う」
藤野町 武内 武蔵(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
召集は21歳の時で、前年から立川の陸軍航空技術研究所へ勤め、そこへ弟が家に届いた赤紙を持ってきた。明後日入営だとのこと。昭和19年6月にフィリピンへ。サイパンが陥落《かんらく=攻め落とされ》し台湾で一日情勢見て、マニラへ向かう。9隻の船団中1隻沈んだだけで到着した。
ミンダナオ島の端で陣地ばかり作っていた。ヤシの木から澱粉をとって食べた。夕飯だけ米飯。昭和20年3月にアメリカ軍が上陸。2週間の戦闘で、たくさん戦死者が出た。以降10月までずっと山の中を逃げ回り終戦も知らず、敵軍のビラを見ても謀略だと信じなかった。着るものもなく、靴下1本分の米しかなかった。無人の部落に残っていたとうもろこしの粉などで生き延びた。鉄砲の弾ひとつ、一握りの米も補給がなかった。一日食べないことは常で、さつま芋の葉で食いつないだことも。
移動しないと敵が偵察に来るので、雨露をしのげる程度の小屋をて、長くて一週間滞在、ほぼ毎日移動した。湿度の高いところを歩き回るから靴がダメになり、裸足《はだし》だった。気をつけても夜なんか足にケガをする。すると傷口からウジがわくが、薬も包帯もない。亡くなった人は戦死半分、マラリヤなど病気半分でデング熱《=ウイルスによる感染症》や赤痢なども多く、痩せてるうちはまだよく、むくみだすと1日位で死ぬ。移動中動けなくなる兵には、隊長から手相弾を持ってるかと確認され、捕虜にならずに自決することを促される。フィリピンは50万人弱の戦死者を出した。その後、米軍キャンプで草刈などの労働をした。戦争の囚人という意味のPWと背中にペンキで書かれた。
昭和21《1946》年10月に帰国。富士山がきれいだった。
藤野町 楢島 正(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年12月に白紙召集《=徴用令状は白紙だったので「白紙召集」と呼ばれた》で川崎の東芝に入った。翌年赤紙がきて11月25日相模原に通信兵として入隊、3日後には満州に出兵。出発の日は横浜が初空襲に遭《あ》い、電車が動かず町田から横浜駅まで歩いた。門司で乗船の予定だったが、他の部隊に譲って九州で1泊した。が、前日の船は玄界灘で撃沈されたと聞いた。命拾いした。12月1日に新彊に着いた。
新兵の教育係だったが新兵が入ってこないので、6月末に関東へ集結。通信兵が少なかったので奉天へ。満州の幹部候補生が教育を受ける有名な所だった。その教育中にソ連が攻めてきた。
8月15日に停戦だが命令を受けたのは翌日の午後4時だった。もう少しで敵の戦車がくるというところだった。1班に1、2丁の兵器という状態だった。あの時は恐ろしかった。殺される覚悟決めた。収容所に入って鉛筆まで何もかも取られた。食糧が少なく、場内の草を食べつくした。9月半ばにウラジオから内地へ帰すと言われ、1週間行軍した。私は赤痢にかかって出発の時から血便が出たが、飲まず食わずでポシェットという軍港に着いて、隔離された。服を脱いだらガリガリに痩《や》せて、我ながらよく生きていたなとビックリした。
それからハバロフスク郊外のコルホーズ農場で約1ケ月じゃが芋拾い。その後はスタレトラストという囚人村で伐採作業。寒かった。昭和22年4月に帰国。日本に着いて国から300円貰った。こりゃ大金だと嬉しかったが物価が高騰していて1週間で使い果たした。
「山中を逃げて逃げて 命永う」
藤野町 武内 武蔵(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
