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マラリア 田多幸雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/9 6:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 マラリアとは、南の国に棲息する蚊が媒介し、南方特有の熱帯病である。太平洋戦争中ビルマやニューギ二ヤでは、飢えとマラリアで多くの将兵が苦しみ命を落としていった。

目的港へ

 昭和18年7月31日、貨物船「あるぐん丸」(6,666トン)は、サイゴン(現ホーチミン市)から外米(仏印米)を満載し、名古屋選へ向けて伊勢湾を北上していた。
 サイゴンへ武器、弾薬、兵員等の輸送を終え、その帰り道である。敵潜水艦の攻撃を受ける事も無く、どうやら最終港に着けそうだ。石原産業(四日市市)の大煙突から白煙の棚引いているのが望見できる。あと入港まで2時間位だ。

発 熱

 午後3時頃、無線室の当直勤務を終えた私は後部デッキでメスルーム(セカンドクラスの高級船員)の数人と入港後の楽しみ等をカタフツテ(船員語で雑談すること)いた。
 突然、右横腹が引きつり気持ちが悪くなった。慌てて自室に戻りベッドに横たわった。しばらくすると横腹の痛みが治まったと思ったら急に寒さが襲ってきた。真夏だというのにスコク寒い。ガタガタ震えてどうにもならない。ボーイさんに頼んで毛布を幾枚も掛けてもらったが震えは止まらない。そのうちに体中が焼け付くように熱くなってきた。高熱で体温計は40度を越し意識もうろうとなる。時計は午後5時を指していた。
 着岸したのか船内は急に慌しくなる。悪寒そして高熱と回復の様子は無く、船長の命令で即、下船入院することになった。

入 院

 高熱で腰が抜け、立つことも出来なくなってしまった。台湾生まれのボーイの呉さんの背に負われてタラップを降り岸壁に待機していたリヤカーに乗せられて港近くの医院に入った。病室は狭い畳の部屋でベッドが一つ置かれていた。夏の日も暮れかかり外は薄暗かった。
 大阪商船名古屋支店の人達は、早速、私の家族へ電報で連絡を取ってくれたが、能登の輪島で遠い。幸いにして祖父(母方)が桑名に住んでおり、一番先に駆けつけ、徹夜の看病をしてくれた。夢うつつの中に、祖父が洗面所で氷を砕く音が遠くかすかに耳につく。
 当時は点滴も無く熱冷ましの注射と氷嚢と氷枕で頭を冷やすだけだ。翌朝、輪島から夜行列車で小学生の妹と弟を連れて母が医院にやってきた。心配そうに覗き込む母の顔がうっすらと目に入る。
  病状は一進一退で、極度の悪寒、戦慄、高熱、その後多量の汗、そして平熱になったかと思うと又発熱の繰り返し。衰弱甚だしく起き上がることも出来ない。先生は病名も判らず頭を傾げるばかりである。

 荷揚げを終えた本船は、私の交替通信士を乗船させて数日後、再度サイゴンへ向け名古屋潜を離れて行った。

転 院

 家族の看病、先生の手当てと日が過ぎて行くが病状悪化し衰弱ひどく、一週間後名古屋大学附属病院に転送されることになり、病院からお迎えの寝台車に乗せられ医院を後にした。

 名大病院でも病気について診断結果が中々出なかった。
 約2週間もしたら熱が下がり、体力も回復し歩行が可能となった。
 病名は「マラリア」だった。きっとサイゴンに上陸中に感染し、潜伏期間を経過し名古屋入港直前に発病したらしい。

運 命

 私ひとりを名古屋に残して出航していった「あるぐん丸」は、サイゴンで外米8干トンを満載し内地に向け帰港中の昭和18年9月21日午後9時頃、東シナ海尖閣諸島、魚釣島近海でアメリカの潜水艦の魚雷を受け沈没した。
 
 もし、私が入港直前にマラリアを発病していなかったら「あるぐん丸」と運命をともにしていたかもしれない。

 我々輸送船乗組は、一旦出港したら、何時、敵潜水艦の魚雷攻撃や敵機の爆撃を受け命を落とすかもしれない。戦争には命の保障はない。
 あのマラリアの物凄い悪寒と戦慄そして高熱の酷さは忘れられない。

 現在、日本国内では、マラリアが発生しないだけでもありがたい。

 *大阪商船株式会社所有貨物船「あるぐん丸」6660トン。戦前はインド航路就航。船名は、アルグン川からとったもの。私は昭和17年10月22日から昭和18年7月31日まで乗船しておりました。
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