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私の生家「赤壁の家」その1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/20 19:13
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その後明治四十一《1908》年まで毎年一回、一泊または二泊しているが、四十年に亘《わた》る父と藤村との交友の中で最も重要な二日間となったのが、二回目の明治三十八《1905》年三月のことである。
 この頃、藤村はそれまでの詩人としての活動から小説家に転向することを決意し、「千曲川のスケッチ」に続いて最初の長編小説「破戒」の出版に取りかかっていた。その挿絵《さしえ》にする写真を父に依頼し、五百頁ぐらい書くつもりだという原稿の最初の二百頁を見せられている。その出版費の四百円は奥さんの実家函館《はこだて》の秦慶治さんに出してもらうことになっていたが、出版するまでの生活費については目処《めど》がついていなかった。

 いろいろ思い悩んだ末、半年前に立派な赤壁の家を訪ね、お互いに心を許す友ともなっていた父に頼む以外はない、と決意したのがこの日のことだった。ところが、この日はひどい寒波の襲来で朝から吹雪になっていた。岩村田から志賀まで一里半の道中には、「切り通し」という窪地《くぼち》があって、どうしてもそこを通らなければならない。吹雪の時は十年に一度死人がでるというぐらいの難所である。この日のことを藤村は小説「突貫」に、次のように書いている。

 「私は、猛さんに話してみることに決心した。単独で雪を衝《つ》いて倒れるところまでいってみる。岩村田で馬車を下りる頃は、私の身体は最早水を浴びせ掛けられるように成っていた。恐ろしい寒気だった。時々眠くなるような眩暈《めまい》がして来て、何処《どこ》かそこへ倒れかかりそうに成った。私は未だ曾《かつ》て経験したことのない戦慄《せんりつ》を覚えた。終《つ》いに息苦しく成って来た。まるで私の周囲は氷の世界のようだった。もうすこしで私は死ぬかと思った。私の足許には氾濫《はんらん》の跡の雪に掩《おお》われたところがあった。私はその中へ滑り込まないように気をつけながら、前へ、前へと辿《たど》って行った。前へ…、前へ…」
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/21 20:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  その日、三月四日の父の日記には次のように記されている。
 「夜来の降雪、午後二時頃まで降る。後、西の烈風。夕方五時半頃に、今日はこの雪ゆえ来はすまいと思った島崎氏が雪を冒してやってきた。丁度余《よ=われ》は入浴中だったので直ぐ出て、それから夕食後、何という事なしに話して一時過ぎ迄。話題は今後の新作『破戒』の大略に就いて色々、挿絵に就いて、装釘に就いて等色々。」

 猛吹雪の中を難行の末にやっと辿り着いた藤村を、父がどんなに感激して温かく迎えたかは想像に難くない。母や家中の歓待も受けてその日は夜中の一時まで、翌日もまた朝から四方山《よもやま=さまざま》の話に花を咲かせて午後まで。そして三時帰路につくのであるが、その間、わざわざそのために雪を冒して訪ねてきたはずの肝腎《かんじん》な金四百円借用の件は、ついに話し出すことが出来なかった。そしてその夜、長い手紙を書いて出している。長文なので、梢《やや》抄記《しょうき=抜書き》する。

 「あたたかき湯に身の疲れを忘れ、終宵の物語り、時のうつるを覚えざりしは昨日のことに候ひき《そうらいき》。昨日の今は兄と令閨《れいけい=夫人》と互におかしくおもしろき談話に興ぜしことを思い出でて、身はなお羨《うらやま》しき兄《けい=先輩、同輩に対する敬称》の家庭のうちにある心地いたし候。
 この行、風雪を衝《つ》きて静かなる御住居を驚かせしは、兄を見てたのしき日を送らんとの願いの外に、別に生《せい=男子の謙称、小生》の前途に展《ひら》けつつある新事業につきて兄の同情と助力とを得度《た》きの念に満ちたるにて候ひき。されど、静慮《せいりょ=心を静めて考える事》すれば兄に対して交《まじわり》未だ浅き身なり。たとえ文芸の事業に深き感興と同情とを寄せらるる兄とは頼みながら、こは《=これは》あまりに無遠慮なるわざなりと考へ、遂に生は語る能《あた》わず《=語ることが出来なかった》して兄の家を辞したるにて候。
 甚《はなは》だ勝手なる申し出ながら、兄にしてもし生を信ぜられ、生の事業を助けむ《ん》との厚き御志もあらせられ候はば、向後《きょうご=今後》三年のあかつきに御返済するの義務を約して、補助費として四百円を御恩借《人の情けによって借り受ける》いたしたきこと。・・・西の国《=西欧》の詩人の上をも見るに、その人を得たるためにゲエテは生き、その人を得ざりしためにシェレイは死せり。
 かかる御依頼は甚だ申し上げにくき次第なれど、今は死生を新しき事業に托《たく》するの身、兄の如き人を力として進むより外なき境遇、万々《ばんばん=充分》御賢察御推読を仰ぎ申し候。」
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/22 19:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 これを披《ひら》いて見た父の困惑は大きかった。四百円といえば、今の金額で約二百五十万円である。いくら赤壁の当主だとはいっても未だ二十三歳の身では、それを右から左にできる力はない。しかし、何とかしなければならない。それで子供の養育費の中から工面してまず百五十円を送り、大正五年までで三百九十円を用立てている。その後も屡々《しばしば》救援の依頼があり、藤村研究家の並木張氏によれば、後のフランス滞在費の援助まで含めると父の支援額は一千八十円に達している。
 因に《ちなみに=関連して》藤村からの返金は、生涯を通じて八百六十円だったということである。

