東京の小学生が見た「ニ、ニ六事件」・その1 大正生まれの Y
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投稿日時 2008/5/20 20:43
編集者
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投稿数: 4298
はじめに
この記録は、大正14年生まれの、Y氏から寄せられたもので、電車通学をしていた小学生時代の記憶をたよりに書いたものです。 なお、ここに登場する父親は丸の内のサラリーマンです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1.1936年(昭和11年)2月26日、私が満10歳のとき、東京で大変なことが起きた。
(1) 前日、荻窪のT君(M学園同級生)のお誕生日会があり駅に3時集合で誘われていた。
行く約束をしていたが、お腹が痛かったことと、午後から雪がたくさん降ってきたので、お宅へ電話していかないことにした。すごく寒い日でお茶の間の炬燵に入って庭に音もなく無数に舞う雪を見ていた記憶は今でもある。
なぜ、前日の話をするかというと、彼のお屋敷のまん前に当日射殺された渡辺教育総監のお邸があり、後日、当日早朝の出来事を聞くことになるからである。
(2) 朝起きてみると垣根、庭の樹木、向う三軒の屋根も白一色でもっこりしていた。
見えるものはすべてが雪で覆われ、北ぐにの景色のようだ。雪はすでにあがっていて、昨日より暖かだった。
母が「こんな大雪は阿佐ヶ谷に来てから初めてだ!」と云っていた。平日なので父は会社へ、私は学校へ行かねばならず、父とねえやさんで門の前まで雪掻きをしていたが「こんな凄いことはめったにない」と父が大声を出し、二人で同じことを何度も云っては頷きあっていた。母は私の弁当を作っていた。積雪は家の前で40cm以上あり、私ではくるぶしも埋まってしまうので無理であり、父だけ早めに出勤した。
(3) 約二時間後に父が戻ってきた。父の話によると大通りに出るまでは除雪用長靴(太ももの先まで入る格好の悪いもの)でももぐりそうな深さで確かめるように歩いても靴の上から雪団子が入り込んで困ったが、通りに出ると大勢の人が出てスコップを振り回している所が多く、20cmぐらいの積雪の小道が通りの中に出来て、ゆっくりなら歩けた。
駅に着くと10人以上の客が居て、駅員と盛んに問答していた。駅員の説明では『東京駅にも新宿保線区にも鉄道電話で尋ねたが、鉄道省からの指示で列車の出庫は総て見合わせている。尚保線区には再び省から電話が入り信号は、東京・三鷹間を上下線とも赤信号にせよとのこと。原因は分からぬがポイント(レールの転轍機)故障が各所で起きているのではないかと思う―――といっている』と説明していた。
(4) 客の中には「6時からラジオをつけていたが7時が過ぎても何も云わないので駅に聞けば分かると思い出て来た。杉並の警察署には電話したのか?」と聞き、帽子に金線の入った別の駅員が「駅のラジオも音がしないので、大きな事故が市の中心で起こったのか心配なので、人を出して聞きにやらせている。勿論交換台を通す普通電話も3度電話したが相手が出ないという事で使いを出したのだ。1時間ほど前に出たのでもう10分ほどで戻ると思う。(普通往復約20分の距離)」と云っている折に使いが帰ってきた。そして戻った駅員の云うには。
(5) 「警察署の電話は2本とも鳴りっぱなしだったが誰も取り次がなかった。署の話だと2階に警察電話が別にあって『早朝、中央から(多分警視庁から)電話で至急扱いの指示を受けた。軍関係で異変が起きた模様であるが、軍自身ですら全容を把握していない様子であり未だ伝達できないといっている。従って中央でも情報を収集中であるが、軍は正午にはラジオを通して国民に呼びかけるといっているので、それまでの間各署は所管地域の安全を守るため、地区の巡回を増やすとともに住民に対しては緊急用務以外は外出を控えるよう指導せよとのことである。従って各位は正午の放送があるまで自宅で待機されたい』とのお話でした。更に『尚、これは本署の当直が確認したものでは無く住民からの通報によるものであるが、本日払暁兵隊を満載したトラックが本署前の青梅街道を淀橋方面から荻窪方面へ通過したとの事であった』とのことでした」。駅の待合室の人数は20名を越えていたが、同じ情報を繰り返すだけなので夫々散っていき私(Y氏の父親)も引き返した来た。道の状況は通りの小道はさっさと歩けるようになってきたが、住宅街の各小道は相変わらず凄い状況だ。(注;当時の兵隊は2列または4列に隊を組み、徒歩行進が通常で車両移動の習慣はなかった)
