歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄
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投稿日時 2008/6/17 7:38
編集者
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---はじめに---
この原稿は、とんぼさんより関係者の了解を得て頂いた上で掲載するものです。
メロウ伝承館スタッフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
玉砕の島から堂々復員、天皇陛下に拝謁を賜った栄光の聯隊
(遺稿)
歩兵第五十九聯隊
パラオ作戦外史抄
聯隊本部付
陸軍大尉 井上 英雄
「編注」
-本稿は『栄光の五九聯隊」なる聯隊史よりの抜粋であるが、著者の井上英雄氏は、広島陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進み、昭和16年7月卒業(55期)後、見習士官として満洲チチハル駐屯の第14師団宇都宮歩兵第五十九聯隊に配属、同年10月陸軍少尉、聯隊旗手《れんたいきしゅ》、昭和18年3月陸軍中尉、昭和19年3月同聯隊の南方転出に伴い、チチハル出発、本部付(作戦主任)として同年4月パラオ諸島アンガウル島へ進駐、同年8月パラオ本島へ転進、同年12月陸軍大尉、翌20年8月終戦、昭和21年2月に復員したのであるが、同聯隊は、昭和19年9月米軍のペリリユー島上陸後も、同島奪回のための逆上陸作戦計画をしばしば進めようとしたが、同年11月24日ペリリユー守備隊の玉砕後は、パラオ本島の防備を強化し、食料欠乏の悪条件下にあっても旺盛なる士気を保持し、遂に終戦を迎えても軍の統制を維持して自主管理を続け、翌21年2月、米軍のLSTに乗船して同月17日夕刻、無事横須賀・馬堀海岸に上陸したが、その後も階級章を付けたまま兵舎において規律ある軍隊生活を続け、同月21日に、神奈川県下初御巡幸の昭和天皇に拝閲の栄を賜った唯一の聯隊である。
井上英雄氏は復員後、昭和29年4月株式会社潤工社を創立、代表取締役社長に就任し、「企業は社会の公器」との信念の下、世間の常識に超然とし、凛《りん》とした姿勢を貫かれ、世の中の価値観が如何に変化しようとも絶対に変えてはいけない、天地自然の道理に基づいた哲学を経営の現場で実行された経営者であった。そして、昭和56年9月16日に膵臓癌のため59歳の若さで逝去されるまで、一貫してその経営哲学を実践し、社内はもちろん、業界の厚い信頼を保持された。」
◇ ◇ ◇
(前 言)
第十四師団のパラオ作戦については、ペリリユー、アンガウル島の激戦を中心に、いろいろの本にまとめられ、既に人口に膾灸《》《かいしゃ》されているところでありますが、その間、歩五十九の主力は何をしていたかは、あまり知られておりませんので、この際、その点を明らかにして見たいと思います。
歩兵第五十九聯隊のパラオ作戦と言えば昭和十九年二月、チチハルにおける動員下令に始まるわけですが、今回はその前半を省略して、主としてアンガウル戦闘の始まる直前の状況から話を進めてまいります。
当時私は、聯隊本部付として作戦関係を担当していました関係上、比較的全般の状況を知っておりましたし、日誌もつけていましたので、その中から重要と思われる部分を抜き書きしてまとめてみました。
拙文で読みずらい点も多々あるとは思いますが、何等かのお役に立てば、幸甚に思います。
編集者
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一 歩兵五十九聯隊主力のアンガウル島より本島への移動経緯
昭和十九年七月二十五日、コロール地区ならびにペリリユー島へ敵機動部隊による空襲があり、翌二十六日翌々二十七日の両日は、前記地区以外に、アンガウル島に対しても終日にわたり空襲と、浮上潜水艦による艦砲射撃が行われた。
当時三十一軍司令官小畑英良中将ならびに参謀副長を基幹とする若干の幕僚は、パラオ地区視察後サイパンに帰還する予定であったが、敵のサイパン上陸のためグアム島に留まることを余儀なくされ、しかも、グアム島自体も既に玉砕
《ぎょくさい=全員死亡覚悟の突撃》の寸前に追い込まれていたのである。
前記七月二十六~七日の空襲前、在グアム三十一軍参謀副長より集団司令部(第十四師団司令部)宛に電信があり「アンガウル島に一ケ聯隊を置くより、むしろその主力をパラオ本島南地区に移動せしめ、アイライ飛行場の守備に任ずべし」と指示をして来たのである。
集団司令部としては、直ちにアンガウル守備隊長である歩兵第五十九聯隊長江口大佐に対し、一個大隊を残置し主力はパラオ本島南地区に移動するよう、取りあえず打電した。
これに対し、江口八郎大佐は反対の意見を具申した。
理由は二つある。
その一つは、聯隊が軍旗を奉じてアンガウル島に歩を進めて以来、アンガウル島そのものを戦場と心得、配備計画も終わり、全員一致して陣地構築《じんちこうちく》
に専念して来たが、その心の中には、軍旗を中心に聯隊全員死なば諸共にとの覚悟があらばこそであり、今更一個大隊のみを残置するのは誠に忍び得ないものがあると言うことである。
またその上には、アンガウル島の守備計画は一個聯隊を基に立ててあり、既に陣地構築の大半を終了している。
しかるにそれを一個大隊に変更した場合は、ちょうど大人の着物を子供に着せたようなもので、敵の来襲近きを予測する今日、とても修正が間に合わないのみならず、戦略的に見て、一個大隊を残すくらいなら、むしろ一兵をも置く必要がないのではないかという疑問である。
これに対し集団司令部では、海軍の汽艇《きてい》にて作戦主任参謀中川大佐をアンガウル島に派遣し、江口大佐の説得にかかったのである。
