戦前の赤坂表町の思い出・その1 大正14年生まれのY
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- 戦前の赤坂表町の思い出・その1 大正14年生まれのY (編集者, 2009/12/18 8:53)
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投稿日時 2009/12/18 8:53
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
1.
妹から電話がかかってきた。
「私たちが子供のころ、我が家の生活の中心になっていたのが赤坂表町(おもてちょう)にあった大叔父邸だけど、あそこに一カ月も宿泊したのは兄さんだけだった。
当時のあのあたりのことは、敗戦の年の春の大空襲で、赤坂一帯が灰燼に帰してしまったので今では知る手がかりもない。
そこに住んでいた、従兄弟・従姉妹も、働いていた人たちも、あるいは他界し、あるいは高齢になっていて話を聞くことができない。
また、その子や孫にも当時の話は伝わっていないようす。ぜひ、兄さんが記録を残してよ」
というので、私が書き残すことにした。
2.
大叔父は、当時、ある関西の選挙区出身の保守政党の衆議院議員であった。
1934年のことである。
私は、当時、満8才・小学校3年生であったから如何ほどのことも見聞きしていない。
しかし、このことだけは鮮明に記憶している。
ある日、大叔父が大叔母に向かって
「わしは、困ったことになってしまったよ。皆から推されて(幹事長)になってしまった」
「それで、年収でも、ようけ増えますのか」
「給料なんか増えんよ。手当が毎月ちいと出るだけやがな! それより党の代議士全員の面倒を見ることになった。今日決まったんだ。忙しくなるぞ。覚悟してくれ」
「かないませんな、そんなこと。今でも火の車ですやろ」
「我慢せいや。お国のためや」
「ほな。あんじょうたのんまっせ。無茶せんと。早く、大臣になってくださいな。ほんまに」
「努力するわ」―――。
この会話は、夕刻、表玄関に面した「お座敷」でのやりとりであり、このとき、この部屋には大叔父夫婦と火鉢のそばで絵本をみていた私しかいなかった。
ふだん、私が大叔父邸に出向くときは、いつも両親と一緒だったが、このときは一人だけだったのである。
妹から電話がかかってきた。
「私たちが子供のころ、我が家の生活の中心になっていたのが赤坂表町(おもてちょう)にあった大叔父邸だけど、あそこに一カ月も宿泊したのは兄さんだけだった。
当時のあのあたりのことは、敗戦の年の春の大空襲で、赤坂一帯が灰燼に帰してしまったので今では知る手がかりもない。
そこに住んでいた、従兄弟・従姉妹も、働いていた人たちも、あるいは他界し、あるいは高齢になっていて話を聞くことができない。
また、その子や孫にも当時の話は伝わっていないようす。ぜひ、兄さんが記録を残してよ」
というので、私が書き残すことにした。
2.
大叔父は、当時、ある関西の選挙区出身の保守政党の衆議院議員であった。
1934年のことである。
私は、当時、満8才・小学校3年生であったから如何ほどのことも見聞きしていない。
しかし、このことだけは鮮明に記憶している。
ある日、大叔父が大叔母に向かって
「わしは、困ったことになってしまったよ。皆から推されて(幹事長)になってしまった」
「それで、年収でも、ようけ増えますのか」
「給料なんか増えんよ。手当が毎月ちいと出るだけやがな! それより党の代議士全員の面倒を見ることになった。今日決まったんだ。忙しくなるぞ。覚悟してくれ」
「かないませんな、そんなこと。今でも火の車ですやろ」
「我慢せいや。お国のためや」
「ほな。あんじょうたのんまっせ。無茶せんと。早く、大臣になってくださいな。ほんまに」
「努力するわ」―――。
この会話は、夕刻、表玄関に面した「お座敷」でのやりとりであり、このとき、この部屋には大叔父夫婦と火鉢のそばで絵本をみていた私しかいなかった。
ふだん、私が大叔父邸に出向くときは、いつも両親と一緒だったが、このときは一人だけだったのである。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
3.