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(6) 母が「お父さんが出かけてから、ずっとラジオをつけているけど9時頃に5分ぐらいかしら、音楽が流れて何か云うのかと思ったら、そのまま何も云わないの」と父に告げ、することがないので早昼食として茶の間の火鉢を囲み焼いた豆餅を皆で食べた。
(7) 当時の子どもには娯楽的なものが極端に少なかったので、小5、小6ぐらいになると政治のことには耳が早かった。「兵隊さんのトラックが2台も荻窪の方へ行ったの?」「どうせ又暗殺事件かクーデターだろう。明日になれば分かることさ。誰かが殺され内閣が変わる。近頃の軍の暴れ放題にも困ったもんだ―――」と父が云った。
(8) 父のいう通りなのだ。私が生まれてから満10才と3か月にもならぬ間に首相が13名交代しているのだ。然も私が4才の時、浜口首相が狙撃され翌年死去。犬養首相も6才の時射殺され、今回も岡田首相の射殺未遂と3名の方が事件に巻き込まれ、そのほかにも私が4才の1930年(昭和5年)の3月事件、10月事件はいずれも当時の首相射殺が前提の事件で発覚が早くて不成功に終わった。こういうことが新聞の一面に事件の概要と関係者の名とともに記事として載るのでその辺は分かっている。
『お前は知らないだろうが、五年ほど前にーーー』と父が話し始めると必ず新聞に載った公式記事と裏話が始まるのである。そして学校の休み時間には、級友が各自家庭で聞かされた特ダネと得意気に放言するので算数より国語より、政界、国際、財界、軍閥のからくりの話の法が耳丈で暗記できるので熱心になってしまうのである。
(9) ただ、1932年(昭和7年)(6才)の五・一五事件については、ニ、ニ六事件の際、4年前のこととして父から聞かされたが子どもだてらになぜ海軍の将校達が陸軍士官学校の生徒を引き連れて首相官邸、警視庁、内大臣官邸(現宮内庁)、日本銀行、政友会本部を襲撃して犬養首相を射殺。混乱の中、大川周明首相のもと右翼政権樹立を目指したかが分からぬ。軍人は全員逮捕処刑されたと云うが
(イ)陸軍は当日前夜何をしていたか?
(ロ)計画立案者井上日召日蓮宗僧侶と資金援助者大川周明は何故処刑されなかったのか?
を父に質問したが「子供に説明するには一寸難しい」で終わり、今でもこの事件についてはよく知らぬ。大川周明は昭和32年に、井上日召は昭和42年に死去している。
母が突然「五・一五事件のとき、農民が反乱軍に味方して一揆を起こし多摩の変電所が火事になり3日間も停電が続いて往生したんだからーーー」といい、停電の話に代わって行った。
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(10)正午にあるはずのラジオのニュースが午後一時過ぎにあった。
―――よくは憶えていないが、内容は、およそ下記のようなものであったと記憶している。
「臨時ニュースを申し上げます。―――につづいて
陸軍省発表。麻布第一連隊の主力部隊が本日未明から早朝にかけて首相官邸、陸軍省、参謀本部、国会議事堂を占拠、岡田啓介首相(注1)、斉藤 実(まこと)内大臣(前首相)、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監、鈴木貫太郎侍従長が事件進行中に志望または重傷を負った模様であります」(注2)
「陸軍省は本日午前9時か威厳司令部を設置、同時刻に開眼指令官令により戒厳令を発令しました」
「戒厳令の対象となる地域は次の通り。
・宮城周辺、東京市全区、東京市近隣の市町村、東京府下各郡部、
・警備上必要となる東京湾周辺(千葉県、神奈川県、静岡県下の各警察本部に通知済み)
・戒厳令下にある各地区は、本日より午後7時以降、翌朝午前下地までの外出を禁止すること。
・戒厳地区には地区警察署、同派出所(交番)これ以外にも軍の臨時警備所、警察署の臨時派出所を設置しますので公務、民間人の緊急用務外出については派出所等に出向き、(イ)目的地、(ロ)用件、(ハ)帰宅時刻等を説明、証明書を受領し、道中検問を受けた際は提示してください。」
