チロハニ村での出来事 田多 幸雄
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- チロハニ村での出来事 田多 幸雄 (編集者, 2013/1/8 7:33)
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投稿日時 2013/1/8 7:33
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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私は陸軍二等兵としてバタビア(現ジャカルタ)にある電信15聯隊で訓練を受けていた昭和20年8月15日、日本軍は無条件降伏し太平洋戦争は敗戦と言うことで終結した。
ジャワにおいては、インドネシア民衆はこの機会に、独立運動の狼煙(のろし)をあげた。これを制圧しようとするオランダや連合軍との間に戦争が始まった。
第16軍(治(おさむ))の各部隊は、バタビア市内の兵舎を明渡し、山間地へ移駐し、連合軍の指揮下に入ることとなった。
日本は無条件降伏で軍隊が消滅したはずなのにインドネシア軍と連合軍の狭間で各地山間部の治安維持、警備活動に従事することになり軍の組織が厳然と生きていた。
9月初めバタビアから南に約70キロのシンダンラヤ村(プンチャック峠の高原地帯・元武田製薬のキニネ一工場)に移駐した。その後スカブミ→ボゴール→チサルワ→チパタット→テガルパンジャンと西部ジャワの山間部の町や村など転々と所を変え連合軍進駐のための道路の確保、邦人キャンプや陸軍病院などの警戒にあたり、ここチロハニ村に来たのは昭和21年の2月頃だった。
スカブミ街道(ポンドゲテからスカブミに通ずる)から細い道を左へ。橋を渡り道は坂となり幾度か曲がること5分位でチロハニ村に到達した。バタビアにあった日本陸軍部隊は敗戦により西部ジャワ山間部のボゴール州奥地に分散集結した。
南方第五陸軍病院(院長池井陸軍軍医大佐)も移転を余儀なくさせられチロハニ村の古いゴム工場を改築し病院が開設された。この病院は千人ちかくの入院患者を収容し大半はマラリア、アミバー赤痢、腸チフスなど熱帯特有の伝染病だ。私達の部隊は此処の警戒警備の任に就くことになった。この村は山に囲まれ東方にグテ山(約3,000メートル)がそびえたつ。標高500メートルのこの地は気候が良く、熱帯地とはいえ夜は涼しく気温15度位、重ね着をしないと寒い。榔子やゴム林バナナをはじめ果物の木が生い茂る。
私達は病院近くの空き地に椰子の葉で葺いたアンベラ造りの兵舎に居住した。
動哨
動哨(銃を手に病院敷地周囲を移動しながら哨戒)。特に夜間は恐かった。1月上旬に哨戒中の兵隊が病院西側の坂道で銃を強奪せんとしたインドネシア人に背中を刀で切付けられ命を落とした。今私もその場所を独りで警戒にあたる。暗闇から何者かに襲われそうな予感がする。銃には実弾がこめられ、引き金の人差し指は緊張でこわばる。幸いにして私の動哨中弾を発射する事態は起きなかった。
ある午後のこと。銃を手に哨戒中、数十メートル先の近くの木陰にたむろするインドネシアの男達数人と馬2頭が目に入った。よく見るとナントそれは種付けで牡馬と雌馬との交尾の真っ最中。ダイナミックな動きに驚いた。二十歳(はたち)の私には刺激が強すぎた。
衛兵所勤務をしていた或る日、離脱した日本軍人3名を先頭にインドネシア人数十人がやってきた。直ちに部隊長へ報告。代表として日本人3名を部隊内に入れ彼等の要求を聴くことになった。
・日本に帰っても希望が持てない。
・先に離脱した将校や、インドネシア軍からの誘いに乗った。
・一度終わった人生だ、この地で別の人生を。
・今迄、戦い方を教育してきたインドネシア軍の仲間へ入って共に戦いたい。
・祖国日本を捨てインドネシアの地に骨を埋めたい。
等の理由により、相当数の日本兵達が武器を手に部隊を離脱し現地民の許へ身を投じて行った。私は、そのような事も出来ず日本軍を信じ部隊と共に行動をして来た。
暁の銃声
「我々インドネシア軍は、独立の為連合軍と戦っている。それには武器が必要だ。日本軍の所持している銃等を譲ってほしい」「それは出来ない。日本軍は連合軍に無条件降伏した身だ。連合軍の命令に背く訳には行かない・‥」など押問答が続く。
部隊長命令で「勝手に離隊した者をこのまま見逃すことは出来ない」と三人の身柄を拘束してしまった。それからは連日部隊内でY中尉により取調べが始まった。看守の任にあたった私は、取調室のドアの隙間から取調べの様子を垣間見る事が出来た。取調官のY中尉の前で、後ろ手に縄で縛られた日本人は何か哀願(命乞い)している様にも見えた。
身柄拘束してから数日後の明け方
「パーン、パーン、パーン」
続け様に闇をつんざく銃声「敵襲来、直ちに配置につけ!」
銃に弾をこめ、周囲の暗闇に銃口をむけたがインドネシア独立軍の襲撃はなく間もなく警戒が解かれた。その後隊内に噂が流れた。「逃亡者は軍紀に反したとして銃殺刑。それを極秘に執行する為、銃声をインドネシア軍の襲来にカムフラージュした。丘の上(銃声の聞こえた方向)に穴を三つ掘り、その前に立たせて銃殺をし穴に埋めた。・・・」
私の様な一兵卒の身で、部隊上層部の考えは知ることは定かではないが、その3人が可哀相に思えた。部隊を離れ、インドネシア民衆に身を投じたが、日本軍への武器引渡しの交渉役にと尻をたたかれ、元の古巣の日本部隊へ。そして身柄拘束され、敵前逃亡の名のもとに銃殺とは。戦争も終わり内地では、帰りを待っている肉親がいるのに。
自給自足
食糧に事欠く日本軍部隊、自給自足とのことで野菜作りや豚の飼育などに力をそそいだ。最年少の初年兵の私に豚小屋当番があてがわれ横江軍曹のもと成瀬兵長との3人で豚の飼育をやった。朝早くから豚小屋の掃除。それが終わると炊事場から残飯をドラム缶に詰めリヤカーで運搬。日に3回豚に餌を与えた。「豚1頭持って来てくれ」と炊事場から連絡が入る。一番肥えた豚を選ぶ。1メートル四方位の木の頑丈な檻に嫌がるのを無理矢理押込み、数百メートル先の炊事場までリヤカーで運ぶ。
炊事場入口に軍属の恐いおっさんが三つ鍬を手に立っていた。その前にリヤカーから檻をずり降ろした。その途端、おっさんは手に持った三つ鍬を振りかざし力一杯檻の鉄格子の隙間から豚の首すじ目掛けて一撃。血(ち)飛沫(しぶき)は1メートル位ほとばしり悲鳴を上げての断末魔。力尽きたとみるや艦から引き出し煮えたぎった大鍋へ(皮を剥きやすくするため)投げ込んだ。残酷な10分間のシーンだった。
翌日トンカツとなり多くの兵隊たちの口に入った。
チロバ二村での生活は7月頃まで続きその後ポンドゲテを経てカンポンマカッサルへ移動し、ここで武装解除をされバタビアの作業隊に入り復員する昭和22年1月まで連合軍の捕虜となり重労働作業に服した。
あれから60余年の歳月が流れた。当時若年の兵隊だった私も傘寿(さんじゅ)を越えた。遠い昔のジャワを思い出す度、過ぎ去った時の速さに驚かされる次第である。