江口大佐も命令であるうえ、中川参謀の熱意ある説得には如何ともしがたく、第一大隊をアンガウル守備隊とし、主力は直ちにパラオ本島に移動すべく命令を下達したのである。
かくて江口大佐は、アンガウル小学校校庭に整列する第一大隊長後藤丑雄少佐以下大隊全員に声涙共に下る訣別《けつべつ》の辞を述べた後、七月末より八月中旬にかけて、パラオ本島への移動を完了したのである。
この移動も当時ホーランジア(ニューギニア西部) を基地とするB24の空襲を避けて、主として夜間を利用して行われ、しかも通常の港である西港が波浪高きため使用できず、港とは名ばかりの東港を利用せざるを得なかったのである。
昭和十九年七月二十五日、コロール地区ならびにペリリユー島へ敵機動部隊による空襲があり、翌二十六日翌々二十七日の両日は、前記地区以外に、アンガウル島に対しても終日にわたり空襲と、浮上潜水艦による艦砲射撃が行われた。
当時三十一軍司令官小畑英良中将ならびに参謀副長を基幹とする若干の幕僚は、パラオ地区視察後サイパンに帰還する予定であったが、敵のサイパン上陸のためグアム島に留まることを余儀なくされ、しかも、グアム島自体も既に玉砕
《ぎょくさい=全員死亡覚悟の突撃》の寸前に追い込まれていたのである。
前記七月二十六~七日の空襲前、在グアム三十一軍参謀副長より集団司令部(第十四師団司令部)宛に電信があり「アンガウル島に一ケ聯隊を置くより、むしろその主力をパラオ本島南地区に移動せしめ、アイライ飛行場の守備に任ずべし」と指示をして来たのである。
集団司令部としては、直ちにアンガウル守備隊長である歩兵第五十九聯隊長江口大佐に対し、一個大隊を残置し主力はパラオ本島南地区に移動するよう、取りあえず打電した。
これに対し、江口八郎大佐は反対の意見を具申した。
理由は二つある。
その一つは、聯隊が軍旗を奉じてアンガウル島に歩を進めて以来、アンガウル島そのものを戦場と心得、配備計画も終わり、全員一致して陣地構築《じんちこうちく》
に専念して来たが、その心の中には、軍旗を中心に聯隊全員死なば諸共にとの覚悟があらばこそであり、今更一個大隊のみを残置するのは誠に忍び得ないものがあると言うことである。
またその上には、アンガウル島の守備計画は一個聯隊を基に立ててあり、既に陣地構築の大半を終了している。
しかるにそれを一個大隊に変更した場合は、ちょうど大人の着物を子供に着せたようなもので、敵の来襲近きを予測する今日、とても修正が間に合わないのみならず、戦略的に見て、一個大隊を残すくらいなら、むしろ一兵をも置く必要がないのではないかという疑問である。
これに対し集団司令部では、海軍の汽艇《きてい》にて作戦主任参謀中川大佐をアンガウル島に派遣し、江口大佐の説得にかかったのである。
江口大佐も命令であるうえ、中川参謀の熱意ある説得には如何ともしがたく、第一大隊をアンガウル守備隊とし、主力は直ちにパラオ本島に移動すべく命令を下達したのである。
かくて江口大佐は、アンガウル小学校校庭に整列する第一大隊長後藤丑雄少佐以下大隊全員に声涙共に下る訣別《けつべつ》の辞を述べた後、七月末より八月中旬にかけて、パラオ本島への移動を完了したのである。
この移動も当時ホーランジア(ニューギニア西部) を基地とするB24の空襲を避けて、主として夜間を利用して行われ、しかも通常の港である西港が波浪高きため使用できず、港とは名ばかりの東港を利用せざるを得なかったのである。
編集者
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二 パラオ本島南地区に移動した初期の状況
初めは、瑞穂村(本島西南部) に本部を置き、南地区全般の兵用地誌を調査の後、聯隊本部を南地区のほぼ中央にある、エリギー川の川口近くに置き、主力をその周辺地区に集結し、何時でもアイライ飛行場へ出撃し得る態勢とし、これを支援し得るように、砲兵は東西両翼に各一個中隊を配置したのである。
また、地区隊として指揮下に入った大里大隊は、アイライ・コイグルの両海岸線に配備し、コロール島との連接の要点であるアリミズ水道地区には、第三大隊の広瀬中隊をして、その守備に当たらせたのである。
なお、新たに指揮下に入った海軍部隊も、それぞれその特性に応じて配備し、歩兵第五十九聯隊を中核とする南地区隊の準備は、九月初めに完了した。ただし、アンガウル島の場合と異なり、海岸線の守備に任ずる部隊は別として、聯隊主力は陣地構築などすることなく、打撃部隊として専ら出撃訓練に徹底したのである。
三 ペリリユー並びにアンガウル
両島の戦闘開始前後の状況八月下旬より連日にわたり、B24の来襲あり、敵の作戦近きを思わせたが、九月六日、グラマン戦闘機を主体とする攻撃が始まり、機動部隊の接近が察知され、旬日をでずして上陸が開始されるものと判断した。
九月十五日、敵はペリリユー島に上陸を開始すると共に、パラオ本島マルキヨク地区へ艦砲射撃《かんぽうしゃげき》を実施、南地区隊としては、敵の上陸を予測し、蜂巣少尉を将校斥候《しょうこうせっこう》としてマルキヨク方面の道路並びに地形偵察を実施せしめ、何時にても同方面に出撃し得るよう準備を進めたのである。
九月十七日、敵は更にアンガウル島に上陸を開始したが、本島に対しても攻撃の手を伸ばすことあらんと判断し、同二十一日、南地区配備の件につき、現地視察と連絡を兼ねて、アリミズ水道地区に広瀬大尉を訪ね、次いで南地区に最も近く所在し、作戦上、連繋《れんけい》を要する歩兵第十五聯隊飯田大隊を訪れ、大隊長と南地区における作戦について、意志の疎通《そつう》を図った。
当日は同大隊本部に宿泊したが、飯田少佐と、折から来訪した村堀中尉(ペリリユー島逆上陸先遣中隊長)と三人で夕食を共にしていろいろ打ち合わせをしたが、翌日の夜よりの同大隊の逆上陸作戦については、何等知るところはなかったのである。
初めは、瑞穂村(本島西南部) に本部を置き、南地区全般の兵用地誌を調査の後、聯隊本部を南地区のほぼ中央にある、エリギー川の川口近くに置き、主力をその周辺地区に集結し、何時でもアイライ飛行場へ出撃し得る態勢とし、これを支援し得るように、砲兵は東西両翼に各一個中隊を配置したのである。