・なお、内務省の発表としては、首相が重傷に付き本日午前9時以降首相臨時代理に後藤文夫内務大臣が就任、内務大臣も兼務することになりました。
Y氏による(注)
(注1)翌々日、本人ではなく、兄を誤射したものと判明
(注2)実際は鈴木侍従長が重傷で生存していた以外は岡田総理の誤射を含め全員射殺により即死、実際には常時各私邸を警備に当たっていた正規兵2名巡査3名も射殺され死亡者は9名で合った。
(注3)決起軍が占拠中の陸軍省が機能して国民に対して命令をだしているのも変な話であるが、現在でも分からぬ。
(11)なお「引き続き申し上げます。」につづき、下記のごとき内容の放送もあった。
・陸軍大臣から決起部隊に対する大臣命令を放送するよう逓信省を通じて日本放送協会に指示がありましたので本文を朗読いたします。
・『決起部隊の誠意は天聴に達せられてあり、よって旗下決起部隊は陸軍が派遣する首都圏戒厳部隊と合流することになる。旗下の各部隊長はよく部下を掌握し、現占拠地区から移動せぬよう命令する。夕食及び翌日の食事は事前に有線連絡等により通知した上で軍用車で配給する。旗下の各部隊長は日常生活の面で市民生活に迷惑をかけぬ範囲で行動し、可能な限り市民を近づけぬ様。守備についても徹底されたい。戒厳部隊の合流は明日又は明後日の予定であり、無用の混乱を招かぬよう現地点からの移動を厳禁する』以上であります。」
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投稿数: 4298
その3につづく
(12)「次に東京市民、東京府下各郡の郡民及び戒厳令発令地域の皆様に警視庁からの指示事項を申し上げます。
『(一つ) 戒厳令司令官は内務大臣、鉄道大臣、東京市長と協議の上、戒厳令発令中の鉄道省所管の列車、電車、バス、港湾間定期船舶(含む貨物船舶)、内洋連絡船舶(含む貨物船舶)に関しては終点地到着時刻を19時以前、毎朝の出発地出発時刻を7時以降とする旨確認した。其の他、鉄道省、内務省、東京府及び隣接県発着の公用輸送車両、輸送船舶以外の各省所管の移動輸送車両及び同目的の船舶に関して、当日19時以降到着、翌日7時以前の出発の事案については、発生の都度、戒厳司令部に連絡されたい。尚、今、明日発令地域に到着予定の外洋船舶、航空機に関しては、着岸港、着陸地に通知済である。
(一つ) 民営の鉄道、バス、船舶等に関しては鉄道省の措置に準拠し、特殊事情発生事項については都度、鉄道省の許認可を受けるものとする』以上であります。
(13)「なお、市民、郡民、近隣の市町村の皆様に申し上げます。以上の状況でありますが、本日15時から除雪作業中の区間を除き総ての交通機関の運行を開始いたします。但し昨晩の大雪により運行ダイヤに乱れが生ずることはご承知置き下さい。尚明日の始発は総ての交通機関において7時または7時以降と致します。
また、変更が起きた場合は臨時ニュースで都度お知らせしますのでラジオのスイッチを切らないようにお願い致します。JOAK、こちらは東京放送局であります。以上」
ーーーおぼろげな記憶をつなぎ合わせると、およそ上記のような内容であったと思われる。
午後からは見事に晴れ渡って空は青く輝いていたが、番の9時まで何の放送も流れなかった。(音楽だけ流していたような記憶がある)
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2.事件の翌日(2月27日)
(1)父はいつものように出勤し、私も吉祥寺にある学校へ向かって家を出た。
(2)ラジオは朝6時のラジオ体操から勢いよく始まった。
(3)私は荻窪駅のホームに鉄棒でなく軍帽の上からフードを被り外套を着用して、剣付き小銃を左脇に真横に構えた動哨(注)2名が反対側の上り東京行きホームを客を避けながらゆっくり歩いている姿を窓越しに見ていた。子供だったので正規軍なのか決起軍なのかわからない。
(4)学校に着いてからは、渡辺大将の家がT君の家の前であることはクラス全員が知っていることなので「どうだった?」と口々に云う。彼は「朝4時から5時か覚えて居ないが『キーイ』と車の急停車する音がして、どたどたどたと沢山の人達が飛び降りる音がしてーーー、その中『キャーア!!』という女性の叫びと将校か兵隊かは分からぬが『自分達は閣下お一人のお命を頂きに参上したものであり、ご家族及び邸内(ていない)におられる方々には全く手出しいたしません』、『閣下のそばにおられる方は直ちに離れて下さい』『自分の云う事を聞かず近くにおられる場合お怪我をされることになります』『すぐに離れて下さい』『決起部隊隊長の命により失礼いたします』『閣下に対し射撃開始』『パーン、パーン、パーン』『パーン』と銃の音と家族の悲鳴、兵隊の声が聞こえてきたが兵隊の声は甲高く、よく通る声なのでよく分かった」