召集は21歳の時で、前年から立川の陸軍航空技術研究所へ勤め、そこへ弟が家に届いた赤紙を持ってきた。明後日入営だとのこと。昭和19年6月にフィリピンへ。サイパンが陥落《かんらく=攻め落とされ》し台湾で一日情勢見て、マニラへ向かう。9隻の船団中1隻沈んだだけで到着した。
ミンダナオ島の端で陣地ばかり作っていた。ヤシの木から澱粉をとって食べた。夕飯だけ米飯。昭和20年3月にアメリカ軍が上陸。2週間の戦闘で、たくさん戦死者が出た。以降10月までずっと山の中を逃げ回り終戦も知らず、敵軍のビラを見ても謀略だと信じなかった。着るものもなく、靴下1本分の米しかなかった。無人の部落に残っていたとうもろこしの粉などで生き延びた。鉄砲の弾ひとつ、一握りの米も補給がなかった。一日食べないことは常で、さつま芋の葉で食いつないだことも。
移動しないと敵が偵察に来るので、雨露をしのげる程度の小屋をて、長くて一週間滞在、ほぼ毎日移動した。湿度の高いところを歩き回るから靴がダメになり、裸足《はだし》だった。気をつけても夜なんか足にケガをする。すると傷口からウジがわくが、薬も包帯もない。亡くなった人は戦死半分、マラリヤなど病気半分でデング熱《=ウイルスによる感染症》や赤痢なども多く、痩せてるうちはまだよく、むくみだすと1日位で死ぬ。移動中動けなくなる兵には、隊長から手相弾を持ってるかと確認され、捕虜にならずに自決することを促される。フィリピンは50万人弱の戦死者を出した。その後、米軍キャンプで草刈などの労働をした。戦争の囚人という意味のPWと背中にペンキで書かれた。
昭和21《1946》年10月に帰国。富士山がきれいだった。
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(お話を聞いて)(楢島、武内さん)
今回、二人の方にお話を伺いました。私の想像をはるかに超えたご苦労の数数‥・ただただ聞き入るばかりでした。いつ命落とすかも知れぬ恐怖、空腹を満たすことのないわずかな食料、病気やケガをしてもつける薬もない状況の中で、懸命に生きるお話に返す言葉が見つかりませんでした。お話の途中、「私が生きて家族の元に帰れたのは本当に幸運でした。しかし亡くなられたたくさんの人やその家族の方々の悲しみを思うと。…・」と肩を落として話される姿に、胸が詰まる思いでした。
これまで、テレビドラマやドキュメンタリー番組で見聞きしたときとは又違い、直接「生の声」で聞くことは、私にとって大変貴重な体験となり、お二人と同様に平和への思いが尚一層強いものとなりました。そして、この平和がいつまでも続くようにと願わずにはいられません。大変なご苦労をされた多くの方々の礎《いしずえ》があってのことと心に刻み、感謝を忘れてはいけないとの思いをあらたにしました。
(聞き手 萌出優子 昭40《1965》年生)
「内地も外地も戦は続く」
藤野町 天野 一雄(大正9《1920》年生)
(あらすじ)
昭和16年に入隊し、習志野の騎兵隊に1年間いた。兵隊に行くのは誇り高く、嬉しかった。世の中がそうだった。開戦して満州へ。どんな所かと喜んで行った。満州は内地と同じで戦闘がなく、日曜には外出もできた。
その後、北満へ渡った。釜山から列車で移動、降りたらマイナス20度の世界。その日一日トラックに乗せられて、駐屯地へ行ったが一生忘れられない辛い経験だった。19年正月に帰国したが、3月には南方の島へ。今度は生きて帰れないと覚悟をした。まだ寒かったが夏服で中国の南京へ行った。揚子江を船で渡り、蘇州《=中国、江蘇省南部》、上海を経て中隊本部のある南通へ。そこは兵が7人しかおらず、昼間はのんびりだが夜になると共産軍が手相弾で襲ってくる。私は1週間で転属したが、残った6人は何百という敵に囲まれて全滅したと後で聞いた。当時、中国には南京政府と共産軍があった。日本は南京政府と手を組んでいて、中国兵と日本兵がそこにあった竹矢来《たけやらい=竹を粗く組み合わせて作った囲い》を通る人を検閲していた。中国兵はみんな純朴でいい奴だった。子供が何人いるとか話してくれた。