また、地区隊として指揮下に入った大里大隊は、アイライ・コイグルの両海岸線に配備し、コロール島との連接の要点であるアリミズ水道地区には、第三大隊の広瀬中隊をして、その守備に当たらせたのである。
なお、新たに指揮下に入った海軍部隊も、それぞれその特性に応じて配備し、歩兵第五十九聯隊を中核とする南地区隊の準備は、九月初めに完了した。ただし、アンガウル島の場合と異なり、海岸線の守備に任ずる部隊は別として、聯隊主力は陣地構築などすることなく、打撃部隊として専ら出撃訓練に徹底したのである。
三 ペリリユー並びにアンガウル
両島の戦闘開始前後の状況八月下旬より連日にわたり、B24の来襲あり、敵の作戦近きを思わせたが、九月六日、グラマン戦闘機を主体とする攻撃が始まり、機動部隊の接近が察知され、旬日をでずして上陸が開始されるものと判断した。
九月十五日、敵はペリリユー島に上陸を開始すると共に、パラオ本島マルキヨク地区へ艦砲射撃《かんぽうしゃげき》を実施、南地区隊としては、敵の上陸を予測し、蜂巣少尉を将校斥候《しょうこうせっこう》としてマルキヨク方面の道路並びに地形偵察を実施せしめ、何時にても同方面に出撃し得るよう準備を進めたのである。
九月十七日、敵は更にアンガウル島に上陸を開始したが、本島に対しても攻撃の手を伸ばすことあらんと判断し、同二十一日、南地区配備の件につき、現地視察と連絡を兼ねて、アリミズ水道地区に広瀬大尉を訪ね、次いで南地区に最も近く所在し、作戦上、連繋《れんけい》を要する歩兵第十五聯隊飯田大隊を訪れ、大隊長と南地区における作戦について、意志の疎通《そつう》を図った。
当日は同大隊本部に宿泊したが、飯田少佐と、折から来訪した村堀中尉(ペリリユー島逆上陸先遣中隊長)と三人で夕食を共にしていろいろ打ち合わせをしたが、翌日の夜よりの同大隊の逆上陸作戦については、何等知るところはなかったのである。
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四 集団繚力を挙げての逆上陸計画
十月初め、集団は総力を挙げてペリリユー島へ逆上陸をする計画を定め、時期は十月に多発する暴風雨の夜として各部隊にその準備の命令を下達し、十月八日、集団司令部において右作戦の細部について打ち合わせを行ったのである。これに基づき歩五九においては、十月十日夜暁部隊と逆上陸のための乗船地などの件について打ち合わせを行い、次いで部隊全員に対しては、乏しい食糧の中からなるべく栄養を補給するよう指示を与え、体力の方面からも、この作戦の準備を進めていたのである。この逆上陸は、兵数も多く、しかも同時発進の関係もあるので、予定乗船地をマラカル埠頭(コロール島)と定め、海軍部隊進藤大尉の応援を得て、十月十八日頃同埠頭付近の地形偵察を行い、部隊の集結地などについて腹案を決定したのであった。
かくて歩五九としては、集団の逆上陸実施命令を待つのみの態勢となり、十月下旬には戦闘訓練と士気の高揚を目的として中隊検閲を実施し、決戦の日を今や遅しと待機していたのである。
また、島嶼作戦の特殊性及び海空軍の支援絶無の状態における作戦のため、特殊編成の斬込隊戦闘要領を作成し、同訓練を連日にわたり実施したのである。しかし、残念ながらこの作戦は、遂に実施されなかった。戦況の推移に伴い、計画の変更を余儀なくされたと思われるのであるが、その作戦変更の証《あか》しとして、集団は歩五九に対し現地召集の人員を含めて第四大隊の編成を求めてきたのである。かくて、十一月中旬聯隊は、加藤大尉を大隊長とする第四大隊の編成を完了し、後藤大隊なきあと、二個大隊編成であったものが、再び三個大隊となったのである。
五 昭和十九年十二月以降における集団の作戦方針の推移
十一月二十四日ペリリユー守備隊が玉砕した頃より、集団においては、従来の水際撃滅作戦《みずぎわげきめつさくせん》より持久戦的思想に移行したもののように思われる。特に二十年二月には、はっきりとその思想を打ち出し、パラオ本島の中核部に複郭陣地《ふくかくじんち》の構想を示したのである。この間ペリリユー、アンガウルを基地とする、敵海防艦《》による本島周辺の牽制《けんせい》に対しては、現地召集の沖縄県出身の漁師を中心に、「海のシラミ」と称する特攻隊を編成して、爆薬を抱えて港泳により適艦に接近してこれを爆破する作戦を展開し、幾多の戦果を上げたのである。しかし、これも敵の警戒が厳重になるに従い、困難の度合いを増して来たので、歩兵砲による夜間攻撃を決定し、三月初めには、歩五九より小宮山中尉を長とする聯隊砲一門をウルクタープル島に送り、昼間は敵に遮蔽《しゃへい》し、夜間には付近を航行する敵海防艦を砲撃させたのである。また、ペリリユー島の北に連なるガラゴン島へ歩十五の仁平少尉を長とする斬り込み隊を投入し、立派な戦果を上げたことは、全集団の士気を高揚し、特筆に価するものであった。
ペリリユー島を奪取《だっしゅ》以来、同島の飛行場を基地として連日の如くF4U戦闘機を主体とする攻撃があったが、当方も適時に対空砲火を交え、多少の戦果を上げると共に、若干の損害を受けたが、戦局に大きな影響を与えるものはなかった。
十月初め、集団は総力を挙げてペリリユー島へ逆上陸をする計画を定め、時期は十月に多発する暴風雨の夜として各部隊にその準備の命令を下達し、十月八日、集団司令部において右作戦の細部について打ち合わせを行ったのである。これに基づき歩五九においては、十月十日夜暁部隊と逆上陸のための乗船地などの件について打ち合わせを行い、次いで部隊全員に対しては、乏しい食糧の中からなるべく栄養を補給するよう指示を与え、体力の方面からも、この作戦の準備を進めていたのである。この逆上陸は、兵数も多く、しかも同時発進の関係もあるので、予定乗船地をマラカル埠頭(コロール島)と定め、海軍部隊進藤大尉の応援を得て、十月十八日頃同埠頭付近の地形偵察を行い、部隊の集結地などについて腹案を決定したのであった。