通常、小学校5年位の年齢では家族が話題にした事も自分で直接聞いた事も全部自分が見聞きした様に話すものなのだ。又尋ねている側も、それで充分なのだ。
(5)「今朝、家を出る時兵隊さんに会えたの?」「お母さんと一緒に門から出たら兵隊が5人位、渡辺さんの門に立っていてーーー。」「お母さんが『子供が学校に行く時間なのですが出掛けてもようでしょうか』と大きな声で尋ねると一番偉そうな人が『どうぞ、お出かけ下さい。お騒がせしていて申し訳ありませんが、自分等はこのお屋敷の守備のみ命ぜられておりますので、お宅の方はご自由にお出かけください』『それでは行かせて頂きます』とお母さんが云って僕を駅まで送ってくれた。「送ってもらったのは今日だけだよ!」「そしたら偉そうな人が『ご苦労様です、いっていらっしゃい』と云ってお母さんが頭を下げると敬礼してくれたよ!」「決起部隊と云うけど色々理由があってやったので、いい兵隊さん達なんだ」と話題になって満州がどうのこうのという話に移っていった。
Y氏による(注)
動哨(ドウショウ)ゆっくり歩きながら警戒に当たる兵士を云う。決められた場所に直立して警戒に当たる兵士を歩哨と呼び、満州事変以降毎月ニュース映画を見る習慣とクーデター的事件が2-3年に一度発生するので当時は大人から子供まで特に男子の会話では普通の言葉。
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(6)先生が「未だ何が起こるか分からないから―――」と云ってその日は午前中で下校することになった。道中は人々が何時もどおり動き回り兵隊の姿も見えず変わったことは何もなかった。
(7)家に帰ると母が「ラジオは歌でも落語でも何でもやっているわよ」「決起部隊はどうなった」「お昼のニュースでは
―――(以下、母の話を要約すると)―――戒厳司令官の命により戒厳部隊が次の所在地の守備につくので占拠部隊は午後3時までに次の取材地に移動を完了するようにと云って、両方の沢山の住所を繰り返し放送していた。決起部隊の呼び名が変わったの?」「ニュースでは占拠部隊といっていたわよ」「(これも母の話の要約であるが)それから市民の方々は今申し上げている所在地から500m 以内に近づかないようにしてください」「只今各部隊守備指定の位置から1キロに当たる各道路に警察署の臨時派出所を多数設置いたしましたので、特別な事情により 500m 以内に立ち寄る必要のある方は必ず道路脇にある臨時派出所に出向き目的、到着地、滞在時間等を申し出てください。派出所で通行許可証明を相手方守備部隊の了解を取った上で発行いたしますので、其れを持参してお出かけください。巡邏隊などに出会った場合は許可証明を見せて説明してください。相手方の守備隊又は占拠隊の事前許可を派出所で取り、相手の官姓名も記入してあるので必ず通行できます」
―――など警察からの伝達事項ばかり繰り返しやっていたようだ。
(8)今のようにパソコンはおろか、携帯電話、テレビ、自動電話(交換局不要の)など全く無かった時代だったので、ラシオと新聞、駅の掲示板だけが情報源であり、ラジオのニュースは朝7時、9時、正午、午後3時、6時、7時、9時、10時の8回であった。大地震など発生の際は朝5時から60分毎に夜中の12時まであったと記憶している。人的被害の出る火事も大地震同様の取り扱いであったと思う。
(9)「お父さんは中央線一本で丸ビルまでだし、阿佐ヶ谷には兵隊さんは居ないから関係ないと思ってラジオは消してしまったの」と母が云った。
(10)父が6時ごろ帰宅して「兵隊は東京駅の東、西と中央改札口に5、6人ずつ守備についているという話が多く、丸ビル周辺は何事もないようだった。ただ、営業部の人の話だと溜池周辺では占拠部隊と正規軍部隊が陣地に土嚢を積み上げて、正面に重機関銃を構え凄い様子だと云っていた。」との話をしてくれた。
また、荻窪の話を私が得意がってしゃべりながらみんなで夕食を食べた。
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3.事件の翌々日(2月28日)
