無線講選科第三期生(三選会)始末記 河村泰平 前編
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投稿日時 2013/1/10 8:53
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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昭和13年9月、受験約680名、合格80名。殆んどが応召、応召しなくても入営し新兵教育後、戦争地区に異動させられ、幹部候補生として将校教育を受けさせられ、少尉任官同時に、第一線小隊長となり、俄烈な十字砲火のため、戦死者が多かった。
高崎一郎は昭和17年4月第二航空戦隊司令部通信科員で空母『飛龍』に乗組みそれぞれの作戦に同行、企図の戦果を挙げて第一段作戦を終了。彼の部隊は機動部隊と呼ばれたが、南雲中将が指揮を取っていたから、「南雲部隊」とも称した。空母艦群を主力とし、支援隊、警戒隊など戦艦、重巡を含む艦艇群により構成されている部隊。南雲中将自ら指揮する第一航空戦隊は空母「赤城」「加賀」の二隻を一航戦と言った。山口多聞少将指揮する第二航空戦隊は、空母「蒼竜」「飛龍」の二隻二航戦という。高崎は上記の様な書出で自身の体験記を書き出している。彼の自家本「相葉記」下巻・別冊「軍歴」付記ミッドウェイ従軍記とガダルカナル攻防戦記を同期の宜しみで一冊頂戴した。ミッドウェー海戦では、四隻の日本空母陣は全滅させられた。が不死身の高崎は『不死身』の様に救助されていた。つまり運の良い者は生き延び、悪い星の下に生れた者は助けたくとも助けられない。『飯野海運』に乗船中の稲村栄は満船の航空燃料の処を米潜にやられて、海が燃えるので万事休した。稲村は出航前、近衛師団司令部の幕僚部の河村を訊ね、『とても危険だ。今度の航海が最後の航海にならねばと祈っている。』と私に言った通りになってしまった。函館名門校千代が岱小でも、また函館中学でも机を並べた職業野球セネタースの名捕手伏見五郎少尉は一木支隊に属し、ガダルカナル戦線で白刃を持って攻撃したが、米陸軍の機銃にやられてしまった。また吉田純一郎も下関港着機中で爆撃でやられている。妹を連れて来た稲村は『若し俺が万一の事があったら、これを頼む』と言ったが私だって、お互い今日あって明日の事は誰も知らないのだしYesとは言えない。
それなのに高崎は『ガダルカナル攻防戦記』で幸い生存していた。感銘を受けた処をご紹介したい。
『乗船急げ』の号令が下るや、わあっと得体の知れない声が上がり、舟艇めがけて人の群れが襲いかかった。正しくそれは襲いかかるという形容が一番ぴったりしていた。私も奮い立った。自分では全力疾走しているつもりだったが果してどれ程の速度が出たが。両手を前に出してよろめきながら前進していただけだったのかも知れない。気が付くと私は胸の辺まで海水に漬っていて舟艇の縁が眼の前にあった。舷側にかけられた急造の梯子を自力でよじ登るのである。私も遅れじとかじり着いた。両腕にありったけの力をこめたつもりだったが、身体は海水から仲々抜けない。
私は海中に投出されていた。先を争って乱暴にすがりつく人の重みに耐えかね梯子が横ざまに倒れてしまったのだ。夢中で海水を掻きよろめき立った私の視界に、既に動き出し、緩やかに旋回しながら遠ざかって行こうとする船尾が映った。さびしい諦めの感情が私を押し包んだ。(後略)
まるで芥川竜之介の「蜘味の糸」の様。彼の方は“俊寛僧都”の其れに似ている。彼の諦め、生への執着が交互に出ている。戦後に吾々三選会は