かくて歩五九としては、集団の逆上陸実施命令を待つのみの態勢となり、十月下旬には戦闘訓練と士気の高揚を目的として中隊検閲を実施し、決戦の日を今や遅しと待機していたのである。
また、島嶼作戦の特殊性及び海空軍の支援絶無の状態における作戦のため、特殊編成の斬込隊戦闘要領を作成し、同訓練を連日にわたり実施したのである。しかし、残念ながらこの作戦は、遂に実施されなかった。戦況の推移に伴い、計画の変更を余儀なくされたと思われるのであるが、その作戦変更の証《あか》しとして、集団は歩五九に対し現地召集の人員を含めて第四大隊の編成を求めてきたのである。かくて、十一月中旬聯隊は、加藤大尉を大隊長とする第四大隊の編成を完了し、後藤大隊なきあと、二個大隊編成であったものが、再び三個大隊となったのである。
五 昭和十九年十二月以降における集団の作戦方針の推移
十一月二十四日ペリリユー守備隊が玉砕した頃より、集団においては、従来の水際撃滅作戦《みずぎわげきめつさくせん》より持久戦的思想に移行したもののように思われる。特に二十年二月には、はっきりとその思想を打ち出し、パラオ本島の中核部に複郭陣地《ふくかくじんち》の構想を示したのである。この間ペリリユー、アンガウルを基地とする、敵海防艦《》による本島周辺の牽制《けんせい》に対しては、現地召集の沖縄県出身の漁師を中心に、「海のシラミ」と称する特攻隊を編成して、爆薬を抱えて港泳により適艦に接近してこれを爆破する作戦を展開し、幾多の戦果を上げたのである。しかし、これも敵の警戒が厳重になるに従い、困難の度合いを増して来たので、歩兵砲による夜間攻撃を決定し、三月初めには、歩五九より小宮山中尉を長とする聯隊砲一門をウルクタープル島に送り、昼間は敵に遮蔽《しゃへい》し、夜間には付近を航行する敵海防艦を砲撃させたのである。また、ペリリユー島の北に連なるガラゴン島へ歩十五の仁平少尉を長とする斬り込み隊を投入し、立派な戦果を上げたことは、全集団の士気を高揚し、特筆に価するものであった。
ペリリユー島を奪取《だっしゅ》以来、同島の飛行場を基地として連日の如くF4U戦闘機を主体とする攻撃があったが、当方も適時に対空砲火を交え、多少の戦果を上げると共に、若干の損害を受けたが、戦局に大きな影響を与えるものはなかった。
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六 食糧事情の悪化から作戦農耕に至る状況
昭和十九年十一月頃より、地区隊における食糧事情は逐次悪化の傾向を辿り、二十年一月頃には体位の低下も目に見えてはっきりして来た。しかるに集団司令部としては、第一線部隊は訓練に徹底すべきで、農耕などに力を注ぐべからずとの強い方針であった。これは無意味な形式論であり、むしろ体力の保持なくして何の作戦ぞやと言うべきで、この誤りが後に多くの栄養失調死亡者を出し、また、作戦農耕開始の時期を失したるのみならず、全般の士気に与えた影響は大きかったと思われるのである。当時、米の補給については、各中隊より強健なる兵を数名乃至十数名選び、糧秣《りょうまつ》補給所より10km以上にわたる山道を、人力による運搬に頼らざるを得なかった。しかも、その強健と言われる兵においてすら、肋骨が表面に現れ、さながら洗濯板の状況を呈したのである。特に集団全般として問題があったのは、食糧事情が部隊によって大きな較差があったことである。すなわち、第一線部隊において最も欠乏し、後方部隊は十分とは言えないまでも相当の余裕を持っていたのである。のみならず、米の受領に行く第一線部隊の兵に対し、糧秣補給所の態度は、極めて不遜《ふそん》なものがあり、そのためのトラブルを生じたこともあった。当時の日誌によると、二十年一月十六日には、師団参謀より、糧秣補給所において、歩五九の兵が不穏の態度を取ったので注意するようにとの指示があった。これに対し、この原因はむしろ集団の施策の誤りであることを指摘し、補給所の一方的報告により判断されぬよう強く進言したのである。
このような状況の中で地区隊における各中隊は、時折補給される米では栄養の補給はもちろん、空腹感すら満足することができず、訓練の傍ら、中隊毎に野草収集班を編成し、バナナの地下茎、ビンローの芽、蛇木(羊歯類の一種)などを集めて食用に供していたのである。一月の下旬、聯隊において召集兵の集合教育を行うに際し、砲兵中隊長丸山大尉から「召集兵の教育は必要とは思うが、それよりむしろ体力向上の方が急務である。体力の向上が直ちに戦力である現在、もし召集兵の集合教育を実施するならば、その間他の兵に対する負担は益々増加し、給与の低下に伴い、人員の自然淘汰の状況になるであろう。」との意見具申があったが、その当時の実情を適切に言い得たものと思われる。かくして食糧に関するトラブルが時折起こるようになり、例えば、某隊における軍馬の屠殺《とさつ》、あるいは作戦糧秣の盗用などがあったが、さすが南地区隊としては大きな問題も起こらず、三月頃より一部で自活方法を講ずるの巳むなきに至ったのである。
右のような状況で推移するうちに、四月には歩五九のみで約百名に近い栄養失調による死亡者を出し、ここに至っては現地自活を積極的に推進し、農耕による食糧問題の解決を図らざるを得ない状況になったのである。しかし、決心したからといって、直ちに好転する訳には行かない。六月六日の日誌には次のようなデータが残っている。五月中の死亡者八十一名、当日現在の入院患者百六十三名、健康者の体力は、在満当時に比し約50%とある。当時の栄養失調患者の一例を挙げると、健康時、体重60kgに近い者が40kgを割り、このような状態になると、どのような栄養食を与えても内蔵器官が受け付けず、単に素通りするのみで、あとは唯死を待つのみ、誠に哀れと言わざるを得ない有様であった。