その後内地へ帰り、松山から浜松へ。昭和20年春のことで、毎日空襲があった。ある日、空襲警報で空を見たら小さくいっぱいグラマンが飛んでくる。6、7人で屋根の無い壕に逃げ込むと、グラマンが銃を撃ってきて隣の兵とのすき間に弾が当たった。刺さった。よく助かった。その晩に退避命令が出たが、外地より怖い思いをした。そして最後は東京。
焼け野原で何もなかった。終戦になって若い兵隊は「家に帰れる」と喜んだ。25日に解散したら、みんなあっという間にいなくなった。教育ほど恐ろしいものはない。「天皇のために」と疑うことなく、死も恐ろしくなかった。
(お話を聞いて)
天野さんから戦争を知らない世代へ、「教育ほど恐ろしいものはない」というメッセージをいただきました。国を挙げて戦争に向かうためには、教育が大きな役割を果たしたのだということを忘れてはならないと改めて感じました。
天野さんは徴兵検査に合格した時、「とても嬉しかった。兵隊さんを崇める《あがめる》世の中で、国の役にたっならば死ぬのも怖くなかった。」と語りました。私はそれを聞いてとても驚いてしまいました。自分の命、離れ離れになる家族がどうなるかと、不安と恐怖で泣く泣く戦地へ向かったに違いないと思っていたからです。
「国の政治に国民が疑いを持つなどありえないことだった」と当時の状況を教えていただき、天野さんの「兵隊に行けて嬉しい」という気持ちが正直な気持ちだったのだと理解しました。同時に、国を挙げての教育で人間の意志を操ることができてしまう恐ろしさを再認識しました。
天野さんはさらに、現代社会の良いところは「何においても自由があることだ」と話してくれました。今私たちは、自由にものを考えることができます。自分の頭で考え、ものごとを決められる自由があるという幸せは、あまりに当たり前で、実感がわかないものです。しかし、この当たり前の幸せを実現するまでに多くの命が犠牲になってきたのだという事実を前に、今自分の人生を自分の意思や選択で切り開くことができる環境がどれほどありがたいものなのか私は改めて自分に問い直し、気付くことができました。
私たちは今、一人ひとりの頭で考えることが出来るのですから、なぜ「戦争はいけないのか」ということについて、単に「いけない」と教えるのではなく、一人ひとりが歴史から学び、考える姿勢が大切だと思います。歴史から未来へ考えをめぐらせる力をつけることが、過ちを繰り返さない次の社会を担う世代に必要なことではないかと、天野さんのお話を聞いて感じました。
(聞き手 千代由美子 昭和52《1977》年生)
--完--
今回、二人の方にお話を伺いました。私の想像をはるかに超えたご苦労の数数‥・ただただ聞き入るばかりでした。いつ命落とすかも知れぬ恐怖、空腹を満たすことのないわずかな食料、病気やケガをしてもつける薬もない状況の中で、懸命に生きるお話に返す言葉が見つかりませんでした。お話の途中、「私が生きて家族の元に帰れたのは本当に幸運でした。しかし亡くなられたたくさんの人やその家族の方々の悲しみを思うと。…・」と肩を落として話される姿に、胸が詰まる思いでした。
これまで、テレビドラマやドキュメンタリー番組で見聞きしたときとは又違い、直接「生の声」で聞くことは、私にとって大変貴重な体験となり、お二人と同様に平和への思いが尚一層強いものとなりました。そして、この平和がいつまでも続くようにと願わずにはいられません。大変なご苦労をされた多くの方々の礎《いしずえ》があってのことと心に刻み、感謝を忘れてはいけないとの思いをあらたにしました。
(聞き手 萌出優子 昭40《1965》年生)
「内地も外地も戦は続く」
藤野町 天野 一雄(大正9《1920》年生)
(あらすじ)