戦前の赤坂表町界隈
大叔父邸は現在の地名でいえば「港区赤坂7丁目3番地」。
青山1丁目の交差点からみて、草月会館の手前。現在の高橋是清公園の場所である。
しかし、広さから言うと、高橋是清公園の約2倍はあった。すなわち奥行きが高橋是清公園のほぼ2倍ほどあったのである。(当時の高橋是清邸も同様、広さが草月会館の約2倍。奥行きも大叔父邸と同じであった)。
私の、やや不確かな記憶ではーーー
青山1丁目の交差点から東側の角が「青山公設市場」、その東が「三一教会」、次が「赤坂郵便局」で、続いてやや小さなお邸が3軒。その次の家が「大叔父邸」。そして、道路を隔てて「高橋是清邸」ということになる。
さて、この大叔父邸であるが、大叔父の養母の大葬儀が営まれた(大伯母の葬儀もこの邸で営まれた)ときには、終了後の後片付けが大変であった。室内一面に張り巡らされた幕の取り外し等で、家族や親戚筋は邸内に居場所がない。
そこで、一同、赤坂4丁目7番地表(おもて)のクラシック音楽喫茶「珈琲園」へ行き、ここでベートーベン交響曲第5番ハ短調(運命)を、何もわからないながら長々と聞き入るはめになったのであった。
また、青山1丁目交差点から西側4-5軒目に「石勝石材店」という大きな店があったが、昭和11年秋当時、店内で「中村家(け)の墓」という墓石を彫っていた。(当時からこの南側に「青山墓地」があったためそういう需要があったものと考えられる)
大叔父邸から電車通りを挟んで北側は、今は三笠宮邸となっているが三笠宮崇仁親王が宮家を創設されたのは1935年(お生まれは1915年)。
1934年当時は高松宮邸があり、1936年に高松宮邸が港区高輪2丁目に移られてから、三笠宮がここ(港区元赤坂2丁目)に入られたのだと思う。
何しろ屋敷の前が、いきなり青山通りであり、渋谷方面から赤坂見附に向かう市電と、その逆もあり、5-6分毎に電車が通過するので、窓を開けていると結構煩い。トラックが何台も通ると余計そうだった。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
大叔父邸のなかの様子
では、この1800坪(約6000平方メートル)の敷地のなかはどうなっていたかの一部をこれまた不確かな記憶に基づいて述べてみたい。
1.請願巡査の家
請願巡査とは、富豪や地主などが自宅を警備させる目的で私費で派出所を作らせたものをいうが、この家の敷地にも請願巡査が一家で住み込んでいた。
この時期、515事件、226事件と政治家を狙ったテロ事件が相次いでいたわけで、必要性があったのかもしれない。
ただし、日常は、押し売り、変人、ヤクザ、暴漢を退散させるのが仕事であった。
この家には、巡査と奥さん、小学校4年生の女の子が住んでいた。
巡査は日曜日でも制服を着ていた。
奥さんも腕力があるという噂であった。大柄で静かな奥さんであったが、主人不在の時は同じことができたようであった。
巡査の奥さんは、派閥の会合や、選挙区からの来訪者が多い際などには接待係の手伝いに駆り出されてもいた。
なお、巡査外出の際は、書生が内玄関の前に椅子を持ってきて詰めていたという話であったそうだ。とにかく、右翼と変人が一番怖かったようだ。刀物を持って歩く者の話が年に1-2度はある世の中であった。
2.書生部屋
書生さんは3-4名くらいいたような気がする。名前は知らない。
書生さんというのは通常は玄関脇に居間を持つものであるが、この家の書生部屋は玄関脇ではなかった。
3.図書館
何しろ、7人の子供を育てただけあって、小学生にはうってつけの本ばかり(イソップ、千夜一夜物語、アンデルセン童話集、グリム童話集、三国志、三蔵法師、キリスト物語、物語モハメッド、お釈迦様の一生、軍備の世界、新兵器の世界、客船の世界、自動車の世界、世界各国の歴史、世界の宗教、世界の鉄道、など)。
滞在中、これらの本を3週間ぐらい食い入るように読み耽っていたことを記憶している。