六月八日には集団の後方参謀である泉参謀に随行、農耕地を案内したが、兵の食事たるや米とは名のみ主体は甘藷の葉であり、一個中隊における健康者は僅かに十数名を数えるのみで、それとても平時ではとても健康者と言えるものではなかった。当日の日誌に「ああ最も精鋭であるべき第一線部隊の兵は痩せ衰え、死者そのあとをたたず、後方部隊や軍夫《ぐんぷ》は肥ゆ、何の姿ぞやおそるべし」と。ここに至り、集団も、その容易ならざる事態に眼を開き、六月下旬に至って、ついに集団挙げての作戦農耕に踏み切る決心をしたのである。
かくして七月に入り、農耕地を考慮に入れた地区隊の境界変更が行われ、地区隊においても土質環境を勘案して農地の再分配を行い、堆肥《たいひ》の製造なども併せ実施して農耕に徹したのであるが時既に遅く、食糧事情について大いなる成果を上げることができないまま終戦を迎えたのである。
七 終戦前後の状況
食糧事情の悪化に伴う士気の低下は巳むを得ないものがあり、七月には一、二名の好泳による敵海防艦への投降があったが、これは他の部隊のことであり、南地区隊としては、依然、皇国必勝の信念は固く、広島への原子爆弾の投下、ソビエトの参戦などの情報は入手していたが、いささかも動揺することはなく、よもや終戦になるとは夢にも思っていなかったのである。
八月十日過ぎ頃中川参謀より、一部朝鮮人部隊(軍夫)に不穏の動きあるとの情報を知らされ、地区隊としても厳に警戒するよう注意されたが、彼等は鋭敏《えいびん》に終戦への動きを感じ取っていたのではあるまいか。
八月十五日夜中川参謀より電話があり、聯隊長共々明朝九時までに司令部に出頭せよとの指示を受けたが、当時聯隊長は背部腫瘍のため歩行困難な状況にあり、その旨申し述べたところ、重大問題の発表がある故、万難を排して出席されたしとのことで、巳むを得ず聯隊長に当番兵のほか、担架を準備し、夜半に出発、約八時問を要して司令部に到着したのである。その間聯隊長は終始歩行を続け、遂に担架は利用することがなかった。司令部に到着直前、師団通信隊の将校から終戦の事実を囁かれたが、聯隊長には報告することなく、司令部会議に臨んだのである。
この会議において、参謀長より終戦のことを聞かされ、次いで全員慟哭《ぜんいんどうこく》の中で、勅命ならば徒に軽挙妄動《けいきょもうどう》を戒め、この上は一兵も損ずることなく故国の地を踏ませることを唯一の任務と心得て、終戦の処理に当たるようとの切なる指示を受けて散会したのである。
八月十七日頃、敵はアイライ飛行場に通信筒を投下したが、井上集団指令閣下と表記してあり、直ちに深堀大尉を伝令として司令部に持参させたのである。その内容は現地における終戦交渉に応ずる意志の有無を質して来ているので、応諾の意を伝えるため、翌早朝聯隊本部の兵数名を伴い、アイライ飛行場に白布をもって十字を描いたのである。
集団司令部と米軍との終戦交渉は、敵の艦上で行われたのであるが、この交渉に当たった井上司令官、多田参謀長の交渉内容、態度とも見事なものであり、集団は捕虜という卑屈な待遇を受けなかったのみならず、復員完了までは、パラオ本島には、連絡あるいは交渉の用務を待った者以外は、一兵たりとも米軍を上陸させなかったのである。これは、敗戦というショックにより、ややもすると自信を失い、弱気に陥りがちの全集団の将兵に対し、最後まで日本軍としての誇りを持たせる大きな原動力となつたものである。
しかし敗戦はあくまで敗戦である。武装解除に伴い、兵器はもとより将校の軍刀はすべて米軍に引き渡し、本島に蓄積された弾薬類は、日米両軍の協同作業により、あるいは海中投棄を行い、あるいは一地に集積後爆破処理をしてしまったのである。
そうした中で、歩五九においては、八月下旬、エリキー川中流川畔の聯隊長宿舎前の台地で、全将兵の見守る中、シベリア出兵、清洲事変、北支の戦蹄《せんてい》と輝かしい伝統に映える軍旗を奉焼したのである。しかし、軍旗の一部を細かく切って各自に分配し、今後の心の糧にと、涙の中で誓い合ったのである。
昭和十九年十一月頃より、地区隊における食糧事情は逐次悪化の傾向を辿り、二十年一月頃には体位の低下も目に見えてはっきりして来た。しかるに集団司令部としては、第一線部隊は訓練に徹底すべきで、農耕などに力を注ぐべからずとの強い方針であった。これは無意味な形式論であり、むしろ体力の保持なくして何の作戦ぞやと言うべきで、この誤りが後に多くの栄養失調死亡者を出し、また、作戦農耕開始の時期を失したるのみならず、全般の士気に与えた影響は大きかったと思われるのである。当時、米の補給については、各中隊より強健なる兵を数名乃至十数名選び、糧秣《りょうまつ》補給所より10km以上にわたる山道を、人力による運搬に頼らざるを得なかった。しかも、その強健と言われる兵においてすら、肋骨が表面に現れ、さながら洗濯板の状況を呈したのである。特に集団全般として問題があったのは、食糧事情が部隊によって大きな較差があったことである。すなわち、第一線部隊において最も欠乏し、後方部隊は十分とは言えないまでも相当の余裕を持っていたのである。のみならず、米の受領に行く第一線部隊の兵に対し、糧秣補給所の態度は、極めて不遜《ふそん》なものがあり、そのためのトラブルを生じたこともあった。当時の日誌によると、二十年一月十六日には、師団参謀より、糧秣補給所において、歩五九の兵が不穏の態度を取ったので注意するようにとの指示があった。これに対し、この原因はむしろ集団の施策の誤りであることを指摘し、補給所の一方的報告により判断されぬよう強く進言したのである。