(1)なぜか記憶にないが、私は此の日学校を休んだ。
それは皆と正午のニュースを聞いていたことを明確に覚えているからだ。
(2)正午のニュースが始まった。
およそ、下記のような内容であったと記憶している。
『占拠部隊に対して戒厳軍司令官より次の命令が下されましたので、陸軍省及び逓信省の指示により、只今から命令文を読み上げます。
『戒厳司令官より占拠部隊、各占拠地司令官へ』午前9時発令。
1.憂国の志を抱く諸隊の目的は既に達せられた。
2.但し、本件については事前に貴官達が所属している師団長は勿論、陸軍大臣並びに参謀総長の許可を得て居らず軍規を乱したことも看破できない。
3.従って本28日までに各占拠地指揮官は全軍を原部隊に帰営させることを厳命する。
4.万一、正午までに帰営せぬ騒擾部隊又は騒擾指揮官又は騒擾隊員が発生せし場合は戒厳を担当している部隊及び畏くも近衛師団が実力を持って強制的に帰営せしむるご決意と聞き及ぶ。
5.若し、皇軍同士が恐れ多くも宮城の御前(おんまえ)で相まみえんか、それ即ち亡国の戦いとなり聖上に対し奉り大御心(おおみごころ)を悩まし奉る愚行と相成ること必至である。
6.本命令は戒厳司令官の配意から発したものに非ず、陸海全軍の意思である。現在海軍においても萬一を心配致し“巡洋艦”2艘が全速力を以って急行中であり正午過ぎには東京湾に入港し騒擾部隊に対応する旨、戒厳司令官あて海軍軍司令部より通報ありしことも付け加える。
〔投稿者注 僅か将校22名、下士官・兵1400名―――約7ケ中隊=約2ケ大隊 に対し巡洋艦まで入港砲撃準備とは執行部隊及参謀本部と陸軍省が、いかに反乱軍の黒幕勢力(将軍ども)を惧れていたたが今になって判る気がする〕
7.占拠部隊各指揮官は戒厳司令官命令の配意を深く考慮し、仮そめにも騒擾部隊の域を超えて「反乱諸隊」の汚名を着ることの無きよう切望する。 以上
この放送は戒厳司令官室の指示により命令文を放送いたしたものであります。
JOAK』
(3)それ以降、講談家による(馬垣平九郎、愛宕山乗馬参詣の段)があり(ラジオ歌謡)と(気象通報)があって(名曲の時間)となった―――ような記憶がある。
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投稿数: 4298
4.事件から3日後(2月29日)
(1) 29日朝から「兵に告ぐ」のラジオ放送はあったようだか、私は午後3時のニュースで聞いた。戒厳司令官から命令の放送伝達の指示があったので読み上げるということで内容は次の通り。これはすでに公表されているものである。
兵に告ぐ
敕命が發せられたのである。既に 天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に 天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したならば夫は敕命に叛抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて 天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて歸つてこい。
戒巖司令官 香椎中將
(この「兵に告ぐ」は、NHKの愛宕山放送局から中村茂アナウンサーにより放送された。)
(2)父が帰宅して「昼休みに丸ビルの屋上から四方を見渡したら溜池方面と品川方面、四谷方面に大きなアドバルーンが2-3本ずつあがっていて、気球の下には、帰順を促す言葉が書いてあったといっていた。
父は「お昼のニュース」と「午後3時のニュース」は会社のラジオで聞いたそうだ。
また、父は「同じ陸軍省が3日前には決起部隊の誠意は天聴に達せられありーーーといっていたが、天聴に達するという事は、まず内閣が同意し、枢密院が同意し、内大臣から奏上して天皇がご承知されたーーーという事で同じ陸軍省が3日以内に撤収せよとはならないわけだ。右についたり、左についたりーーー腰抜け集団だ!」と独り言を云っていたが、母も僕も聞くだけで背景が分からないから質問のしようもなかった。父は明日中に戒厳令は解除になるだろうと云っていた。
(1) 29日朝から「兵に告ぐ」のラジオ放送はあったようだか、私は午後3時のニュースで聞いた。戒厳司令官から命令の放送伝達の指示があったので読み上げるということで内容は次の通り。これはすでに公表されているものである。