屡々温泉旅行をし、宴果て一同雑魚寝する前の誰かが持参のブランデーをやり乍ら『その時わたしは?』を一席ずつ語る事が例となっていた。大陸で戦病死した藤田浩通は浅草六区で著名な鰻料理屋。呼ばれて一度ついて行って見事な大鰻の蒲焼をゴチソウになった。コワモテの彼に似合わず鰻の『手術』が苦手で一代目の鰻屋の二代目は大陸で死んだ。でも彼はちゃんと三代目を造っていたと言う。
山科正三良は選Aのそして河村泰平は選Bの夫々委員だった。本郷の菊坂に住んでいた稲村栄は、朝食をすますと近所の下宿屋三国館に泊まっている河村の部屋に勝手に入り火鉢から煙草の『光』の吸殻を煙管で河村の頭の上でプカブカやり出す。河村も目をさまし起きる。
昭和16年12月8日大東亜戦争の開始に至る迄、昭和は続いていた。それ迄無線講の年一回の総会が兵隊の私に都合よければ出席出来て軍服軍帽姿で牛牽剣を下げて出席させて貰った思出がある。加茂さんは本科二年だったが私の部隊に入隊して来られた。冬、武道大会で加茂氏は剣道で上級下士官と手合せしたが、彼の方が優勢で勝った。千葉県下で秋季演習があり夜、彼と民家に泊る事になり、奥座敷に彼と泊ったら、夜中にミシリ、ミシリと跫音がして、この家の主人と思われる人が、低声で、「止めなさい。兵隊さんに手をかけてはイケナイ」との制止も聞かず頭の上の襖がスーウと開き、この家の女房殿が加茂さんと私の頭上に坐った。件の亭主の制止や、寝室に帰りましょうとのパントマイムはコツケイであった。二人が引揚げてから加茂さんと私は互に見合わせて恐ろしかった…と小声で話合った。
加茂さんは亡くなったと聞いて残念に思った。
私は、折角投稿させて頂いた機会に本誌読者諸賢に「ミッドウェー海戦」の著者高崎一郎氏の自家本『軍歴』付記ミッドウェー海戦従軍記の中から此処に御紹介したい。御本人は日本郵船KK戦時史編纂室「日本郵船戦時船史編纂室」在勤中の御労作であり、三選会常任委でもあった。本人に紹介のOKを申入れても『よせ』と言うにきまっているから私は駄目もとで紹介する。何故かと言うと同期の彼は海軍、私は陸軍だからだ。
「相葉記」下巻・別冊「軍歴」付記ミッドウェー海戦記(高崎一郎 元海軍第二航空戦隊司令部付)より
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運命の日
一体、ミッドウェー作戦とはどんな作戦なのか、それはミッドウェー島を攻略して日本軍基地を推進する。合わせて出撃してくるであろう敵艦隊を撃滅しようというものであった。
乾坤一擲、この際大日本帝国海軍の誇る戦艦『大和』『武蔵』を始め、帝国海軍連合艦隊の持てる兵力を大挙押し出して敵艦隊と一戦を交える。と言う雄渾壮大な計画の基に実施される大作戦なのである。これはドーリットル爆撃隊の本土空襲が引き金となった作戦と言われる。第一段作戦当時、我々機動部隊や前線に出て東奔西走していた艦戦の将兵は、でんと内地に居座ったまま、世界に誇っていた40センチ主砲を一発も射ったことのない『大和』を無用の長物視する傾向があった。それが初めて出撃してきたのである。ミッドウェー占領隊には陸軍一木支隊(旭川第28連隊の一個大隊、連隊長一木大佐)と、海軍第二連合特別陸戦隊(司令官太田実大佐)が当る。これらの部隊は輸送船12隻に分乗、第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、最上、三隈)第二水雷戦隊(軽巡神道以下駆逐艦12隻)が護衛してすでにサイパンを出撃して太平洋上にある。我々南雲部隊は、ミッドウェー占領隊の上陸前にミッドウェー島を空襲し、所在航空兵力、艦艇及び基地を覆滅して攻略部隊の作戦を支援する。その後は同方面を機宣行動し、敵艦隊の捕捉撃滅に当るのが任務であった。