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『ねえやさん』の思い出 大正14年生まれのY

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/13 8:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 どこの家でもと云うわけではないが、当時の阿佐ヶ谷(東京都杉並区)では、子供の足で徒歩15分以内の地域では大抵、女中さんがいて、『ねえやさん』と呼ばれていた。私の家では、大伯父のところから下げ渡しがあり、私が5歳から16歳になるまでの間、『ねえやさん』がいたように思う。
 最初の方に縁談があり、辞めることになったが、引継ぎでその妹さんが上京したので、暫くの間、(たぶん一年くらいと思うが)我が家に『ねえやさん』が二人という贅沢《ぜいたく》な時代が出現した。成人してはじめて知ったことだが、『ねえやさん』というのは、家庭が貧しく、家で面倒が見切れないから来るのではなく、標準語を覚えるため、都会の生活を体験するため、料理を覚えるため、ミシンを使う「洋裁」を習うため、礼儀作法を身に付ける為、というのが目的だったようだ。
 行った先の家では、掃除洗濯、風呂焚《た》き、料理の手伝い、皿洗い、お使いなどをさせられた。その対価として、月々の給金をもらい、盆暮れにはボーナス代わりに和服の反物などを貰《もら》った。さらに、洋裁学校の夜学に通わせてもらったりもした。私は当時5歳から16歳くらいで、父は会社ではまだ主任程度の地位であったが、女中を雇うということは、別に贅沢なことではなく、大手企業で働くサラリーマンとしては、ごく普通のことであった。
 戦後一家は兵庫県に疎開《そかい=空襲の被害を避けて農村などに住まいを移す》し、私一人が焼け残った東京に、一人暮らしを始めたが、まず困ったのは主食の米だった。そこで縁をたどって、新潟県直江津にある『ねえやさん』の実家を訪ねた。その時のいでたちだが、大型のリュックサックを背負い、手にはボストバッグを提げていたように思う。『ねえやさん』の実家はかなり辺鄙《へんぴ=片田舎》なところで、直江津からバスで40分、更にそこから徒歩で30分と云うところだった。ところが着いて見てビックリした。堂々たる冠木門《上方に冠木を渡した屋根のない門》に丈の高い木の垣根に取り囲まれた、300坪以上はありそうな大邸宅だったのである。お初にお目にかかったお父さんに、丁重に挨拶《あいさつ》し、心ばかりの土産を渡し、四方山の話に時を忘れた。夕食には山海の珍味が並び、久しぶりに鱈腹《たらふく》飯が食えた。いよいよ就寝の時間になると、お父さんから『ねえやさん』に「お前、今夜は座敷で”、おぼっちゃま”と一緒に寝て差し上げなさい」という嬉しい言葉。その座敷は、なんと16畳もあり、床の間は勿論《もちろん》、大きな違い棚があり、押入れはと見ると、全部反対側に作られているのだった。布団に入ると、あり難いことに、足先に置炬燵《おきこたつ=やぐらの中に火を入れた小型のあんか》が置かれていたが、その他にも部屋の奥に大きな火鉢まであり、私にはふつうの家と云《い》うより、高級旅館のように感じられた。一方自分はと見ると、終戦直後の昭和21年のことでもあり、背広もなく、着古しの国民服姿で、自分がみすぼらしく見え、大変恥ずかしかった。一晩泊めてもらい、翌朝8貫目(約30キログラム)の白米を頂き、帰路についたが、『ねえやさん』が、わざわざバス停まで送ってくれた。しかも近道を通ってくれたので、たった20分で着いた。生憎バスが遅れたので、それを利用して、20分位のあいだ、昔話に打ち興じた。あとで思ったことだが、自分は子供のころ、こんな豪農のお嬢さんを前にして「ねえや!!なんだよ、これは!」などと怒鳴りつけたりして、ほんとうに申し訳なかった、とつくづく思った。


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