このような状況の中で地区隊における各中隊は、時折補給される米では栄養の補給はもちろん、空腹感すら満足することができず、訓練の傍ら、中隊毎に野草収集班を編成し、バナナの地下茎、ビンローの芽、蛇木(羊歯類の一種)などを集めて食用に供していたのである。一月の下旬、聯隊において召集兵の集合教育を行うに際し、砲兵中隊長丸山大尉から「召集兵の教育は必要とは思うが、それよりむしろ体力向上の方が急務である。体力の向上が直ちに戦力である現在、もし召集兵の集合教育を実施するならば、その間他の兵に対する負担は益々増加し、給与の低下に伴い、人員の自然淘汰の状況になるであろう。」との意見具申があったが、その当時の実情を適切に言い得たものと思われる。かくして食糧に関するトラブルが時折起こるようになり、例えば、某隊における軍馬の屠殺《とさつ》、あるいは作戦糧秣の盗用などがあったが、さすが南地区隊としては大きな問題も起こらず、三月頃より一部で自活方法を講ずるの巳むなきに至ったのである。
右のような状況で推移するうちに、四月には歩五九のみで約百名に近い栄養失調による死亡者を出し、ここに至っては現地自活を積極的に推進し、農耕による食糧問題の解決を図らざるを得ない状況になったのである。しかし、決心したからといって、直ちに好転する訳には行かない。六月六日の日誌には次のようなデータが残っている。五月中の死亡者八十一名、当日現在の入院患者百六十三名、健康者の体力は、在満当時に比し約50%とある。当時の栄養失調患者の一例を挙げると、健康時、体重60kgに近い者が40kgを割り、このような状態になると、どのような栄養食を与えても内蔵器官が受け付けず、単に素通りするのみで、あとは唯死を待つのみ、誠に哀れと言わざるを得ない有様であった。
六月八日には集団の後方参謀である泉参謀に随行、農耕地を案内したが、兵の食事たるや米とは名のみ主体は甘藷の葉であり、一個中隊における健康者は僅かに十数名を数えるのみで、それとても平時ではとても健康者と言えるものではなかった。当日の日誌に「ああ最も精鋭であるべき第一線部隊の兵は痩せ衰え、死者そのあとをたたず、後方部隊や軍夫《ぐんぷ》は肥ゆ、何の姿ぞやおそるべし」と。ここに至り、集団も、その容易ならざる事態に眼を開き、六月下旬に至って、ついに集団挙げての作戦農耕に踏み切る決心をしたのである。
かくして七月に入り、農耕地を考慮に入れた地区隊の境界変更が行われ、地区隊においても土質環境を勘案して農地の再分配を行い、堆肥《たいひ》の製造なども併せ実施して農耕に徹したのであるが時既に遅く、食糧事情について大いなる成果を上げることができないまま終戦を迎えたのである。
七 終戦前後の状況
食糧事情の悪化に伴う士気の低下は巳むを得ないものがあり、七月には一、二名の好泳による敵海防艦への投降があったが、これは他の部隊のことであり、南地区隊としては、依然、皇国必勝の信念は固く、広島への原子爆弾の投下、ソビエトの参戦などの情報は入手していたが、いささかも動揺することはなく、よもや終戦になるとは夢にも思っていなかったのである。
八月十日過ぎ頃中川参謀より、一部朝鮮人部隊(軍夫)に不穏の動きあるとの情報を知らされ、地区隊としても厳に警戒するよう注意されたが、彼等は鋭敏《えいびん》に終戦への動きを感じ取っていたのではあるまいか。
八月十五日夜中川参謀より電話があり、聯隊長共々明朝九時までに司令部に出頭せよとの指示を受けたが、当時聯隊長は背部腫瘍のため歩行困難な状況にあり、その旨申し述べたところ、重大問題の発表がある故、万難を排して出席されたしとのことで、巳むを得ず聯隊長に当番兵のほか、担架を準備し、夜半に出発、約八時問を要して司令部に到着したのである。その間聯隊長は終始歩行を続け、遂に担架は利用することがなかった。司令部に到着直前、師団通信隊の将校から終戦の事実を囁かれたが、聯隊長には報告することなく、司令部会議に臨んだのである。
この会議において、参謀長より終戦のことを聞かされ、次いで全員慟哭《ぜんいんどうこく》の中で、勅命ならば徒に軽挙妄動《けいきょもうどう》を戒め、この上は一兵も損ずることなく故国の地を踏ませることを唯一の任務と心得て、終戦の処理に当たるようとの切なる指示を受けて散会したのである。
八月十七日頃、敵はアイライ飛行場に通信筒を投下したが、井上集団指令閣下と表記してあり、直ちに深堀大尉を伝令として司令部に持参させたのである。その内容は現地における終戦交渉に応ずる意志の有無を質して来ているので、応諾の意を伝えるため、翌早朝聯隊本部の兵数名を伴い、アイライ飛行場に白布をもって十字を描いたのである。
集団司令部と米軍との終戦交渉は、敵の艦上で行われたのであるが、この交渉に当たった井上司令官、多田参謀長の交渉内容、態度とも見事なものであり、集団は捕虜という卑屈な待遇を受けなかったのみならず、復員完了までは、パラオ本島には、連絡あるいは交渉の用務を待った者以外は、一兵たりとも米軍を上陸させなかったのである。これは、敗戦というショックにより、ややもすると自信を失い、弱気に陥りがちの全集団の将兵に対し、最後まで日本軍としての誇りを持たせる大きな原動力となつたものである。
しかし敗戦はあくまで敗戦である。武装解除に伴い、兵器はもとより将校の軍刀はすべて米軍に引き渡し、本島に蓄積された弾薬類は、日米両軍の協同作業により、あるいは海中投棄を行い、あるいは一地に集積後爆破処理をしてしまったのである。
そうした中で、歩五九においては、八月下旬、エリキー川中流川畔の聯隊長宿舎前の台地で、全将兵の見守る中、シベリア出兵、清洲事変、北支の戦蹄《せんてい》と輝かしい伝統に映える軍旗を奉焼したのである。しかし、軍旗の一部を細かく切って各自に分配し、今後の心の糧にと、涙の中で誓い合ったのである。
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八 戦場掃除について
昭和二十年八月以降年末にかけて、着々と復員準備を進めていたが、十二月になって、突然ニミッツ提督より、コロール島地区の戦場掃除を行うよう指示して来たのである。そこで、集団としては、歩十五、歩五十九に各約三有名を基幹とする戦場掃除部隊を編成し、その任に当たるよう命令したのである。
