戦時標準船「第二高砂丸」の思い出 藤原 浩
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- 戦時標準船「第二高砂丸」の思い出 藤原 浩 (編集者, 2012/12/14 9:30)
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投稿日時 2012/12/14 9:30
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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私は昭和20年3月、官立無線電信講習所(現在の電気通信大学)船舶通信課(第一部普通科)を卒業。第二級無線通信士資格を取得。終戦直前の4月、2D型戦標船に配属され、主として朝鮮の清津(北朝鮮)より新潟まで満州生産の大豆輸送に従事しました。
当時、日本海は「天皇の浴槽」、瀬戸内海は「皇后の浴槽」と米軍に言われ、海峡に日本海軍が敷設された機雷により、米潜水艦の侵入は不可能とされていて比較的安全でした。しかし、空中よりB-29による磁気機雷投下で、一変して物騒な海に変貌していました。
そのような物騒な海で、大任を果たしたこともあって、私の乗船していた船(舞鶴海軍運輸部所属の徴用船、当時の船員手帳を空襲で失ってしまったため、船名、所有会社については不明)は感謝状をいただきました。
その後、間もなく招集され、広島の暁16710部隊(ア隊3区隊、約40名)、幹部候補生隊に入隊。後に通信将校陸軍少尉になりました。原爆投下時は広島(比治山皆実国民学校)におりましたが、九死に一生を得て終戦を迎える事ができました。
戦後、昭和26年になって、「第二高砂丸」に一等通信士局長として乗船、以後5年間同船に勤務しました。
改E型は、通称「八八」と呼ばれたタイプでしたが、私が乗船した当時は、改造されて916総トンに増えていました。
船型は、角張った日本戦時標準船独特のもので、船尾機関でした。
機関は、機関員が汗まみれになって蒸気を上げなければならない石炭焚きのボイラーで、確か500馬力だったと記憶しています。
船室の通路は、必要最小限と思われる程の広さしか無く、風呂に水を張るために手押しポンプを使うというのも私はこの船で初めて目にしました。ちなみに、浴槽の中は海水で、上がり湯のみに真水を使うと言う節約ぶりでした。
碇泊中、夜は発電機を止めるので、船内では原始的なランプを使用していたことも強く印象に残っています。但し、無線室は、送信機に必要な電池がありますので、そのおこぼれで照明は電球でした。なお、本船の発電機は、直流の100ボルトでした。無線機は確か安立の50ワット中波送信機、電話はついておらず、送信機の電源は電池にて直流モーターを回し、付属している交流発電機にて500サイクル100ボルトの電流を発電したと記憶しています。
外部の空中線は三条でした。
乗船後、8月頃に朝鮮の郡山へ硫安肥料を積み取りにむかい、二週間かけて現地に到着しました。
当時は丁度朝鮮戦争の最中であり、非常に危険な航海でした。国連軍が北軍をやっと追い上げていましたが、われわれのすぐ横で雷のような砲声が轟くこともあり、生きた心地はしませんでした。
米軍は、「制空権は我々が握っており、北軍の爆撃機は絶対に寄せ付けないから安心して欲しい」と伝えてきたので、それを信じるしかありませんでした。
本船の荷役については、バースを米軍が占領していたこともあって、後回しとされ、お陰で一ケ月も狭い港内に碇泊させられる結果になりました。
われわれは、内地を発つ時、三週間で往復することを予定しており、食料や飲料水などもそのスケジュールに合わせて積んでいたため、この碇泊中は大変な節約を要求されることとなり、非常に苦労したことを覚えています。
当時、日本海では、北朝の敷設した機雷が多数流れていて、非常に危険な状態でした。本船のような規模の船が機雷に触れれば、瞬く間に轟沈してしまいます。
このような状況ですから、我が日本の海上保安庁の巡視艇が夜間に特に強力なサーチライトを使って海面を照らしながらパトロールをしていました。
本船も機雷らしき物体を発見し、位置を保安庁にしらせたことがありましたが、後日これはただのドラム缶だったといった例もありました。
また、機雷のようなものを発見して保安庁の巡視艇に通報し、その機関銃で銃撃したところ、目も眩む閃光とともに大爆発をして驚いた事もありました。
当時の保安庁関係者は、旧海軍からの人達が少なからずいましたが、こうした危険な仕事に就いている姿を見ると、敗戦海軍とは言え、強い海軍魂を感じ、頭の下がる思いがしたものです。
本船は、機関員が頑張って蒸気を上げ、エンジンをいっぱい開けると身体を揺すって一生懸命走るくせがありました。航行中、そのきしみを聞いていると、一体どれほどの猛スピードが出ているのかと心配になるほどでした。しかし、実際にはせいぜい9ノット程度出れば良く、全く愛橋のある船でした。
私は本船で、北は北海道から南は九州まで、日本全国ほとんどの港につれて行ってもらいました。
劣悪船、消耗品と形容されながらも、戦後の海運界の第一線にたち、その後へのリリーフ役を勤めたこれらの戦時標準船も、改E型は昭和38年頃、改A型は昭和33年頃、いずれもその姿を消し去りました(世界の艦船誌)。
彼女らは、建造当時、せいぜい2~3年の寿命と考えられていたそうですから、功なり名を遂げたといっても良いでしょう(世界の艦船誌)。
私はその後、海運会社を退職し、地元の民間放送局に勤務。定年を迎え、現在に至っています。
「第二高砂丸」は昭和19(1944)年2月27日起工、同年3月20日進水、同月26日に竣工というスケジュールで建造された。建造したのは播磨造船所で、改E型専用量産工場として新設された松の涌工場の西船台で誕生した。建造番号は2515。船主は蓮菜タンカーだった。建造当時の機関はディーゼル1基で、馬力は430BHP、速力は10.10ノット。新造時の総トン数は834トン、重量トン数は1617トン(播磨造船所50年史の建造船舶一覧表による)。
《写真説明》
昭和26年5月頃 新潟港で石炭満載し出向直前の「第二高砂
丸」TakasagoMaruNo.2全景。
(写真上)
改E型(2E型)の一隻として昭和19年3月、播磨造船所で建造され、終戦時残存した。その後は船橋などの各部を改造し、写真のような船容になった。このタイプはデリック・ブームがトラス構造の簡易型のものが多いのだが、本船は交換したのか異なっている。
(写真下)
「第二高砂丸」無線室内部。
[第二高砂丸無線室他】
設置場所:上部操舵室左舷左側下部
三部屋:一室は無線室送受信機設置
:一室はベッド他居住室
:一室は発電機他電池室
写真に写っている人物は、筆者夫妻である。本船の信号符字であるJPDFの文字が書かれている機械が無線送信機50Wで、その右上の白く光って見える部分に丸窓がある。