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特攻インタビュー(第1回) 前編

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/10 7:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その10

 ◆戦隊訓練開始(2)

 --------特操出の空中勤務者であるとか、士官学校出の空中勤務者であるとか、操縦がまた全然違うと思うのですが、いかがでしたでしょうか?

 前村‥違いますね。特操でも1期生の古いのは上手でした。

 --------来たばかりの操縦の方が来ると、ヒヤヒヤもんですか?

 前村‥そりゃそうですよ (笑)。やはりヒヤヒヤもんですよ。

 --------気持ちとしては、特攻隊で出撃するのと、あまり変わらなかったのでは?

 前村‥そうそう、いきなり機体がバウンドするしね。やっぱり恐かったですよ。

 --------3月になって、大分海軍航空基地の方に行かれるんですけれども、それは跳飛弾爆撃の訓練ということで行かれたのでしょうか?

 前村‥そうです。一応名目上は跳飛弾爆撃訓練という日的ですが、実際の訓練は挑飛弾なんていうものは落としたことないんですよ。軍艦めがけて、さっと低空で行って軍艦の甲板をスーツと乗り越えて、また超低空で離脱する、でまた超低空でやる、こういうすれすれの飛行訓練を1日、午前・午後と繰り返します。
 私の記憶では午前中12回、午後12回というふうに覚えているのですが、実際にはそんなに行ってないかもしれません。それほど体が続かないと思うんですよ。ああいう飛び方をするには、本当に体力がいるんですよ。こうしたときに、よくGがかかるっていうでしょ、たしかにその通りなんです。頭が上がらないくらいのGがかかってくるんですよね。そういう訓練を1週間~10日と何度も繰り返しましたね。

 --------あれは飛行第六二戦隊の全機が行ったのではなくて、そのうちの何機かが派遣されたのですか?

 前村‥そうです、全機じゃないです。たしか全部で8機~10機くらいいたのかな。そのうちの1機が、軍艦の甲板を乗り越えたのはいいけど、降りすぎて洋上に接触して飛行機が真っ二つに割れ、それに8人乗っていて4人くらいが死んだんじゃないですか。残った4人は病院へ収容されました。その中に1中隊の中隊長の岩本大尉がいたんです。病院へ収容後、1週間~10日で帰ってきましたが……1カ月後には飛行機が墜落して、その人も死んだ。別府湾で洋上に接触したのはその1機だけでしたよ。

 --------海軍の飛行基地に移動して、どこで宿泊していたのでしょうか?

 前村‥我々が宿泊したのは、海軍の基地にあった広い体育館みたいなところに座布団をひいて、そこに寝泊りしていましたよ。

 --------やっぱり、陸軍の基地と海軍の基地とでは違うところがありましたか?

 前村‥そこは臨時の宿泊所だから正式じゃなかったです。10日~2週間くらいいたのかなあ。1週間か10日くらい経ったら、米軍艦載機の爆撃が始まったんですよ。3月18日に爆撃くって慌てて逃げ出して、19日の朝に筑波に帰りました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/11 8:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その11

 ◆東海沖特攻出撃(昭和20年3月19日)

 前村‥やっと筑波に帰れたなあと毛布にくるまって布団に寝ていたら、午前10時頃「空中勤務者集合、直ちにビス下前に集合」と呼び出されました。行ってみたら特攻出撃命令でしょ。

 そのときの戦隊長は、有名なサイパン爆撃の功績(アスリート飛行場攻撃に於いてアメリカ軍機12機炎上、全機硫黄島に無事帰還) で天皇陛下に単独拝謁を仰せつかった新海希典少佐という方なんですが、この人が大分海軍航空基地で爆撃くってるときに、逃げずに椅子に座って敵機を睨みつけていたというエピソードを持った人なんです。

 この人が爆撃の最中に一式高練で帰ってくるんですが、飛行場で適当なところがなくて、代々木の練兵場に着陸するんです。そこで航空本部に出頭したら、六二戦隊は特攻出撃しろという命令を受けた。新海さんはそれに強く反対して、ゴチヤゴチヤやっていたみたいです(編注・最後は「やむを得ないので自ら先頭に立ち、特攻として突入する」と主張しだしたという)。
 結局、航空本部の言いなりになって、翌日3機の特攻機を出撃させたんですよ。新海戦隊長は釈然としないまま、自分の先祖代々の墓が桜上水にあって、そこでいとこが坊さんやっているというもんで、お墓参りをしたそうです。翌日立川へ行って、迎えに来いと立川まで一式高練で迎えに来させて筑波に帰って来て、19日の朝早く帰ってきた。帰ってきたらすぐ出撃命令を出したわけです。それで私が1番機の航法ってことになりました。

 新海さんは、やっぱり特攻に出すのは六二戦隊じゃ未熟だということで反対したんでしょう。そりゃそうかもしれません。とうとう新海さんも、自分も戦果確認機として行くというので、我々3機攻撃機の後ろをずっと付いてきたんですよ。
 そして、帰って来なかった。

 --------でも重爆機で戦果確認といっても、実際には命懸けですよね。

 前村‥そうです。命懸けだし、確認は取れていませんが、新海さんはその飛行機に250短の爆弾を積んでいたんじゃないかという話もあります。我々が体当たりをしたのを見て、自分も体当たりをするつもりだったのではないかと言われていますけどね。
 新海さんは、自分が特攻命令を出していたにも関わらず、航空本部では六二戦隊のあの日の出撃を特攻とは認めていないんですね。だから戦死しても特攻隊の戦死者のように2階級特進にはなりませんでした。本来なら大佐のはずなのですが。

 --------私も調べてみましたが、この3月19日の出撃は特攻の記録としてはないですね。

 前村‥ええ。だけど我々は大分海軍航空基地から帰って来て、「空中勤務者集合!」と呼び出され、慌てて飛行場に行ったら黒板に〝攻撃法ハ特攻トス″って、はっきり書いてあるんですよ。ここにある当時の写真に ”攻撃法ハ特攻トス″ の文字が黒板に書いてあるのが見えます。それでも特攻と認めていないんです。特攻であるかないかで遺族年金が違うし、本当に…、ご遺族の方にしてもお気の毒ですよね。

 --------3月19日の出撃は、前村さんとしては初陣となるのでしょうか?

 前村‥初陣ですね。












 (後編へ続く)
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