歩五十九においては、この命令に基づき、若い将校を主体に臨時編成の部隊を編成し、同年十二月末、江口聯隊長を先頭にコロール島アミオンス地区に移動を完了し、翌二十一年元旦の未明、全員水浴して喪を行い、心を新たにして新任務に就いたのである。この間、他の将兵は逐次パラオを去って故国への船路をとったのである。
この戦場掃除についても、米軍との間に協定はすれども命令は受けずの態度で日本軍の自主的方法によって作業に従事した。例えば、アミオンスの露営地には米軍の立入りを禁止し、全く平時の演習のような状況で終始作業を進めたのである。
当初、残留をさせられた兵の中には多少の不満もあったようだが、作業を進めるに従い、軍紀巌正《ぐんきげんせい》な中にも和気萬々として米軍を感嘆させるような見事な作業を実施し、戦火のため廃墟と化していたコロール地区を立派に清掃したのである。
二月八日帰還命令が発せられ、翌九日コロール波止場より歩五十九の戦場清掃部隊全員と歩十五の一部が米軍LSTに乗船し、幾多の思い出と戦友の血と涙の滲みたパラオに別れを告げたのである。
九 天皇陛下の行幸と歩兵五九聯隊の解散
昭和二十一年二月十七日朝、水平線上に富士山を見る。全員甲板に立ち、誠に感無量なるものがあった。夕刻無事馬堀海岸に上陸、直ちに兵舎に入ったが、復員局の連中にしてみれば、全員階級章を付けたままであったので、まず驚いたらしい。すぐにも階級章を取るよう指示して来たが、復員手続が終わって、この兵舎を出るまでは部隊を解散したわけではなく、その日まではあくまでも軍隊である、との信念でその指示を拒否したのである。
いままでPWの服を着けた復員部隊の多い中で、大変奇異に感じたものらしい。予てこのような状態も予測していたので、準備していた週番肩章《しゅうばんけんしょう》とラッパを持ち出し、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯などラッパをもって規制し、週番士官を置いて内務の責任を取らせたのである。しかも夜は軍歌演習を行い、営庭の中を隊伍堂々《たいごどうどう》と行進して士気の高揚を図り、最後の日本陸軍への別れを告げたのである。
当初は、この歩五九将兵の態度に対して内地の状況も知らない生意気者と思っていた復貞局の人々もその気持ちが分かると共に、驚異と尊敬の念をもって見るに至り、上陸後三日目に解散の規定にも拘わらず、陛下の行幸まで是非残られたしとの依頼により、解散を延期して二十一日に天皇陛下をお迎えすることになったのである。後で聞くところによると、これが戦後初めての行幸であり、歩五九将兵の前に立たせられ、何くれとなく親しく御下問になったのである。また、陛下の御下問に対する江口聯隊長の烈々たる答申ぶりは見事と言うほか形容のしようのないものであった。
かくて、翌二十二日朝、解散式を行い、ここに歩兵第五十九聯隊の歴史は完全に幕を閉じたのである。
◇ ◇ ◇
昭和二十年八月以降年末にかけて、着々と復員準備を進めていたが、十二月になって、突然ニミッツ提督より、コロール島地区の戦場掃除を行うよう指示して来たのである。そこで、集団としては、歩十五、歩五十九に各約三有名を基幹とする戦場掃除部隊を編成し、その任に当たるよう命令したのである。
歩五十九においては、この命令に基づき、若い将校を主体に臨時編成の部隊を編成し、同年十二月末、江口聯隊長を先頭にコロール島アミオンス地区に移動を完了し、翌二十一年元旦の未明、全員水浴して喪を行い、心を新たにして新任務に就いたのである。この間、他の将兵は逐次パラオを去って故国への船路をとったのである。
この戦場掃除についても、米軍との間に協定はすれども命令は受けずの態度で日本軍の自主的方法によって作業に従事した。例えば、アミオンスの露営地には米軍の立入りを禁止し、全く平時の演習のような状況で終始作業を進めたのである。
当初、残留をさせられた兵の中には多少の不満もあったようだが、作業を進めるに従い、軍紀巌正《ぐんきげんせい》な中にも和気萬々として米軍を感嘆させるような見事な作業を実施し、戦火のため廃墟と化していたコロール地区を立派に清掃したのである。
二月八日帰還命令が発せられ、翌九日コロール波止場より歩五十九の戦場清掃部隊全員と歩十五の一部が米軍LSTに乗船し、幾多の思い出と戦友の血と涙の滲みたパラオに別れを告げたのである。
九 天皇陛下の行幸と歩兵五九聯隊の解散
昭和二十一年二月十七日朝、水平線上に富士山を見る。全員甲板に立ち、誠に感無量なるものがあった。夕刻無事馬堀海岸に上陸、直ちに兵舎に入ったが、復員局の連中にしてみれば、全員階級章を付けたままであったので、まず驚いたらしい。すぐにも階級章を取るよう指示して来たが、復員手続が終わって、この兵舎を出るまでは部隊を解散したわけではなく、その日まではあくまでも軍隊である、との信念でその指示を拒否したのである。
いままでPWの服を着けた復員部隊の多い中で、大変奇異に感じたものらしい。予てこのような状態も予測していたので、準備していた週番肩章《しゅうばんけんしょう》とラッパを持ち出し、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯などラッパをもって規制し、週番士官を置いて内務の責任を取らせたのである。しかも夜は軍歌演習を行い、営庭の中を隊伍堂々《たいごどうどう》と行進して士気の高揚を図り、最後の日本陸軍への別れを告げたのである。
当初は、この歩五九将兵の態度に対して内地の状況も知らない生意気者と思っていた復貞局の人々もその気持ちが分かると共に、驚異と尊敬の念をもって見るに至り、上陸後三日目に解散の規定にも拘わらず、陛下の行幸まで是非残られたしとの依頼により、解散を延期して二十一日に天皇陛下をお迎えすることになったのである。後で聞くところによると、これが戦後初めての行幸であり、歩五九将兵の前に立たせられ、何くれとなく親しく御下問になったのである。また、陛下の御下問に対する江口聯隊長の烈々たる答申ぶりは見事と言うほか形容のしようのないものであった。