昭和16年に入隊し、習志野の騎兵隊に1年間いた。兵隊に行くのは誇り高く、嬉しかった。世の中がそうだった。開戦して満州へ。どんな所かと喜んで行った。満州は内地と同じで戦闘がなく、日曜には外出もできた。
その後、北満へ渡った。釜山から列車で移動、降りたらマイナス20度の世界。その日一日トラックに乗せられて、駐屯地へ行ったが一生忘れられない辛い経験だった。19年正月に帰国したが、3月には南方の島へ。今度は生きて帰れないと覚悟をした。まだ寒かったが夏服で中国の南京へ行った。揚子江を船で渡り、蘇州《=中国、江蘇省南部》、上海を経て中隊本部のある南通へ。そこは兵が7人しかおらず、昼間はのんびりだが夜になると共産軍が手相弾で襲ってくる。私は1週間で転属したが、残った6人は何百という敵に囲まれて全滅したと後で聞いた。当時、中国には南京政府と共産軍があった。日本は南京政府と手を組んでいて、中国兵と日本兵がそこにあった竹矢来《たけやらい=竹を粗く組み合わせて作った囲い》を通る人を検閲していた。中国兵はみんな純朴でいい奴だった。子供が何人いるとか話してくれた。
その後内地へ帰り、松山から浜松へ。昭和20年春のことで、毎日空襲があった。ある日、空襲警報で空を見たら小さくいっぱいグラマンが飛んでくる。6、7人で屋根の無い壕に逃げ込むと、グラマンが銃を撃ってきて隣の兵とのすき間に弾が当たった。刺さった。よく助かった。その晩に退避命令が出たが、外地より怖い思いをした。そして最後は東京。
焼け野原で何もなかった。終戦になって若い兵隊は「家に帰れる」と喜んだ。25日に解散したら、みんなあっという間にいなくなった。教育ほど恐ろしいものはない。「天皇のために」と疑うことなく、死も恐ろしくなかった。
(お話を聞いて)
天野さんから戦争を知らない世代へ、「教育ほど恐ろしいものはない」というメッセージをいただきました。国を挙げて戦争に向かうためには、教育が大きな役割を果たしたのだということを忘れてはならないと改めて感じました。
天野さんは徴兵検査に合格した時、「とても嬉しかった。兵隊さんを崇める《あがめる》世の中で、国の役にたっならば死ぬのも怖くなかった。」と語りました。私はそれを聞いてとても驚いてしまいました。自分の命、離れ離れになる家族がどうなるかと、不安と恐怖で泣く泣く戦地へ向かったに違いないと思っていたからです。
「国の政治に国民が疑いを持つなどありえないことだった」と当時の状況を教えていただき、天野さんの「兵隊に行けて嬉しい」という気持ちが正直な気持ちだったのだと理解しました。同時に、国を挙げての教育で人間の意志を操ることができてしまう恐ろしさを再認識しました。
天野さんはさらに、現代社会の良いところは「何においても自由があることだ」と話してくれました。今私たちは、自由にものを考えることができます。自分の頭で考え、ものごとを決められる自由があるという幸せは、あまりに当たり前で、実感がわかないものです。しかし、この当たり前の幸せを実現するまでに多くの命が犠牲になってきたのだという事実を前に、今自分の人生を自分の意思や選択で切り開くことができる環境がどれほどありがたいものなのか私は改めて自分に問い直し、気付くことができました。
私たちは今、一人ひとりの頭で考えることが出来るのですから、なぜ「戦争はいけないのか」ということについて、単に「いけない」と教えるのではなく、一人ひとりが歴史から学び、考える姿勢が大切だと思います。歴史から未来へ考えをめぐらせる力をつけることが、過ちを繰り返さない次の社会を担う世代に必要なことではないかと、天野さんのお話を聞いて感じました。
(聞き手 千代由美子 昭和52《1977》年生)
--完--
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