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目黒の無線電信講習所 ブーゲンビリア

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/13 5:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・返信)は、メロウ倶楽部の公開サイト「大正の部屋」への投稿(2009/08/17)を、投稿者(含・返信者)のご承諾を得て転載するものです。

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 初めまして。

 生きていれば90歳になる父が、戦前、目黒にあった無線電信講習所に通っており、講習所関係を検索していたら、こちらのサイトに辿り着きました。

 目黒会にも問い合わせをしましたが、昭和15年3月に本科卒業という記録があるだけで、それ以上のことは残っておりませんでした。

 父は15年1月には、近衛歩兵の師団通信隊に入隊しておりますので、卒業はしていないものだとずっと思っていたのですが、この時期ですと、繰り上げ卒業とかになり、卒業式も行われず、よって卒業アルバムもないのかなと想像しております。

 同期の方で集合写真をお持ちの方や、この時期の詳細をご存知の方がいらしたらと思っています。今頃になって、もう遅いかもしれませんが。

 以前、目黒の講習所跡地の周辺を歩いたりもしましたが、多くの通信兵がここから前線に送られていたこと、太平洋戦争と深く係わっていたこの講習所の存在があまり知られていないのは寂しい気がしました。

 こちらのサイトは、実際に戦争にいかれた世代の方が運営していらっしゃるようで(まだよくわかっていなくて申し訳ありません)、何だか父に会えたようで嬉しくなりました。これからも楽しみに読ませていただきます。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/13 5:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ブーゲンビリアさん 初めまして。
引用:
昭和15年3月に本科卒業
 と言うことは小生より2年程先輩ですね。
 ご年齢は小生より6歳程年長ですから、丁度15年頃、適齢期になって、御入営されたと考えられます。

 当時のことはよく分かりませんが、本科卒業と言う記録が残っているのなら、其の通りと思います。
 無線電信講習所の制服、校舎、校門などは、此のサイトでご覧になった通りです。
 山手線の目黒駅より徒歩約10分、閑静な住宅街の中に在り、近所に日の出高女も御座いました。
 戦後、調布の方に移転、電通大と変わり、同窓会の名前だけが目黒会で、残っております。
 当時は、卒業、即戦争への慌しい時期でした。
 小生と同期の生徒の一部も卒業を待たずに、仮卒業扱いで、軍籍になり、校舎より出征して行きました。

 私ごとですが、小生も卒業の2ヵ月後には南海の戦場に立っておりました。

 お亡くなりなられた先輩、御尊父様のご冥福をお祈り申し上げます。

 追伸

 蛇足ながら、引き出しの奥に、当時の生徒手帳、通信士の証明書などが出てきましたので、画像にしてくっ付けました。

 ご尊父様もご卒業と同時に、同様の国際資格証を交付されていると存じます。

 ご尊父様の当時のお写真などがご覧になれるかも知れませんよ。

                  敬具   BUP

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/8/14 7:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUP様

 さっそく温かいご返信と、貴重な写真をUPしていただきありがとうございました。
 
 実は、講習所に関するものは、何ひとつ家に残っておりません。
ですから、本当に興味深く拝見いたしました。父のものを瞼の中で想像しました。

 父は五号無線機の通信兵だったそうですが、6年前に亡くなるまで、戦地のことや無線のことも、ほとんど語らずじまいでした。聞けない雰囲気がありました。

 ですので、こちらのサイトに集まる方々の、ご自身の戦争体験を語り、記録として残そうという精神には、心より敬意を表しております。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/14 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ブーゲンビリアさん

 大正の部屋にようこそ。
引用:
父は五号無線機の通信兵だったそうですが、6年前に亡くなるまで、戦地のことや無線のことも、ほとんど語らずじまいでした。聞けない雰囲気がありました。ですので、こちらのサイトに集まる方々の、ご自身の戦争体験を語り、記録として残そうという精神には、心より敬意を表しております。

 
 メロウ倶楽部のトップページからご覧いただけるところに「メロウ伝承館」があります。

 このなかに「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」があります。

 ここに「通信兵」のことがでてきます。

 目黒は逓信省所管の学校でしたが、村松の少年通信兵学校は陸軍省の所管です。

 どちらにせよ、当時「無線による通信」は最先端のハイテクだったのですね。
 そして少年たちは一生懸命その技術を勉強したのです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/15 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUP様
 ブーゲンビリア様