かくて、翌二十二日朝、解散式を行い、ここに歩兵第五十九聯隊の歴史は完全に幕を閉じたのである。
◇ ◇ ◇
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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編注
① NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館《ゆうしゅうかん》1階企画展示室において、「戦跡パラオ展-パラオに散った英霊たちー」(パラオの歴史と英霊展)という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。
一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年~一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。
第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治《しんたくとうち》下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。
このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。
この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」
② パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳《は》せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂《いれいちんこん》の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。
「ペ島の桜を琴える歌」
作詞 オキヤマ・トヨミ
ジョージ・シゲオ
作曲 トンミー・ウェンティ
一 激しく弾雨が 降り注ぎ
オレンジ浜を 血で染めた
強兵(つわもの)たちは 皆散って
ペ島(しま)は総て 墓となる
二 小さな異国の この島を
死んでも守ると 誓いつつ
山なす敵を 迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし 食糧(しょく)もない
四 日本の桜は 春いちど
見事に咲いて 明日は散る
ペ島の桜は 散り散りに
玉砕(ち)れども武勲は 永久(とこしえ)に
八 戦友遺族の 皆さまに
永遠(いついつ)までも かわりなく
必ず我等は 待ち望む
桜とともに 皆さまを
③ 米太平洋艦隊司令長官:ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕《ぎょくさい》したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C.W.こミッツ、と刻まれている。
(写真・上段 平和の礎(コロール島) 下段 59i連隊旗)
-完-
① NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館《ゆうしゅうかん》1階企画展示室において、「戦跡パラオ展-パラオに散った英霊たちー」(パラオの歴史と英霊展)という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。
一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年~一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。
第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治《しんたくとうち》下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。
このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。
この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」
② パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳《は》せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂《いれいちんこん》の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。
「ペ島の桜を琴える歌」
作詞 オキヤマ・トヨミ
ジョージ・シゲオ
作曲 トンミー・ウェンティ
一 激しく弾雨が 降り注ぎ
オレンジ浜を 血で染めた
強兵(つわもの)たちは 皆散って
ペ島(しま)は総て 墓となる
二 小さな異国の この島を
死んでも守ると 誓いつつ
山なす敵を 迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし 食糧(しょく)もない
四 日本の桜は 春いちど
見事に咲いて 明日は散る
ペ島の桜は 散り散りに
玉砕(ち)れども武勲は 永久(とこしえ)に
八 戦友遺族の 皆さまに
永遠(いついつ)までも かわりなく
必ず我等は 待ち望む
桜とともに 皆さまを
③ 米太平洋艦隊司令長官:ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕《ぎょくさい》したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C.W.こミッツ、と刻まれている。
(写真・上段 平和の礎(コロール島) 下段 59i連隊旗)
-完-