兵に告ぐ
敕命が發せられたのである。既に 天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に 天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したならば夫は敕命に叛抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて 天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて歸つてこい。
戒巖司令官 香椎中將
(この「兵に告ぐ」は、NHKの愛宕山放送局から中村茂アナウンサーにより放送された。)
(2)父が帰宅して「昼休みに丸ビルの屋上から四方を見渡したら溜池方面と品川方面、四谷方面に大きなアドバルーンが2-3本ずつあがっていて、気球の下には、帰順を促す言葉が書いてあったといっていた。
父は「お昼のニュース」と「午後3時のニュース」は会社のラジオで聞いたそうだ。
また、父は「同じ陸軍省が3日前には決起部隊の誠意は天聴に達せられありーーーといっていたが、天聴に達するという事は、まず内閣が同意し、枢密院が同意し、内大臣から奏上して天皇がご承知されたーーーという事で同じ陸軍省が3日以内に撤収せよとはならないわけだ。右についたり、左についたりーーー腰抜け集団だ!」と独り言を云っていたが、母も僕も聞くだけで背景が分からないから質問のしようもなかった。父は明日中に戒厳令は解除になるだろうと云っていた。
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3月になって
(3)父は夕刊を母や私、ねえやさんに声を出して読んで聞かせた。
(4)その後で、父が云った。「今までのクーデターと同じ事で天皇をお味方に頂いて先ず内閣の設計図を作り、首班を決めて青年将校が4-5名で首班候補の私邸に行き、本人の就任確約と主要ポストにつくべき要人方の確約をもらう。この手順を踏まずして事件を起こす将校など居るものか。然も首都を守る第一師団の第一連隊と第三連隊の士官であれば大尉で30歳、小、中尉で24-5歳とはいえその辺の分別は充分にある筈だ。結局年寄りに騙されたわけだ。いつもこれだ」
一言で言えば「騙されたのは兵ではなき、若手将校が老獪な将軍どもに騙された」ということのようだ。
(5)この事件の首謀者といわれている安藤輝三大尉について、M学園のクラスメイトの間でも議論が沸騰した。(この学校は創立大正13年。大正デモクラシーの落とし子とも云われている。『個性尊重・自主自立・自由平等』を教育理念として掲げていたので、父兄のなかには、新聞記者、大学教授、外交官、大手商社の重役、陸軍の高官ありで、家庭で、いわゆる「事件の裏話」に接する機会が多かったようだ。)
クラスメイトの話を総合すると、安藤輝三大尉は
・ 中尉のころから陸軍大学に推薦されるような逸材であった。
・ しかし、大学には関心を示さず、政治経済を熱心に勉強し、大物政治家の門を叩いたりしていた。
・ 部下から非常に慕われており、いろいろ相談を持ちかけられていた。
・ そして、常日頃、部下の兵士から農村の疲弊について聞かされていた。
・ 将官を私邸に訪ね、兵士の実家の実情を説明して、「地方財政の改革に手を打つべき」との心中を吐露していた。
・ その一途な気持ちを、その将官に利用されてしまった。
―――すなわち、私邸を訪ねてきた彼に
将軍は、待っていましたとばかり自宅の客間で青年将校と抱き合い、酒を酌み交わし「頼りになるのは貴様、安藤!貴様しか居らぬのだ。同士を集めよ。○○大佐とよく相談するように。××少将とは来週会合があるので貴様の話を充分説明し、承知してもらう所存なのでーーー」と、連絡をとるべき将官の名前・時期などを述べた。さらに「特に首班になって頂く方のご承諾については、よくよく閣下方のご意見を拝聴するように」などと話したようだ。
高価な土産を与え、帰るときはタクシーを呼んでやった。
最後に「○○閣下とのつながりだけは例え計画が失敗し拷問にあってもいうなよ、云えば貴様を射殺し、俺も死ぬ」と釘を刺したーーーという話もあるようだ。
―――とのことである。
しかし、結局、この青年将校のみが死刑になり、将軍やその参謀の、大佐、中佐は満州や北支への出征(左遷)だけで済むのである。
― 完 ―