 実際、「破戒」の執筆に命を賭《か》けて歩み始めた藤村の苦闘と、それを支える父の友情との交錯は劇的ともいえるものだった。四月二十九日、藤村が小諸を去って東京西大久保の寓居《ぐうきょ=仮住まい》に入った翌月に三女縫子が死亡。六月に次女孝子が死去。七月には長女みどりが死亡。冬子夫人も栄養失調で失明した後逝去している。その間、父は西大久保の家を五回も訪ねているが、父の力もここまでは及ばず、如何《いかん》とも為し得ないことに父も藤村と同じ心の痛みを共に苦しんだに違いない。そして一家全滅の中で、幽鬼のようになって只《ただ》ひたすら書き続けた「破戒」の原稿が完成したのは、上京してから七ヵ月を過ぎた十一月二十七日だった。
 「草稿全部完了。十一月二十七日夜七時、長き々々労作を終る。章数二十一、稿紙五百三十五。無量の感謝と長き月日の追懐とに胸踊りつつこの葉書を認む《したたむ》」という歓喜のハガキが父に宛《あ》てて届いている。

 藤村はこの原稿を持って、岩波書店へ出版の交渉に行った。ところがその原稿を見た社長の岩波茂雄は「いくら自費出版でも、こんな汚い原稿では活字が拾えない」と言って受け取らず、突っ返されてしまった。困って相談された父も憤慨したが、それでは書き直そうということになり、父が特製の原稿用紙を作る事になった。例の得意な篆刻《てんこく》の人脈を生かして大型の版木に枡目《ますめ》を刻み、美濃紙《みのがみ=紙質が強く半紙より大判の上質紙、美濃の国の産物》に朱色で刷った原稿用紙を作らせ、藤村がもう一度こんどは毛筆の楷書で丁寧に書き直した。私は学生時代志賀に帰ってこれを何回も読んだので、「破戒」という小説は活字で読んだことがない。「破戒」というと、あの朱で罫《けい》の引かれた美濃紙の原稿用紙に独特の風格で書かれた美しい楷書の文体が、そのまま小説の内容として頭に浮かんでくるのである。

 こうして、藤村の出世作「破戒」は、上田屋から明治三十九《1906》年三月「緑蔭叢書《りょくいんそうしょ》」第一編として自費出版され、絶賛を博した。直ぐに七月、小山内薫《おさないかおる》の脚色演出で伊井蓉峰《いいようほう》一座により、真砂座《まさござ》で上演された。その後、「春」、「家」と次々に名作を発表して文壇に不動の地歩《ちほ=地位》を築いていくのであるが、ここまでに到達するまえ七年間小諸の寓居で「落梅集」、「旧主人」をはじめ、「破戒」もその上で書かれた簡素な松村の机は、小諸を去る時、原稿そのものや愛用の硯《すずり》などと一緒に、お礼のための記念品として父に贈られてきた。私は高等学校の受験で志賀に浪人生活中、一年間その上で勉強して山形高等学校に合格させてもらったので、この机には恩義を感じている。

 その後藤村は、昭和十《1935》年に「夜明け前」を完成してから、「日本ペンクラブ会長」に就任、昭和十一《1936》年「朝日文化賞」を受賞、昭和十五《1940》年「帝国芸術院会員」を受諾するなど、急速に社会的繁忙を極めるようになったが、この間も含め、父は四十年の間に二百三十八通の手紙を藤村から受け取っている。

 私が物心ついた頃は、先生の作家活動に最も油が乗りきっていた時代で、実業之日本社や春陽堂から「島崎藤村集」が出たり、小諸懐古園に「千曲川旅情の歌」の藤村詩碑ができたりした時分である。この時、昭和二《1027》年七月、詩碑の建立に立ち会った長男楠雄さんと三男蓊助さんが上田の家に寄って、団扇《うちわ》をバタバタさせながら、兄達と談笑していた情景が目に浮かんでくる。二男鶏二さんや柳子さんも来た事があるが、その頃美術学校の学生だった鶏二さんの風格に憧《あこが》れた私は、府立五中を出る頃、美術学校を受けたいと言って、長兄からえらく怒られたことを覚えている。

 何れにしても、子供の頃、父や母と一緒に囲む夕餉《ゆうげ》の食卓では、話題に島崎先生の話が出ることが多かったので、私は今でも文豪「島崎藤村」のことを先生と言ってしまう。

 以上、父と島崎藤村との関わりについて述べてきたが、前述したように父は非常に懐の広い人だったので、知人の人脈にもまた多士済々なものがあった。父の招きに応じて志賀村の「赤壁の家」を訪れて下さった方は、島崎藤村、高浜虚子の外私の知る限りでも、三宅克己、丸山晩霞、田山花袋、小山内薫、有島生馬、柳田国男、室生犀星などの方々がある。
 大正十一年九月には、東久邇宮《ひがしくにのみや》聡子内親王殿下も来臨されている。

 すべてもう故人となってしまわれたこれらの方々とともに、父と島崎先生のご冥福《めいふく》をお祈り申し上げたいと思う。

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