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私の戦争体験記 (特攻より) その1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/11/27 8:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿は「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の「会報 特攻」よりの抜粋です。
 発行人の羽渕徹也様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 私の戦争体験記 その1

  元陸軍戦闘機パイロット 会員 谷口 正範

◆はじめに

 今、戦争体験記を書こうとする時、若者たちの多くは「戦争の話はもう古い」とか、「時代はもう変わったんだよ」と、聞こうともしません。果たしてこのままでいいのでしょうか。

 太平洋戦争が終わって60余年が経ちましたが、地球のどこかで戦争が起きたり、また、起ころうとしています。愛する日本の国が二度と戦争に巻き込まれることのないことを祈りながら、私の青春時代を振り返ってみました。

 太平洋戦争時の中国で、戦闘機のパイロットとして米空軍との空中戦を経験した私は、1941年(昭和16年)4月、満洲事変・支那事変と続く時代背景の中で15歳を迎え、「神州男子の行くところ、一路航空決戦へ」 の宣伝ポスターに胸を躍らせながら、東京・立川市郊外にあった「東京陸軍航空学校」に第7期生として入校しました。


◆太平洋戦争開戦

 1941年(昭和16年) 12月8日、まだ航空兵としての基礎訓練中だった私たちは、太平洋戦争が始まったことを中隊長の訓示で知り、「よーし、一日も早く戦力を身につけ、頑張るぞ」と、踏ん張った時の高揚感を今でも忘れません。

 翌年の4月、熊谷陸軍飛行学校ではパイロットとしての基礎教育並びに赤トンボの操縦教育を受けた後、我々戦闘機のパイロットは、1943年(昭和18年) 10月に、中国の北京、天津において、実用戦闘機(九七式戦闘機、一式戦闘機(隼))の戦闘技術を2年にわたり習得しました。

 その後、中国・青島の城陽飛行場において、後輩の操縦教育助教を命ぜられ、1944年(昭和19年) 9月、揚子江上流の九江において、防空戦闘隊を結成し、防空任務に就きました。間もなく漢江を基地としていた戦闘隊の名門飛行第二五戦隊に転属、任務に就きました。それから終戦まで、四式戦闘機(疾風)を操縦し、中国、朝鮮の各地に転戦しました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/11/28 8:09
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

◆漢口飛行場・南京大校飛行場

 漢口では1944年(昭和19年)12月18日、米軍のB29戦爆連合による大空襲に遭遇しました。私は戦隊長の僚機として、四式戦闘機を操縦して出撃しましたが、空中戦の途中で滑油タンクに被弾し、風防ガラスが油の飛沫で全然見えなくなり、編隊を離脱、漠口飛行場に不時着しました。

 この日の戦闘でY軍曹が被弾墜落しましたが、空中戦が終わり、墜落現場に行ってみたところ、飛行機のエンジン部分が土にめり込み、操縦席の背当て鋼板と計器盤の間に飛行服の毛皮がわずかに残っていただけで、跡形もないほど悲惨でした。この空襲で、漢口基地の飛行第二五戦隊は壊滅状態となり、部隊の被害も大きく、26機の内、完全な飛行機は2機しか残りませんでした。

 私たち6名が代替機を受領するため内地の所沢へ派遣されましたが、受け取った飛行機は、女子挺身隊が整備したもので、機関砲の照準も合わず、無線機も使えない代物でした。取り敢えず1月13日に飛び立ちましたが、伊勢神宮の上空辺りで、計器盤から座席にかけて振動が出始め、福岡の雁の巣飛行場に着陸した時は、4枚のプロペラの内1枚は私の手で動くくらいガタガタでした。
 1944年(昭和19年) 8~9月を境に、中国での制空権は米軍に握られていったのではないかと思います。その後の戦況は悪化し、部隊は1945年(昭和20年) 2月、南京の大校飛行場に後退しました。

 3月13日の明け方、私は自分の歯が全部欠けた夢を見ました。母親から「歯の欠ける夢は良くない」と言われていたので、その日は仮病を使い宿舎にいましたら、空襲警報が鳴り響き、我が軍との空中戦になり、大校飛行場を一緒に使用中の第八五戦隊のH少尉が戦死しました。罪悪感を覚えながらも「お袋からの警告だったのかな」とホッとしました。


◆全員が「特攻隊」を志願

 南京・大校飛行場を基地としていた1945年(昭和20年) 3月下旬、戦隊長から「特攻隊を組織するので、希望者は一歩前に」という言葉に、全員が一歩前に出ました。その中から私を含む6名が選任され、「神州留魂隊」と命名、上海の飛行場で訓練することになりました。攻撃方法は専ら海面すれすれに飛行し、敵軍艦の側面に突入する戦法でした。2週間後に後輩の特攻隊「梓弓」が配属されたので、「直ちに部隊に復帰せよ」との命令で南京に帰りました。

 特攻としての出撃はせずに済んだ私も、「特攻」を決行した時がありました。終戦近くの6月か7月頃、朝鮮の群山飛行場でのことでした。空襲警報を受け、迎撃の当番だった私は、離陸直後高度10メートル位で海岸線の防風林の方を見ましたら、敵機のPB4Yl機が、高度50メートルで飛行場に向かって来るのが見えました。上方からの攻撃は海面にぶつかるので、前下方攻撃で下から突き上げるしか方法はなかったので、そのまま超低空で海面すれすれにエンジンを全開し、敵機を照準限線に入れ、同時に機関砲4門を発射、体当たりを決行しました。次の瞬間、グラグラと敵機の後流で気が付きました。体当たりは失敗でした。体当たりの瞬間、眼を瞑ってしまったのでした。その瞬間はただ「無」でした。気が付いた時、飛行機は滑りながら上昇していました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/11/29 18:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298



































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