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復員 BUP

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/3 6:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・返信)は、メロウ倶楽部の公開サイト「大正の部屋」への投稿(2009/08/13)を、投稿者(含・返信者)のご承諾を得て転載するものです。

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 皆様 ご無沙汰を致しております、此処に書き込むには適当かどうか分かりませんが、トシがトシだし難しい話は出来ないんです。
此の部屋、変蝠林大兄のご入院以来、お書き込みも少なく、寂しいので、景気づけに、無理やりの書き込みです。

 ヒマツブシに昔話でもやらせてください。

 終戦時はインドネシアの爪哇島(Java)に居ました。
 気候も良く(暑いけれどシベリアより益し)、食糧も潤沢で敗残兵としては恵まれた方でしょう。
 終戦後は、いろいろな曲折を経てジャカルタの港(Tg.Priok)で、港湾荷役の重労働をやってました。
 ニュースは共同通信のガリ版刷りを時々見てましたが、船が無いので、帰国出来るのは数年先とか、脱走兵が一挙に増えました。
 インドネシア独立軍に行けば二階級特進とか、イロイロな噂が飛び交いました。
 私もインドネシア語には不自由しなかったので、行こうかなと思ったことは事実ですが、行きたいセレベス島はジャワ海を渡らなければ・・・、思案しているうちに戦友が1人脱走してしまいました。
 スラバヤ(爪哇島東部の都市)に恋人が居たし、彼女が妊娠中と言うのは知ってましたが、行き先は分かってました。
 連れ帰れの命令が出て、夜行列車に乗って、スラバヤへ、別に危険は無く、スラバヤに着き居場所は分かっておりましたので、説得、連れ帰りました。
 そいつとは戦後数十年も同じ仕事で、20年ほど前、病死、葬式まで付き合いました。

 当時の仲間の戦友会(?)も残り4名、年に一度、メシを食ってますが、来年は出来るかどうか?。
 終戦の翌年(S21)の九月頃、体の弱い順に復員船に乗せてくれるとか。
 頑丈で元気なヤツまで軍医の前に整列、仮病を使い、弱弱しく咳などして、なんとかして復員船に乗りたくて、皆懸命に努力しました、(俺も同じく)。
 努力の甲斐があったかどうか、入港してきた復員船、米軍が貸してくれたリバティ型貨物船(やく7千トンくらい)に乗ることが出来ることになりました。
 岸壁に着いた復員船のタラップに行く前に、岸壁に設営された天幕で、英軍の持ち物検査などが御座いました。
 官等氏名を名乗れ、手荷物を広げろ,etc. 、荷物は褌二、三枚と薄い毛布1枚だけ。
 乗船許可書みたいな紙切れを貰って、船のタラップを駆け上がりました。
 数人前に並んでいた大尉さんは、此処でストップを掛けられて、グルカ兵に囲まれて、何処かに連れて行かれましたが、あとで聞いた話では、捕虜収容所関連だったらしいです(顔面蒼白になってました)。

 永い航海が終わって潮岬の灯台が見えたときは、皆、泣いてました。
 名古屋港に上陸の際、DDTの粉末を体中に、持ち物にも、吹き付けられました。
 数百円(幾らだったか、どうしても思い出せない)のお金と、日本全国何処にでも行ける切符を貰い、東京大森の焼け残りの家に帰ることが出来ました。
 私より数ヶ月前にニューブリティンより復員した兄貴が、栄養失調で、やせ細って寝てました。
 庭の蛙を食うってお袋が嘆いてました。
 布団に蚤が居て、痒くて眠れないのです、持ち帰ったDDTを吹き付けの毛布をひいて寝たら快適でした。

 それ以降、生き残る為に、職と食を求めて焼け跡、闇市を徘徊する、所謂、復員崩れの生活が始まりました。

 アレから63年か・・・、イロイロありましたが、追って。

 戦争経験者で最も若い私たちでも既に八十ン歳、先日、”言わずに死ねるか”と言うサイトに触発され、想い出話も書かせて頂こうと、ノコノコと出て参りました。
 ボケも相当進行してますので、思い違いや、記憶違いも多々在ると思いますが、勘弁してやって下さい。

 戦地(セレベス島)に着いたのは、昭和17年秋、私は9月生まれですので、満17歳になる頃でした。
 其のガキのような兵隊が、どんな戦争をやったのか、少しづつ、”ヒマツブシ”で書かせて頂ければ幸甚です。
不謹慎なオハナシも出てきますが、怒られたらすぐに止めますので、よろしくです。
 変蝠林大兄のその後のご様子など、宜しかったら、書ける範囲内でお知らせ頂ければ有難いのですが。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/4 5:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 グルカ兵?
 解説をお願いしようかと思ったけれども
 ネットで検索したらわかりました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/4 5:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 善兵衛さん コンニチハ  お久しぶりです、ヒマでヒマで・・・。
引用:
グルカ兵?
 こいつたちと一緒に飛行場の警備をやっていた時期が御座いました。

 独立戦争たけなわで、彼等の手に負えなくなり、我が精鋭の部隊に警備を手伝ってくれと言って来たんです。
 ハイヨって、引き受けました。

 夜中に動哨中、こいつらと出っくわすと、色が黒いので分からず、射ち合いになると困るんで、英語の特訓をヤリマシタ。
 大声で ”Japanese Sentry" って、叫ぶんです。