 私は昭和18年10月繰り上げ卒業で大日本航空株式会社入社・・・東南アジア各地を飛び歩きました。  
 目黒無線の校歌をお知らせします。1939、2,11制定

  1、御稜威(ミイツ)燦たる 千代田の宮の
    西南近き 夕陽が丘に
    鉄塔高き われらが母校
    桜花に映ゆる 姿は聖し
    いざや究めん 世紀の科学
  2、滄溟の霧 碧空の雲
    大地の嵐 瞬く隙に
    貫き到る 無線の言葉
    伝うる我らが 責務は重し
    いざや磨かん 技術と心
  3、霊峰富士を雲間に仰ぎ
    皇国魂 雄々しく強く
    進む文化の先駆者我ら
    目黒無線の理想は高し
    いざや讃えん 母校の使命  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/15 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マーチャン様

 通信兵に関する貴重な記事を教えていただきありがとうございました。
 メロウ倶楽部というサイトのことも今回初めて知りました。

 satyan様

 あの戦争の時代に通われていた方と、こうしてインターネットでお目にかかれることが夢のようです。
 目黒無線の校歌、一言一句、胸に沁みました。以前、講習所跡地脇の坂道を歩いた時の、坂上からの眺めを思い出しました。今は高層ビルが立ち並んでいるあの辺りが、夕陽が丘と呼ばれていた頃が偲ばれます。お心のこもった文章をありがとうございました。

 実は、数日前、目黒会からメールが届きました。資料庫を整理していたら、偶然、昭和14年本科入学者写真集が見つかり、その中に父の写真を発見することができたと。スキャンした写真を添付してくださいました。戦前または戦中の本科の写真で保存されているのはこの1冊だけということで、とてもラッキーだったと書かれてありました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/16 5:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ブーゲンビリア様 初秋の候お元気でお過ごしの事と存じます。私が戦後に抑留されていた赤道直下の島 「レンパン島」につきましては 私の拙いブログをご覧下さい。又戦後半世紀を経て再び訪れた レンパンの写真はホームページに載せてありますので併せてご覧戴けましたら幸甚です。

 ブログ ( http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/ )

 ホームページ ( http://user1.matsumoto.ne.jp^s.naga )  

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/16 5:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 satyan様

 ブログのご紹介をいただきありがとうございました。
 「アジア鎮魂の旅」さっそく拝読させていただきました。
 戦場での体験を思い出し、文章にしたためるという作業は、たいへんな苦痛と勇気を伴うことだと想像いたします。
 父の亡き後、同期の方々をお訪ねしてお話を伺ったことがありますが、誰しも本当に辛いことは生涯口には出さず、お腹にしまったままなのではないかと感じました。

 父は、南支→仏印→タイ→マレー半島→シンガポール→スマトラ、終戦はメダンで迎えました。戦時中の話はほとんど口にしませんでしたが、晩年は、警備のためマラッカ海峡に浮かぶ孤島パンダン島にいた時の、のどかで美しい風景をとても懐かしがっておりました。日本に帰る気がしなくなるくらいだったそうです。そして、どんな思い出があるのか、ブーゲンビリアの花が好きでした。今でも12年目の鉢植えを私と母で育て続けています。

 私自身も、マレーシアへ父の散骨と慰霊の旅を計画しておりましたが、仕事や生活の事情でやむをえず断念したままとなっております。いつの日か、父の見た風景を確かめに行きたいと思っております。

 貴重な記録をありがとうございました。

引用:
ブーゲンビリア様 初秋の候お元気でお過ごしの事と存じます。私が戦後に抑留されていた赤道直下の島 「レンパン島」につきまホームページ ( http://user1.matsumoto.ne.jp^s.naga )しては 私の拙いブログをご覧下さい。又戦後半世紀を経て再び訪れた レンパンの写真はホームページに載せてありますので併せてご覧戴けましたら幸甚です。
ブログ ( http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/ )
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/8/16 5:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

ブーゲンビリアさん

 先般インドネシアのスマトラ島の地震大変だったね・・・御尊父も生存されていたなら、救出 慰問に行きたい思いに駆られた事でしょう。また御尊父の活躍された南の島を訪れたいとの事 是非行って来て下さい。 私も倅を伴ってマレー半島、シンガポールそして死ぬ様な思いで耐え忍んで重労働に服した抑留の島 レンパン島に行き荒れ果てたジャングルを見ながら親子で話し合った状況が忘れられません。私も 貴方の大好きな花は?と聞かれれば即座に「ブーゲンビリア」と答えるほど好きです。 

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