そして敵艦隊が出てきたら連合艦隊の本隊、即ち『大和』ら戦艦群が艦隊決戦を挑もうというもので、『大和』ら本隊は我々より2日遅れて柱島を出撃、今我々の後方600浬の洋上を進撃中という。前日来、小雨が執拗に降続き、雨まじりの靄に包まれながら進撃していたが、予定の変針点に達した6月3日、夜明け前から靄は次第に霧に変わり、ついに濃霧となった。艦隊は霧中航行部署に就き、各艦探照灯を点じ自艦の位置を示していたが、隣接艦の探照灯さえおぼろ月のようにぼんやり見え隠れするだけであった。ここで『赤城』が隊内通信系を使って『変針命令』を伝えた。微弱電力送信であったが、後方600浬の『大和』にも捉えられたという。これでは敵方に傍受された恐れがあり、全艦隊も一層敵襲を覚悟しなければならなかった。
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(実験)濠州シドニー出港直後、対銚子無線空中線電力25「ワット」で使用波6メガでのQSA/QRKは3の応答であった。電波管制を命じた人でなければ之を強行は出来ない。恐らく作戦参謀は激しく抵抗しただろうと少考する。此れは大変な賭けに等しいからだ。
6月4日、午前中我が輸送船団が敵哨戒機に発見され、午後にはB17爆撃隊9機の爆撃を受けた。幸い船団には被害がなかったが、その夜、敵機一機の低空雷撃を受けたという。そしてその夜、ついに我が南雲部隊も敵哨戒機に発見されたのである。各艦は一斉に不安と緊張が高まって来た。
6月5日、この辺りの日出は東京時間午前2時である。空にはかなりの雲があり天候はあまり良くない。海上は平穏で今ミッドウェー空襲の第一次攻撃隊が発艦しようとしている。東の空がかすかに明るく水平線がぼんやり見分けられる。午前1時45分、第一次攻撃隊は出ていった。しかし日の出と共に敵飛行艇に接触され始めたと言う。対空戦闘の一時解除を待って当直を交替し、私(筆者高崎)は暁のまどろみに入った。早朝、第一次攻撃隊が出払ったあと私は控え室で仮眠をとっていた。
午前4時45分頃、突如、対空戦闘ラッパが艦内伝声管を通じて轟き渡った。私の戦闘配置は無線室である。戦闘配置につけの号令とともに無線室に飛び込んだ。しかし司令部員はいわゆる助人で固有の配置がない。約1時間、飛行甲板の両舷にある高射機関砲の激しい発射音、敵機のか味方戦闘機のかゴーッという通過音が入り乱れ、続いた。この空襲はミッドウェーの陸上基地から攻撃して来た敵雷撃機、爆撃機および陸軍機の空襲であったそうであるが、上空直衛の味方ゼロ戦隊の見事な活躍でその大半を撃墜し、味方空母に被害はなかった。
丁度その頃、ミッドウェー島攻撃から帰ってきた第一次攻撃隊の飛行機群が、夫れ夫れの母艦に着艦を始めた。午前6時20分頃であった。母艦では待機中の第二次攻撃隊の飛行機に艦船攻撃用の魚雷や爆弾を、陸用爆弾に付け替える作業に忙しかった。というのも、第一次攻撃隊からミッドウェー陸上攻撃に際して、戦果不十分として『第二次攻撃の必要あり』との電信を受けていたからである。
報告を受けた時点で母艦群は、既に敵空母攻撃に備えて対艦船用爆弾及び魚雷の装備で、飛行甲板に待機していた。しかし、第一次攻撃隊指揮官からの報告によって、第二次攻撃隊を出すことになり、これを急遽陸用爆弾に装着換えしなければならなかった。
ところが第一次攻撃隊を収容する直前になって、『利根』の偵察機から敵機動部隊の発見が伝えられ、母艦群は再び雷撃装備に再変換と言うことになり、大混乱になった。敵艦隊発見の報告が入った時点で、二航戦司令山口少将は、直ちに攻撃発進することを意見具進したと言われる。
これは陸用爆弾のまま攻撃隊を出すと言う事であった。が、南雲長官は正規の編成、攻撃方法による攻撃を選んだと言われる。
(後編へつづく)