 彼等の炊事場の前を通ると、カレーの良い匂いがするんです。
 物欲しそうに眺めていたら、食うか?って言うので、 Oh! Yes って早速、ご馳走になりましたが、チャパティって言うメリケン粉をお煎餅みたいに丸く焼いて、それにカレーを載せて食うのですが、結構いけました。

 インドネシア独立軍とも仲良く付き合い、たまに射ち合いでもやるかって、お互いに上を向けて機銃で一連射、英軍には敵を撃退とか、適当に誤魔化しておきました。
 実は、独立軍にも、元日本兵が居たし、時々鶏を貰ってたんです。
 長くなるんで、・・・又ね。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/4 6:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 追加
 今夜の番組です。

 「忘れないで、わたしたちの戦争~中居正広が聞く戦場の声」
 http://www.nhk.or.jp/shogen/schedule/special.html

 終戦の日も近いことですし・・・ 此処も ↓
 「 NHK 戦争証言アーカイブス トライアルサイト」
 http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/4 6:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUPさん

 貴重な体験談もありがとうございました。

 当時のお話、もっと聞かせてくださいませ。

 ところで「グルカ兵」は、ネパール出身なのですね。

 日本兵よりも強いーーーという、うわさがあったそうですね。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/5 6:30
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

苦労された貴重な経験の書込み有り難うございました。

なかなか無いことですので、時間を掛けてでも詳しいアップを

お待ちしています。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/5 6:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ザックス先生 始めまして
 ご麗筆はかねがね拝読させて頂いております、「海外便り」のお世話、ご苦労様です。
 あの中国よりの謝さんは、小生が引っ張り込みました。
 さて、
引用:
苦労された貴重な経験の書込み有り難うございました。
 それがねぇ~、全然、苦労してないのですよ、申し訳なし。
 前にも何処かで”ヒマツブシ”って書き続けましたが、初恋とかオネイチャンのことばかりで、お前、本当に戦争やってたのかって怒られてました。

 最後の作戦は、南方よりの特攻兵士の輸送作戦でした。
 さて、取り敢えず、復員船のこと。
 終戦時、復員兵士を送り返す動ける船が少ないので、米軍がリバティ型とか、LSTとか貨物船を船舶運営会(船会社の戦時合同体、1課はNYK系 2課はOSK系、3課は三井系だったと思いますが)の船員が運行して復員輸送をやってくれました。

 俺たちを載せてくれたのはリバティ型で、約七千トンの貨物船でした。
 二千人か三千人くらい乗ったと思います、貨物倉イッパイでした。
 船橋(ブリッジ)の前に清水(飲料水)の蛇口を幾つか配置して、兵隊に飲料水を配給してました。
 その蛇口の当番をやれって命令だそうで、列を作って飲料水を汲みに来る兵隊を見張ってました。
 列を乱す者は、階級を問わず制止してよいとか。
 結構、重要な(?)任務でしたよ。

 其の復員船に、俺の出身校の先輩、後輩が5、6人乗っていたんです。
 シャワーを使わせて貰ったり、お茶を頂いたり、お世話様になりました。
 と、言うわけで、要領のいい俺は、あんまり苦労してないんです。
 取り敢えず、今日は此処まででゴメンナサイ。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/5 6:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUP様

 
 戦中戦後外地で過ごされたお話を、聞くにつけて思い出すのは、私の場合無人島での 抑留生活です。 
 私が終戦を知ったのはマレー半島の山中であり、南下してジョホール州クルアンで検問を受け、シンガポールからボロ船にて赤道直下インドネシア領 の、リオウ諸島内にあるレンパン島に抑留されました。
 飢餓と病気に苛まれながら重労働の開拓、道路工事などに従事し昭和21年リバテイ船で復員して来ました。

 一名「死の島レンパン」と呼ばれた島で生きんが為に知った「不撓不屈の精神」や「苦境に耐える」等など・・・60余年も続いた平和によって 忘れかけた私の平和ボケした気持ちを引き締めるために、レンパン島を訪問して来ました。我々が血と汗で建設した道路の殆どは再びジャングルと化して居ました。

 この島の海岸に建てられていた、仲間の記念碑に香を焚き冥福を祈ってきました。今にして思えば、この苦難に満ちた抑留生活も私の人生の中で多くの人々が味わう事のできない、有意義な経験であったと思える様になりました。
 機会を見てレンパン島の写真を掲載いたします。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/9 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ヒマツブシさん

 この部屋は余り来ないので、RES遅くなりました。

 膨大なHpとブログざっと拝見しました。色々と大変な苦労をされたんですね。

 私もあと10年早く生まれていれば、今この様にして書けなかったかも知れません。

 勤労動員と空襲くらいで済んだので、犠牲になった方々やシベリヤ、南方で苦労された方には一方ならぬ思いで、せめてと記録を読んでいます。

 nhkのもかなりは見ました。海軍統合本部とかのテープも聞きね呆れていました。

 又御縁があれば、直接お話しを伺いたいものです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/9 8:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ザックス先生
 有難う御座います。
 ヒマツブシ 続編は追って。
 一杯後に付き、ご挨拶のみにて失礼させて頂きます。
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